311〜 この島をみつめて

この美しくも不思議な島を、ファインダーを通して見つめつづけてきたフォトグラファー内藤順司と
目を瞑って内側から見つめつづけてきた春名尚子。日本という島の現在とこれからの世界をみつめる旅の記録。

311以降の世界、 どのように生きてゆけばいいのか。

被災地を歩き、ひとびとと語らい、写真を撮りながら、模索をつづけてきた内藤順司。
ひとのこころと身体に触れる施術家として、ひとびとの悲しみや傷と向き合い歩いてきた春名尚子。
写真家・内藤順司と施術家、作家・春名尚子 ふたりがみつめつづけてきた この島の現在の記録をすこしずつ。
この島の、いのちのきらめきをみつめつづけることは、これまでの日本とは違う

あたらしい道を切りひらいてゆく糧になるのだと信じて。


311~ この島をみつめて
    春名尚子 
     
物書き・歌うたい・施術家   3月11日後の3月14日に九州へ避難。
     生きている限りつづく旅の中で、届いてほしい想いはただひとつ。
     「ほんとうにあなたがしあわせを受け入れることができたなら世界は変容する」       
     そのことをさまざまなかたちで表現しつづけるためにこの惑星に立っていま す。
     
春名尚子公式サイト

   

311~ この島をみつめて
    内藤順司 
      写真家 広島出身  2010.03.12発売「もうひとつのスーダン 日本人医師 川原尚行の挑戦」
      基本は32年間音楽フォトグラファー・・浜田省吾、スピッツほか多くのミュージシャン
      を撮影。
      3.11災害後、
3月14日に川原医師とともに被災地へ入る・・・これからも何度も向かう。
      JUNJI NAITO公式ブログ
 内藤順司公式サイト  

 

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「どの程度の被曝なら許せるか?」



原発の事故をうけて
わたしが考えたことは、それだった。




3.11
地震をきっかけにして起きた原子力発電所の事故。

最悪の事態を想定しなくても、あたりまえに東京に放射能はやってくる。
これから先の事故の状況によって、その濃度や核種の違いはあっても、
放射性物質は確実に、わたしが住んでいるところまでやってくる。


「2歳と15歳の子どもが被曝することを、どの程度までなら許せるのか?」

答えは、ノーだった。

どの程度? 

程度がどうであれ、そんなものは許せるわけがない。
ここまで大切に育ててきた子どもたちを被曝させることは、わたしにはできない。

いま逃げれば、まだ間に合う。


3月14日、わたしは東京から避難する決意をした。


けれど、息子の中学校の卒業式は18日。

避難を決めたわたしが次にしなければならないことは、
荷物の準備ではなく、息子の説得だった。


「原子力発電所でとてつもない規模の事故が起きていて、
 放射性物質がここまでやってきそうなの。
 おかあさんは、こんなことが起きないように願って活動をしてきたけれど、
 原発が停まる前に地震が起きてしまった。
 
ごめんなさい。
 停められなくて、ごめんなさい。


 あなたとちっさいのを被曝させるわけにはいかない。
 西へ逃げようと思っているの。
いますぐに。
 


15歳の息子には、事故の進捗を逐一伝えていた。
彼には放射性物質の怖さも伝えてきたつもりだった。

  

「嫌だ。なに言ってるの? 卒業式はすぐだよ」

「ごめんなさい。卒業式には出られないよ」


「嫌だ、俺は東京を離れない。このままここで暮らしていく。


 どうせ、本当のことなんて知らされないんだろ?
 このままここでの日常は続いていくよ。
 なのに、なんで俺だけ避難しなきゃならないの?

 みんな逃げたりしないよ。嫌だ。俺は嫌だ。
 病気になってもいい、癌で死んでも構わない。

息子のその気持ちはとてもよくわかった。

当たり前に続いてゆく日常の中から、突然自分だけがいなくなる。


どれほど説明しても、目に見えず匂いもない放射能は、
彼にとって物語や映画の中の敵のような存在なのかもしれない。


目に見えない放射性物質が身体に与える影響の怖さより、
リアルな日常の中から自分だけが消えてしまう恐怖の方が勝っていたのだろう。


「おかあさんは、俺の身体のことは心配してくれるけれど、
 俺のこころのことは全然心配してくれない。
 
 たとえ元気でいられたとしても、俺のこころは傷つくよ。
 避難して何も知らないところに行って、一から始めるの?
 卒業式だよ、卒業式に出られないってどういうことかわかるの?」


ただただ、謝るしかなかった。
それほどまでに危険な原発を、事故が起きる前に停められなかったことを
謝り続けるしかなかった。


どうしてこんな思いをしなければならないのか。
なぜ、住み慣れた場所を離れなければならないのか。

こんな思いをこの先どれだけの人びとがするのだろう。



事故によって受ける健康被害と、子孫へ与える影響。
強引な避難によって受けるこころの傷。

そんなことを比較して、
どちらが軽いか、どちらが重いかなんて、決められるわけがない。


避難することによって受ける悪影響と
避難しないことによって受ける悪影響。

どちらも、すぐに答えが出るわけではない。
ただただ想像するしかないのだ。


ありったけの想像力を駆使して、
子どもたちが、すこしでもしあわせでいられる未来を選ばなければならない。

ひとりの母親として
連綿といのちをつないできた人という動物の一員として。


突然、事故が起きて、そんな究極の選択が目の前に突きつけられた。
どうしても被害者としての意識がわき起こり、そう感じてしまうけれど、
ほんとうは突然なんかじゃないのだ。


この問題は、
この国に暮らす大人のひとりひとりが
きちんと決断をするべき時に決断をせずに
知らないフリをしてズルズルと暮らしてきて
「生きていくこと」そのものから目をそらしつづけてきた結果だ。

選択をしないことを選択し続けてきた
社会の問題を自分の問題として認識し責任を持ってこなかった結果が
今回の事故として現象化しているだけだ。



長い長い話し合いの末、
わたしは息子に嘘をついた。


「原発事故が落ちついたら帰ってきたらいいから、とにかく今はここを離れよう」

「卒業式に出られる?」

「放射能が落ちついていたら」


卒業式まではあと4日。
落ちつくわけがないことを知りながら、息子を連れ出した。 





車で移動を始めてからも、
わたしと息子の会話は「帰りたい」「帰れない」その繰り返し。

そのたびに、いま起きていることを説明をして、だから逃げているのだよ、と告げる。


「これまでわたしは母親として、あなたの身体が健康に育まれるように努力をしてきた。
 わたしはあなたの親として、あなたを被曝させることはできない。
 もしも東京に一人で帰るというならば、わたしと親子の縁を絶ちなさい」

 息子は「わかった」と納得する。
だけど数時間後には「やっぱり帰りたい」がはじまる。

彼の気持ちがわかるだけに、この対話はつらく重いものだった。


避難生活の初日の夜は、名古屋の友人のマッサージのお店に泊めていただいた。
息子との話し合いはひたすらに続いていた。
わたしの言うことを半分くらいは理解していた息子は、
2日目の夕方、東京に戻ることをあきらめてくれた。

その間、どれだけふたりで泣いて、話して、叫んだことだろう。


息子が最も許せなかったことは、わたしが嘘をついたことだった。


「事故が落ちついたら東京に戻って卒業式に出てもいい」

4日で落ちつくはずがないことを知りながら、彼を連れ出すためにわたしがついた噓。


「たとえ、いのちのことであっても。噓をついたことが許せない。
 おかあさんは、いつも俺に嘘をつくなと言うじゃないか」

「もしもわたしが嘘をつかなかったら、あなたは一緒に来た?」


「来ないよ。俺は東京で学校に行っていた」


東京に戻らないことを決めたあとも、わたしたちはたくさんの涙を流した。

 


子どもたちになにを伝え、なにを彼らにつないでいくのか。
わたしたち大人は
そのことと本気で向きあわなければならない。
  


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わたしは、15歳の長男と、1歳10ヶ月の長女をもつ母親。(年齢は事故当時)

わたしの仕事は、なにがどうであれ、とにかく子どもたちを守ることだ。



2011年3月11日
地震が起きて、まず心配をしたのは原子力発電所のことだった。

原発という存在が恐くて仕方がなかったので、ある程度は勉強していた。
M9という大きな地震に耐えることのできる原発が
そもそもこの島にあるのかという、そんな疑問を抱く程度に。


福島原発関連の報道を聞いて直感した。
これはとてつもない事故になると。



地震が起きてから、まともに寝ることはできなかった。
余震と原発事故の恐怖
ずっとノートパソコンを睨みつけてインターネットで情報を拾っていた。


子どもたちは、まだ幼い。
この一瞬の判断が、そのあとのすべてを決めてしまう。


すぐに逃げなければならない規模の事故なのか
数日間家に籠もれば大丈夫な規模の事故なのか
これから事故の規模は拡大していくのか
どこまで逃げれば大丈夫なのか
その見極めが難しくて、ネットで情報を必死になって探しつづけていた。


放射性物質がここへ到達するその前に
子どもたちを安全な場所へ逃がさなければならない。

2011年3月14日
わたしは子どもたちを連れて、西へと逃げる決意をした。






その冬、15歳の息子は東京の高校に合格した。
合格発表は3月1日。
長かった受験勉強からやっと楽になれたのは、地震のほんの10日前だった。

その頃、わたしの仕事がとてつもなく忙しくて、
息子は受験勉強のかたわら幼い妹の子守りをして、
家事も手伝ってくれていた。
わたしたち家族は3人で支え合いながら生きてきたの。

3月18日は中学の卒業式。
歌が大好きな息子はお別れの歌の指揮をして、
卒業の言葉を話す予定だった。


地震が起きてから、どういう風に思考が動いていったのか
もうあまり思い出せない。

第一には「逃げるべき」という危機感があった。
それは絶対にそうだと思う。
だけど、すぐに行動に移せたわけではなかった。

わたしは「逃げない理由」を探していたのだと思う。


息子の卒業式や、春からの高校生活、
ありがたいことにわたしも責任のある仕事をさせていただいていたから、
すべてを投げ出すなんてことは、簡単にできることではなかった。


経済的な問題もおおきく立ちはだかっていた。

多分、ここを見てるあなたよりも、誰よりも、
すくないお金で、わたしたち家族は日々を暮らしてきたから。


「逃げない理由」を山ほど積み上げて、それをひとつひとつ考えていった。

たくさんの「逃げない理由」が存在した。
「現状を維持しなければならない理由」があった。


逃げるのか、逃げないのか。
それを考えながら情報を追いかけても、混乱が起きるだけだった。

そのことを一度脇において、
ただただ客観的に状況を見直すことにした。

これまでの知識とネットで集めてきた情報を照らし合わせて
いま、この島でなにが起きているのかを冷静に考えてみた。


わたしが掴んだ答えは、
いま、起きていることは、とてつもない規模の事故で
これまで人類が経験したことのないことにさえなる可能性があること。
平常時の感覚でいれば、子どもたちを守ることはできないだろうということだった。



「逃げない理由」のひとつひとつはとても大切なものだったけれど
子どもたちの健康と引き替えにするほどの価値のあるものだとは思えなかった。


やっとわたしは認めたのだ。
わたしにとっての「逃げない理由」は、
大きなエネルギーを使って自分を奮い立たせることを
これから体験するとてつもない面倒を回避するための言い訳でしかないと。


わたしは東京から避難する決意をした。


避難先が決まっていたわけではない。
ただ、西へ逃げようと思った。


「避難しよう。いますぐ、この家を出て逃げよう」
そう言うわたしに、息子は言った。



「嫌だ。俺は残るよ。
 卒業式もあるし、高校もあるから。
 ちっさいのだけは、安全なところに連れて行って。」


 







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あれからのことを書き記そうとしても
キーボードを叩く指が止まってしまう。


わたしは自分の内側から出てくる
ことばを喪っている。


それはまだ、わたしのこころが揺れているから。


わたしが書くこと、書きたいこと
わたしにしか書けないこととはなんなのだろうと
あれからずっと考えている。


わたしが書きたいことは
きっと「生きること」そのものすべてなんだ。


これからどのように生きていけばいいのか
わたし自身が悩んでいる。

その選択で、ほんとうによかったのか
もっとほかにするべきことがあったのじゃないか
もっとほかにやらなければならないことがあったのじゃないか

これをしたほうがいいのじゃないか
これをしないほうがいいのじゃないか

これから先、どのように生き、
どのように子どもたちと接し、どのように人と接していくのか。

頭の中には答えなんてない。
まだまだひとりでぐちゃぐちゃしている。

だから、書くということができないまま

もう2011年が終わろうとしている。


「きっとみんなそうだよ。書けないことを書けばいい。
 揺れていることを、そのまま書けばいいよ」 

内藤さんは、そう言ってくれる。


「被災地に入って、写真を撮影していても同じことを感じていたよ。
 いまできることを、やるしかないんだよ」

そんな言葉に背中を押されて、「書けないということ」を書いてみようと思った。
そんな自分の弱さを、さらけだすようなことを記してみようと思った。

書けないっていうことを
揺れているわたしのこころを
そのままに書いてみるね。



            *



あの日、息子はわたしを職場まで迎えに来てくれた。
3月11日のあの夜。

電話はつながらなくて、電車も動いていなくて、
わたしは職場にいなきゃならなくて。

19時までには、2歳の娘を保育園に迎えに行かなければならない。
鹿児島からマッサージを学ぶためにやってきて、
うちで一緒に暮らしていたAちゃんが、職場を早めに出て車で向かってくれたものの
ものすごい渋滞で19時には到底保育園に着くことはできないだろうという
そんな状況だった。

保育園とも、息子とも、出発してしまったらAちゃんとも電話はつながらない。
娘は保育園にいる時間帯だから、大丈夫だろうと安心はしていた。
でも息子は学校にいるか、帰宅中か、すこし微妙な時間帯だった。
ふたりの子どもの心配や築85年の自宅が崩壊していたらどうしようとか、
そんなことまで考えながら。ひとり職場でやきもきしていた。


ずいぶん時間が経って、Aちゃんからの電話がつながった。

「ふたりとも何ごともなく無事です。
 絶対に間に合わないと思ったから、念のために先に家に向かったんです。
 家に着いたら、ふたりともいました。
 おにいちゃんが保育園にお迎えに行ってくれてました」

よかった。



「おかあさん、大丈夫? ちっさいのは大丈夫だから。
 これから、みんなで迎えに行くから。そこで待っててね」

電話の向こうの息子の声が、いつもよりたくましく聞こえてきた。

「これから、みんなではるさんを迎えに行きます。
 みんなで一緒に行こう、離れないでいようって、おにいちゃんが言っているから。
 ふたりを乗せて向かいますね」

涙をぬぐいながら、電話を切った。

当時、わたしはホテルのスパの中にあるヒーリングサロンに勤務していた。
本社は都心にあったので、わたしのいた郊外の店舗よりも、ひどく混乱していた。
オーナーとスカイプで連絡を取り合い、社長とも仕事の段取りなど打ち合わせて
帰宅困難なスタッフの宿も手配できた。
職場をあとにできるようになった時には22時をとうに越えていた。


迎えに来ると言っても、道は渋滞しているからどれくらいかかるかわからない。
つながらない電話にやきもきしながらも、建物の中で待っている気持ちになれなかった。
きっと、一瞬でも早くみんなの顔を見たかったのだと思う。
わたしは外で待っていた。


とても寒い夜だったね。


東京とは比べものにならない寒さの中で、助けを待っている人たちがいる。
海があふれて、さまざまなものを飲み込んでゆく映像がくり返しまぶたに映っていた。
波に運ばれて海の中にいるひとも、いるのかもしれない。

すこしでも寒さが和らぐように
すこしでも暖かくいられますようにと
空を見上げて想うことしかできない。



車が駐車場に入ってきて、わたしの前で停まった。

わたしの顔を見てホッとしたのか、笑顔になった息子は
「おかあさん、はい、これ食べて」と、とろろ昆布の袋を手渡してくれた。

「ちっさいのには、おにぎりに入れてもう食べさせたから」

寒い駐車場で、車に乗るよりも先に、とろろ昆布を息子から手渡されて、
わたしはそのまま立ち尽くしていた。




「大きな地震が起きたら、原発が事故を起こすかも知れないから
 たとえ事故の情報がなかったとしても、まずはとろろ昆布を食べなさい」


そんな日が現実に来ないように祈る気持ちと同じくらい
大地震と原発の怖さを、息子には折に触れて話して聞かせていた。




そんな日が、現実に来てしまったなんて
子どもたちにどう伝えればいいのだろう。






息子の部屋に転がっていたのは
とろろ昆布と戻ることのない主を待つラケット。(2011.11)






突然の避難によって時が止まった家 (2011.11)









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