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15代将軍に就任して1年足らずで政権を朝廷に返上した慶喜(1866年12月5日~1867年12月9日)。

慶喜は世界情勢をよく把握しており、形式上「攘夷」を言う立場にあってもそれは不可能であることを誰よりもわかっていました。

 

よく知られる歴史では

「新政府軍で薩長を中心にした軍と幕府軍が衝突。鳥羽伏見の戦いが起こる。慶喜は戦地から抜け、船で江戸城に戻り、すぐに上野寛永寺に自ら蟄居した。」

 

「勝海舟と西郷隆盛の会談により、江戸城無血開城に成功したものの、上野の山の戦いや会津戦争・五稜郭の戦い(北海道・1869年5月)と続く…」

 

新政府の方針に不満をもつ旧幕府の勢力が、1868年1月に鳥羽伏見の戦いをはじめます。

慶喜の意向ではなかったのですが、戦いが始まった際はけして負けるつもりはありませんでした。

何しろ幕府側は会津・桑名兵が4500名、幕府軍(フランスの訓練を受けている)10000名、新政府軍(薩長土佐)は5000名。

 

ところが、

「新政府軍が『錦の御旗』をかかげ、自らが「朝敵」とされるやいなや兵士を残し、宿舎であった大坂城から主要な指揮官たちを連れて江戸に戻る。」

となります。

慶喜の突然の心変わりです。

 

 

イギリスが薩長につき、武器を供給・資金を供給したように、フランスは幕府側に着きます。

好奇心旺盛で新しい物好きの慶喜は、フランス駐日公使レオン・ロッシュからもたらされる西洋の情報・品々に心惹かれます。

フランス料理もワインも大好き。

 

1867年5月に慶喜は大坂で各国公使を招き、晩餐会を開いています。

前菜は海老の冷製、スープ、メインは牛肉の赤ワイン煮。そしてシャンパン。

これには薩長についていたイギリスの公使パークスも感嘆してしまうほどでした。

 

ナポレオン3世(簡単な近代フランス史も近々書きますね、この人は革命後に皇帝になり、ヨーロッパ各地で戦争をしたナポレオンの甥になります。)から献上された「馬」もお氣に入り。

京で「攘夷」を唱える中、本人はフランスの軍服姿で馬に乗って写真を撮り、「なんちゃってナポレオン」をしています。

これを江戸に残した正妻に送ると奥さんも(@_@)

慶喜さんは顔立ちもきりっとして日本人に見えないほどきまっていたのです。

 

さらに慶喜はオランダ語から英語の学習が進められる当時の情勢の中、水戸の弟・昭徳(昭武 慶喜の16歳下・清水徳川家の当主となる)やこの奥さんに「フランス語を習うように」と指示しています。

情勢が落ち着き自らが新政府のトップになったら、各国のVIPのもてなしは「夫婦でフランス語」で、と描いていたのでしょう。

大政奉還の同年の1867年、フランスで「パリ万国博覧会」がありました。

状況が許せば本人も行きたかったことでしょう。

これは弟と渋沢篤太夫(栄一)に行かせています。

 

このような調子ですから、幕府軍の一部にフランスの軍服を着せていたほどです。

兵器だけでなく、フランスからの軍事顧問団も雇い入れていました。

「フランスかぶれ」と言われていました。

幕府はフランスの援助を受け、慶喜もフランスだけが味方になってくれる国と見なしていました。

 

正妻と書いたのは・・・

慶喜さん、京に上ったのは京を戦火から守るためだったのですが、この戦場に側室とは言い難い「愛妾」を連れて来ています(;^_^A

日本全国から武士たちが集まり、町が焼かれ、暗殺がやまない状況に女性連れで来ていたのです。

東本願寺や二条城に泊まっていましたが、常に一緒です。

かなり顰蹙ものです。

 

「錦の御旗」説ですが、これはどうでしょう。

「錦の御旗」」とは天皇軍と示すものです。

 

 

実はこの時の旗は西陣で急ごしらえで作られたものでした。

古くから伝わる伝統の品・・・ではありません。

岩倉具視・三条実美ら朝廷で実権を握っていた公家が、古書を見て作らせたものです。

それは新政府軍も幕府軍も知らないことでした。

 

 

岩倉・三条らは、最後の最後までこの旗を新政府軍と幕府軍のどちらに持たせるか(どちらを味方につけたら自分たちに有利か)悩んでいたのです。

討幕のための列藩会議には260以上の藩がある中、16藩しか出ていなかったのです。

徳川の領地を取り上げることも出来ず、孝明天皇の葬儀費用も幕府に借金してくらいです。

 

しかし、最終的には新政府軍に持たせました。この経緯はここでは省略します。

 

慶喜から夜こっそり呼ばれた数名の武将は

「これから作戦会議か?」

と思います。

 

ところが、夜の闇に紛れて慶喜は大坂城から抜け出し、小舟で沖に停泊している幕府艦・開陽丸に乗り移り、江戸へ逃げます。

この時も愛妾は一緒です。これもど顰蹙です(;^_^A

この際アクシデントがあり、小舟は誤って開陽丸ではなく、アメリカの軍艦に乗ってしまいます。

 

アメリカの軍艦はきちんと将軍慶喜と一行をもてなします。

一体何が起こっているのかわからない、「自分たちは何をしているのか」困惑している部下に自ら西洋料理の説明し、おいしくワインやハムもいただいています。

 

明るくなってから幕府艦に乗り換え、江戸湾に入り江戸城にすぐ入った・・・かというと、正確には品川沖に艦は停泊。

そこから浜御殿(現在の浜離宮恩賜庭園)まで小舟に乗ります。

そこで「ウナギの蒲焼」を注文爆笑

江戸城では御納屋(将軍の食膳に乗せる魚や野菜の管理するところ)でマグロを注文爆笑爆笑

 

そして江戸城に行き、義母にあたる皇女和宮こと静寛院宮(14代家茂夫人)と義祖母にあたる篤姫こと天璋院(13代家定夫人)にそれぞれ朝廷と薩摩へのとりなしを頼みますショボーン

 

1か月近く経ってからです。徳川の菩提寺でもある上野の寛永寺に慶喜が蟄居したのは。

 

 

その後、徳川宗家は田安家から亀之助を養子を取り(徳川家達)、慶喜は水戸での謹慎後、家康のゆかりの駿河で長く暮らすことになります。

彼は「乗馬・釣り・和歌・謡・自転車・写真・漢画・猟・囲碁・西欧の歌・油絵・刺繍」と多趣味でした。

正妻との間の子は生まれすぐ亡くなっていましたが、側室との間に21人(育ったのは13人)の子を持ちました。

 

明治30年(1897年)、慶喜は東京へ戻ることを許されます。

明治34年(1901年)には「公爵」となり、大正1年に76歳でこの世を去ります。

13代家定は34歳、14代家茂は21歳で亡くなりました。慶喜は徳川の歴代将軍の中では最長命でした。

 

 

もし、彼がこの動乱の時代に将軍になっていなければ、その才能を活かせたことでしょう。

彼はなぜあの時、劣勢ではなかった幕府軍を置いて江戸に戻ったか?

ロッシュは慶喜に幕府軍への援助・武器供与を約束します。

しかし、それと引き換えに日本の南(薩摩や琉球)の領土割譲をフランスから要求されていました。

 

 

慶喜はインドや清(中国)が植民地にされただけでなく、西欧人が新航路発見以来、南北アメリカ大陸の原住民を殺戮し、労働人口を補うためにアフリカ大陸から多くの人を連れ去り黒人奴隷として働かせていたことを知っていました。

ここでも説明しています⇒奴隷狩り・奴隷労働  労働力確保のための黒人奴隷輸出

アフリカにも国があり、そこの民にも家族があったものを、西欧の軍事力に到底及ばなかったため、異国へ連れ去られ奴隷労働です。

慶喜が最も危険視していたのはアメリカでした。

 

慶喜は慶喜なりに守りたいものがあったのです。

「日本の国土を分割してはならない」と。

 

彼の行動から見ると「空氣が読めない」「他人が自分を悪く言っても氣にしない、マイペース」ですが、好き勝手しても言い訳をしないというのは…立派だったのかもしれません。

 

 

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みなさんは徳川慶喜というとどういうイメージがありますか?

 

「やっと15代将軍になれたのに、在位期間わずかで、しかも幕府の政権が終わってしまったかわいそうな人」

 

でしょうか?

 

私はこどもの頃はそう思っていました。

 

しかし、ご本人は将軍になんぞなりたくなかったことと思います。

 

徳川12代将軍家慶の頃のから、「時期将軍は?」といろいろと噂されていました。

家慶には14男13女いましたが、成人にまで育った男子は、13代になる家定だけだったのです。

 

12代家慶の父、11代家斉は26男27女がおりオットセイ将軍とも呼ばれ、世継ぎ以外をどんどん他藩に婚姻に出したため、諸藩は経済難になったほど金欠

 

血を受け継いでいる家定公は体が弱く、頭もちょっと・・・と囁かれてもいました。

「うちの子は将軍としての器量がないかもあせる

と、実のおとうさんまでそう思い、

「慶喜くんの方が合っているじゃないかなあショボーン

と、悩んでいたのです。

 

 

政局が乱れ、国難にある中、幼少の頃から秀才と名高い慶喜に注目が集まっていました。

慶喜は生まれは水戸藩。

慶喜の父、徳川斉昭で、なんと言うかラウドスピーカー、頑固、政治に口を挟みたい、女性好き…といった人でしが、このお父さんも

「うちの7男、すっごく頭いいかもひらめき電球 もしかして、自分将軍のパパになれちゃうかもラブ

と、慶喜を御三卿の1つ一橋家へ養子に出します。

その方が将軍レースに近づくからです。

 

御三卿とは「田安」「一橋」「清水」で、8代・9代から分家した大名で、将軍家の身内でもあります。

宗家や御三家に跡取りがいなくなれば、輩出することになっていました。

 

12代の血を引いている病弱な家定、水戸からその英邁さを轟かせ東京(江戸)にやってきていた慶喜。

「頭がいいだけでなく顔もいい!」というのは全国的に知られていました。

 

結局、13代は家定となりましたが、それでも慶喜パパの斉昭や薩摩の島津斉彬などは

「14代こそ、慶喜を!!

と、望んでいました。

島津斉彬は分家の姫を養女とし、さらに彼女を公家の近衛家に養女に出させ、そこから13代の家定の御台所(正室)としました。

彼女が「篤姫(天璋院)」です。

彼女を通して時期将軍に「慶喜」をプッシュしようとしました。
雄藩も自分たちが政権を取れれば最高なのですが、そうできないのなら自分たちの傀儡政権が欲しかったのです。

 

 

慶喜は自分のパパやおじさん(島津)たちがワイワイしているのを小さい頃から見ていましたら、

「誰がこの時局に将軍になったって上手く行きっこない」

と、幕府では目立たないようマイペースで、定時で上がる会社員のように無難に勤めていました。

 

1858年、家定は在位4年で亡くなり、結局、14代には御三家の紀州徳川家から来た家茂となりました。
この時、家茂はまだ13歳の若さです。

 

一橋慶喜26歳は将軍後見職・禁裏御守衛総督となりました。

 

4年後の1862年、公武合体構想のため、孝明天皇の妹、和宮親子(ちかこ)内親王が降嫁し、家茂の御台所となりました。

翌年1863年、将軍として229年ぶりに上洛し、天皇に攘夷を誓います。

この頃が京に全国から武士が集まり、賑わっていた頃です。慶喜も京にいました。

 

 

前ブログに書きましたように、「朝敵」とされた長州に対し、第一次長州征伐、第二次長州征伐が繰り広げられます。

この1866年、第二次の途上、家茂は病で大坂で亡くなります。20歳でした。

 

確かにかっこいいよね

 

話が大変長くなりましたが、慶喜の人生を語るには、将軍になる前の状況が大切です。

1864年に将軍後見職を辞任してからは、京で朝臣として御所守備をしていました。

1866年12月、第15代将軍として就任。

翌年の1867年10月、倒幕の密勅を受け、「大政奉還」します。

12月には「王政復古の大号令」で、慶喜は激昂する会津藩・桑名藩をよそに、京から大坂城へ移ります。

 

慶喜は「尊王」の水戸藩出身。

朝廷に政権を返上し、新しい政府で職に就けばよし、と考えます。

天皇の下で諸侯会議を開き、国家首班となり徳川を温存させようと思います。

武力を持ってこれに逆らおうなどとは考えていませんでした。

 

ところが、若い祐宮(さちのみや、のちの明治天皇)の後ろ盾となっていた岩倉具視をはじめとする急進的公家は、幕府と薩長を両天秤かけ、どちらのカードを使おうかと考えます。

 

薩摩の西郷隆盛や大久保利通は、なんとしても武力で幕府を完全に倒したいと願っていました。

そのため、慶喜のいない江戸城に攘夷討幕派浪人を使って、略奪などちょっかいを出し、武力衝突の引き金にしようとします。

 

「くれぐれも慎重に、そそのかされないように」

 

と注意していた幕府でしたが、騒乱が度重なったことから、ついに攘夷討幕派浪人をかくまっていた「薩摩藩邸を焼き討ち」にしてしまいます。

 

これで西郷・大久保の軍事行動の口実が整いました。

 

さらに翌年の1868年1月「鳥羽伏見の戦い」が始まります。

薩摩・長州・土佐の新政府軍との幕府軍の戦いです。

ここから戊辰戦争は始まり、国内内戦が広がっていくのでした。

 

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18世紀半ばからこの時代、イギリスは黄金時代を迎えていました。

海軍が整い、実に世界の4分の1を植民地としていました。

 

 

インドでアヘンを作り、中国で販売・・・

その両方ともユダヤ系の商社が絡んでいました。

中東系のサッスーン商会とお馴染みジャーディン・マティソン商会です。

アヘンの製造・販売で、イギリスはますます海軍に資金を注ぐことができるようになったのです。

 

 

アメリカも真似しようとしまたしが、そこは後発国。

そのイギリスから独立し、第2次独立戦争もありました。

インドでの利権は既にイギリスに取られていたので、トルコでアヘンを作ります。

サッスーン商会のものより質を落として何とか市場に入り込みます。

 

アヘン戦争後、中国は開港させられ、不平等条約を結ばされてからというもの、イギリス以外の国も次々に押し寄せていました。

イギリスが1番乗りであり、1番権益を持ち、1番収入を上げていたのは間違いありません。

 

 

しかし、インドと中国という大国を攻め、さらに支配下とするには、イギリスは現地民だけでなく、多くの自国民・自国兵の被害も出していました。

 

次にイギリスが利益を求め、他国支配に移るとしたら?

 

「自分たちは直接手を出さず、その国の民同士に紛争を作り戦わせる。政権を取った際、利用できそうな陣営に武器を渡す」

 

 

 

ジャーディン・マティソン商会、その支部とも言える長崎のグラバー商会。

幕末の英雄・坂本龍馬は土佐から脱藩し、グラバーと武器を欲しがる薩摩や長州の間に入りました。

それだけでなく、自身も長崎で「亀山社中」という商社を作りました。

後にはプライベート海軍ともいえる「海援隊」も創設します。

そこで必要とされる資金・軍艦・兵器などは50億円以上です。

彼は非常にフットワークよく、全国を回り、諸藩の大物たちを結び付けていきますが、その旅の費用はどこから?

 

 

龍馬は脱藩したとはいえ、完全に土佐藩と縁が切れてはいませんでした。

殿様から龍馬のアシスタントを使わしてもらうくらいです。

しかし、だからといって土佐藩がその費用を捻出できるものでしょうか?

 

 

 

 

イギリスの日本での企みは、フランス・アメリカ・オランダ・ロシアなど日本に入港を許された国なら考えることです。

「それならイギリスと反対の陣営に兵器を売ろう」

と。

 

幕府にはフランスの兵器が供給されていました。

駐日フランス公使ロッシュは一橋慶喜(後の第15代将軍)にいろいろなものを献上し、取り入ることに成功しました。

 

薩摩は第2次長州征討では幕府側ではなく、長州の側に回ります。

坂本龍馬が薩摩と長州を結ばせ、幕府を倒そうとする力は強まります。
長州が4国艦隊に砲撃された事件後の講和には、英語を流暢に操る伊藤・井上などが藩の密命で留学もしていたことを知ります。

 

イギリスから大量に武器を得ている薩摩。長州も今や開国派を中心にイギリスに傾倒。

 

慶喜はますますフランスを重用することになって行きました。

 

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1863年、長州藩は薩摩より早く、藩主の密命で藩士5人を留学させていました。

イギリス公使館の口利きで、その頃には横浜にお店を出していた「ジャーディン・マティソン商会」の船(チェルウィック号)で、横浜から上海に出ました。
 
その5名は「長州ファイブ」と呼ばれ、明治政府下の要人となり、日本の近代化に大いに貢献したのです。
 
・井上馨     外務大臣
・遠藤謹助    造幣局長  
・山尾庸三    東京大学工学部の前身を創立
・伊藤博文    総理大臣
・井上勝      鉄道事業の推進
 
 
 
この5名は「ロンドンユニバーシティカレッジUCL」に留学しました。
ロンドン大学は新設大学で自由な空氣に満ち溢れていました。
逆に申すと、この大学以外はまだ有色人種は入学できない、英国聖公会員(英国国教会)でなければならない・・・と基準に満たしていなかったのです。
 
しかし、ロンドン大学は日本からの留学生にはうってつけのテクノクラート(高級技術官僚)向けでした。
 
1864年、3月四国艦隊下関砲撃(馬関戦争)が近々起きると知り、国力の差から無謀であると井上馨と伊藤博文は6月緊急帰国。
その後の和平交渉に務めました。
 
1865年、残った3人は薩摩からの留学生とも会います。
薩摩からの実務ではない、学生としての留学生14名もロンドン大学に来ました。
この時はまだ薩長同盟は結んでいませんでしたが、日本人同士の再会に喜びます爆笑
 
長州も薩摩も「これ以上の留学資金を作るのは困難金欠」と帰国要請を出しています。
あるものはギリギリで卒業でき、あるものは帰国。
 
それだけ留学費用とは莫大なものでした。
薩摩藩の留学上申者の五代友厚は、藩経済のための資金作りも具体的に提案していましたし、長州は薩摩ほど武器は持っていませんでしたが、薩摩よりは財政豊か。
それでも、長州藩の上から下までの人間が工面して費用を捻出したと言われています。
 
薩摩藩は1865年の19名の留学生をイギリスに送り出した後、翌年はアメリカに6人留学させています。
 
 
長州の5名の留学だけでも10億円以上すると言われているのです・・・・
藩だけの財政で捻出できる額とは思えません。
誰が出したのか?
 
薩摩の留学生の船を用意したり、武器を供給していたグラバーは、明治維新後も日本に残り、他の事業にも着手していますが、「グラバー商会」自体は倒産ということになっています。
 
 
 
それにしても薩摩・長州とイギリスの関係も興味深いものがあります。
 
1.長州ファイブを含め、藩士たちは江戸屋敷に住んだり、江戸に遊学していた。
2.1862年8月、井上馨・遠藤謹助などは藩命で横浜のジャーディン・マティソン商会から蒸氣船ランスフィールド(壬戌丸)を購入
3.1862年9月、生麦事件発生。 
4.1863年1月、攘夷に燃えていた長州藩の高杉晋作・久坂玄端・井上馨・伊藤博文・山尾庸三などはイギリス公使館焼き討ち事件に参加。(イギリス公使館は1861年5月に水戸藩脱藩攘夷派浪士に襲われ、1862年5月に松本藩士にも襲われています爆笑
5.1863年5月、長州ファイブ、ジャーディン・マティソン商会の船で密留学
6.1863年7月、下関戦争の際、壬戌丸はアメリカに真っ先に沈められる(^^;) 
ここでも解説しています⇒下関戦争
7.1863年8月、薩英戦争勃発。
ここでも解説しています⇒薩英戦争
8. 1864年6月、伊藤と井上は馬関戦争に備え、緊急帰国。 2年の休暇後日本に戻って来ていたオールコック(^^;)、通訳のアーネスト・サトウなどの会見したが、8月四国艦隊に砲撃される。
ここでも解説しています⇒オールコック
9.1865年5月、薩摩藩密留学でグラバーが船を調達
ここでも解説しています⇒薩摩藩違英使節団
7.1865年7-8月、井上馨、長崎でグラバーから兵器購入。(この時期に坂本龍馬が長崎で「亀山社中」という日本初の総合商社を設立しています。亀山は地名、社中は仲間という意味。)
8.1866年1月、小松帯刀邸で薩摩と長州が政治的・軍事的同盟を結ぶ(薩長同盟)。 その後、伊藤は薩摩や外国商人からの武器購入係となる。
 
攘夷の急先鋒であった長州と薩摩は実際にイギリス人を襲い、戦火も交えます。
その結果、イギリスの国力を知ることとなり、そこからは開国派となり、イギリスの協力・援助を受け、近代化を目指し軍を整え、倒幕へと向かって行きます。
そして、その間を取り持っていたのが脱藩浪士・坂本龍馬でした。
 
 
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薩摩と並んで「攘夷」(異国人を打ち払え)を唱えていたのは、「長州藩」。

 

長州藩は孝明天皇の「攘夷」思想に一番賛同していました。
「武力行使すれば徹底的にやられる」とわかっていたので、そうは言っても朝廷も幕府も実際に打ち払わないのが暗黙の了解。

ところが、長州は本当に武力爆弾を用いた行動に出ましたガーン

 

1863年、長州は関門海峡(馬関海峡)を自由に通行する外国船-アメリカ船・フランス船・オランダ船に無通告で砲撃でを開始しました。

(オランダは日本と長い友好関係にあり、まさか自分たちも砲撃されるとは思ってもみませんでした。)

 

 

長州も薩摩と同じように早く砲台を築き、異国に備えていました。

アメリカ・フランスの攻撃により、長州藩は壊滅的被害を受けました。

賠償を要求されましたが、長州は「幕府の命で攘夷を決行したまで」と責任を幕府に追わせました。下関事件です。

 

 

そして、砲台を修復し海峡を封鎖すると、イギリスが経済的損失を受けたとアメリカ・フランス・オランダを誘い、17隻の軍艦でやって来ました。

威嚇外交のオールコックは懲罰攻撃メラメラを企んだのです。

フランス人が殺害されても、アメリカの商船が被害を受けても、その当事国より騒ぐのがイギリスなのでした(^^;)

オールコック⇒ここでも解説しています

 

 

とても長州の敵う相手ではありませんでした。これを下関戦争、四国艦隊下関砲撃事件と呼びます。

列強は賠償金のみならず、「彦島」の租借を要求します。

 

 

講和使節の高杉晋作は

・海峡の自由通航

・下関砲台の撤去

・飲料・食料・燃料の販売

・悪天候時の外国船乗組員の上陸許可

・賠償金(例によって幕府の支払いにニコニコ

の全てを聞き入れましたが、香港のような植民地にならぬよう「彦島」租借だけは退けました。

 

 

 

 

 

 

この「四国艦隊下関砲撃事件」を持って、攘夷派長州藩も西洋の技術を積極的に取り入れ、軍備を整えるようになりました。

 

 

 

この時期の国内情勢は「朝廷・徳川(京都守護職を命じられた会津も含む)・長州・薩摩」とプレイヤーがおり、情勢によって敵・味方が目まぐるしく変わって行きました。

のちに薩摩と長州は同盟を結ぶことになりますが、長州は8月18日の政変、池田屋事件、禁門の変(蛤御門の変)

 

 

京都で実権を握ろうとする

⇒薩摩・会津藩(徳川の一番の忠臣藩)に敗れる

⇒再び、都で勢力を持とうとすることが事前にバレる

⇒禁裏に向かって砲撃してしまったので、ついには「朝敵」扱いされるガーン

 

とされ、孤立していました。

長州からすると薩摩に「やられたムキー」ようなものです。

 

 

ところで余談ですが、
この時期、幕府から一橋慶喜(後の15代将軍徳川慶喜)、京都守護職の会津藩・松平容保(まつだいらかたもり)、新選組、長州藩、薩摩藩、ほか坂本竜馬のような脱藩者など、全国から京に人が集まっていました。

江戸育ちの殿様と違い、下級武士はお国言葉丸出し。

京に住んでいた方たちからすると、それこそ「外国人がわんさと押し寄せてきている」ようなものです。
中には見慣れないごつい顔立ちの人たちもいます。

そして、今でいうテロの横行、戦場となり、たまったものではありません。

かなりの民家に被害が及びました。

 

 

また、一方で「幕末の英雄」と呼ばれるような人たちも一堂に会してもいました。

その人たちの共通点は・・・

・・・

・・・・

・・・・・

 

 

幕末の動乱の中、京の地でしっかり?ちゃっかり女性を作っていたことですショボーン

多くの武士たちが京の女性と¥で遊ぶ中、出張中に「内縁の妻ドキドキ」を作り、そこで初めて自分の子を授かったという人もかなりいますチュー

 

吉田松陰先生イチオシの長州藩・久坂玄端(くさがげんずい・松陰の妹の夫)や、後に若くして薩摩の家老になる小松帯刀(こまつたてわき)などです。

 

京の女性がとても魅力的キラキラだったのでしょうが、戦乱の中、無意識にDNAを残したいという本能もあったのかもしれません。

 

 

 

 

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渡航は国禁ですから、密留学です。

「攘夷」を強く叫んでいた薩摩が、戦争した相手国に留学させるのです。

 

藩は留学生選出にあたり、できるだけバラエティに富んだ人生にしようと工夫しました。

必ずしも海外のものを積極的に取り入れたいと望む人材ではなく、むしろ「攘夷思想を強く持っている者」も混ぜました。

 

年齢も13歳の子供から、すでに藩の中核を担っていた20-30代もいます。

薩摩藩は「士農工商」の「士」の人口が多く、家老クラスから下級武士まで層が厚かったので、これもまた上下偏りなく選出しました。

 

 

藩は密かに鹿児島の西、人気のない「羽島」に留学生を集めます。

留学予定者はそこで英語の勉強をしながら、香港までの船を待っていました。

香港までの船を調達するのは、長崎の観光名所「グラバー邸」で有名なトーマス・グラバーでした。

 

 

グラバーは藩を越え、多くの日本人と交流を持ち、情報や武器を提供していました。

グラバーとは一体何者だったのでしょう? 

 

 

アヘン戦争の影の責任者と言われていたのが、ジャーディン・マティソンです。

(香港のインフラは、ほとんどジャーディン・マティソンで整えられたと言っても過言ではありません。)

 

ジャーディン・マティソン商会とは植民地貿易を扱う総合会社、つまり東インド会社(国が認めた植民地経営・交易会社)。 

インドのアヘン、中国の茶などを扱い、「香港上海銀行(HSBC)」を設立。 

香港で稼いだを金を扱ったり、アヘン戦争後の戦争賠償金の運用していました。

 

 

そのジャーディン・マティソン商会の長崎代理店が責任者がグラバーだったのです。  

グラバーは日本の近代化に貢献したと褒章されていますが、実態は武器商人です。

日本におけるイギリス植民地経営会社のトップということです。

 

 

19世紀のヨーロッパではこのジャーディンの他、ロスチャイルドやサッスーンといったユダヤ系マネーが、鉄道などのインフラ・植民地経営を動かしていました。 

 

 

2ヵ月後にグラバーの手配した香港までの船が羽島沖に現れます。

19名の留学生は4日で香港到着。

 

そこから大英帝国の定期航路線に乗り換えです。

シンガポール-ペナンーインドーアデンースエズから列車でアレキサンドリア(当時はスエズ運河は建設中、まだ未完です。)-マルタ―ジブラルタル海峡ーサザンプトンと約2か月の旅でした。

ロンドンに到着すると、留学目的-政治外交・貿易・海軍・造船技術・医学・英語など―によってバラバラに別れました。

 

 

帰国時期は各人の意思・内容によって異なりました。

イギリスからさらにアメリカ・フランスなどに移った者もいます。

 

 

留学生の中には上申した五代友厚、東京開成学校校長(後の東大)となる畠山義成、、元老院議長となる寺島宗則、初代文部大臣となる森有礼などもいました。

その語学力を請われ、多くの者が明治政府下の閣僚となり、主に外交官として活躍することとなりました。

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この当時の薩摩の最高実力者は島津久光。(藩主・島津茂久 名君と言われた斉彬公の異母弟)

 

 

琉球を支配し、中国との密貿易から、中国でのイギリス艦隊の情報が入って来る薩摩は、江戸の幕府より緊張をしていました。

次に諸外国に狙われるのは琉球を持ち、中国とも遠くない自分たちの藩であると自覚していました。

「南京条約同等(開港・領土割譲)のものを薩摩も要求されるだろう」

 

 

進取の氣性に富んだ代々の薩摩藩主たちは西欧の文化・兵器を取り入れていましたが、久光に至っては鉄製の大砲を作らせていました。

水雷、蒸氣船も作らせ来る日に備えていたのです。

 

薩摩の海域には古来より外国人が漂流したり、密貿易でやって来ていましたが、19世紀になると列強も押し寄せていました。

 

簡単に中国情勢を箇条書きしますと

1 1840年 アヘン戦争

2 1842年 南京条約 5港開港・香港島の割譲 賠償金の支払い

3 1856年 第2次アヘン戦争(アロー戦争)  フランスも参加

4 1858年 天津条約 10港開港 賠償金の支払い

5 1860年 北京条約 賠償金増額 九龍半島南部をイギリスに割譲

6 1851~1864年 太平天国の乱  …これが片付いたので、やっとイギリスは増援の艦隊を薩摩に送ることができたのです

 

19世紀初頭より、中国(清)に来ていた船-フランス・イギリス・アメリカなど-はそのまま日本の南である薩摩にも来ていました。

なんとか琉球と貿易を開始したかったのです。

琉球だけでなく、鹿児島近郊の島や湾にもやって来て、上陸もし、トラブルも続出していました。

江戸と温度差があって当たり前でした。

 

 

 

薩英戦争は幕引きがよく(3日後にイギリス艦隊が去って行ったのですが)、これ以上長引けば危ういと言うことは薩摩もよくわかっていました。

市中は大きな被害を被り、家屋敷が焼けてしまっていました。

 

戦い済んでイギリス側の砲弾を見た薩摩藩士たちは驚きますびっくり

薩摩の砲弾は真ん丸、イギリスのものは「しいのみ型」。

飛距離も威力も断然イギリスのものが優れていました。

西欧の技術力にとても敵わないことを目の当たりにしました。

 

 

10月に幕府立ち合いで横浜で講和会議が持たれました。

1回目、2回目・・・なかなか両者とも折れません。

 

「薩英戦争」の帰結は、薩摩が賠償金を支払ったので、イギリスの勝利と見ている方もいます。

しかし、それは幕府が状況を落ち着かせるために薩摩の分も肩代わりしたものでした爆笑

 

もちろん、薩摩も

「これ以上の無謀な攘夷は危険」

と、理解していました。 そこで、薩摩から出た言葉は

 

「(攻めてきた)ユーリアス号のような軍艦(蒸気船)をたくさん買いたい!」

でした。

 

元々イギリスが日本に来たのは貿易を始めることが目的でしたから、イギリスも大歓迎です。

産業革命が進み、綿織物を大量に輸出していたイギリスですが、材料供給元のアメリカが南北戦争爆弾に入ってしまい、品不足だったのです。また東アジア航行のための燃料・水・食料も要していました。)

 

薩摩は軍艦だけでなく、他にも兵器を購入することにしました。

イギリスと敵対するより「利すること」を考え始めました。

 

しかし、これは歴史上すごいことですびっくりびっくりびっくり

外様の藩が、幕府の目の前で武器を購入したのですから。

 

 

これを機にイギリスも幕府とだけ交渉するのではなく、諸藩と直接貿易をし始めました。

幕府と諸藩との力関係・対立に注目するようになります。

 

 

ここから一氣に薩摩とイギリスの関係が深くなります。

薩摩はイギリスから新式の兵器を購入し、諸藩トップの軍事力を持つようになりました。

 

 

長崎海軍伝習所で学び、幕府艦で上海に行ったこともある藩士・五代友厚(後の大阪商工会議所会頭)は上申書を提出しました。

「これからは海外に留学し、技術を習得しないと世界の大勢に遅れ、国を発展に役立ちません。」

 

 

薩摩藩は藩を上げて、極秘指令で19名の者をイギリスに留学させることにしました。

産業・商業・科学・貿易などだけでなく、いち早く産業革命を起こした根底にある思想をも掴んでこようという狙いです。

1865年(慶應元年)、薩摩藩違英使節団ができました。

 

 

 

 

 

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イギリスはアメリカから遅れること2年、1859年(安政6年)6月、通商条約批准のために使節団を日本へ送りました。

イギリスは日本に来た当初から、威丈高な態度を示していました。

何かにつけて「大英艦隊で攻撃するぞ爆弾」と。

 

幕府は日米修好通商条約の際、ハリスから

「イギリスは日本も侵略しようとしている」

と聞かされ、極度の緊張状態にありました。

 

 

幕府もイギリスが欧米列強最強の国であり、世界中に植民地を広げていることはよく理解していたのです。

 

全権大使はラザフォード・オールコック。

彼は条約批准の日、江戸の市民を圧倒させようと、140人もの兵に赤い軍服を着用し、銃を携えたパレードを敢行させました。

それだけに留まらず、その一行は制止を振り切り、なんと江戸城内まで入城してしまったのです。

 

他にも

日本横断旅行をしたり

領事館を江戸城に近い高輪の東禅寺に置いたり

江戸中期より庶民の「富士山信仰」のある霊山である富士山を登山し、頂上でシャンパンで乾杯したり、祝砲を鳴らしたりとどんちゃん騒ぎもしました。

 

このようなイギリス人たちの態度が、攘夷の氣運を助長させていきました。

しかし、イギリスには弱みがあったのです。

 

外交官たちを乗せてきた艦は、彼らを降ろすと引き返し、守ってくれるものは何もなかったのです。

インドや中国で、イギリスに対する紛争が続き、イギリスの艦隊を日本に常備する余裕はありませんでした。

まだ、第2次アヘン戦争から3年しか経っておらず、軍艦は中国に留まっていました。

 

これは絶対に!日本側に知られてはならない弱みでした。

 

虚勢を張ってと威嚇外交を続けていたのです。

 

 

1861年(文久元年)、イギリス公使館が浪士たちに襲われます。

公使館員3人が切られました。

 

 

ここに来て初めてオールコックは対英感情を悪化させていたことに氣づきました。

英外相から命じられ、帰国しました。

 

 

 

後任が、代理駐日公使ニールです。

着任後まもなく、生麦事件が起こりました。

薩摩藩の大名行列を横切ったとイギリス人たち3名が切られました。

ニールはすぐに中国のイギリス艦隊に応援を要請します。

 

 

イギリスは犯人の身柄引き渡し・処刑、賠償金を幕府と薩摩藩に要求しました。

 

 

江戸の武士階級はイギリスが江戸を攻めてくるいち早く聞き及び、江戸藩邸の家具や宝物を安く売りさばき郊外へ脱出始めました。

遅れて町人もできるだけ郊外へ逃げるという大混乱がありました。

幕府は賠償金(10万ポンド)を支払い、イギリスは江戸へ発砲することはありませんでした。

 

 

イギリスは幕府に、「薩摩にも賠償金(2万5千ポンド、約3億円)」を支払わせよと命じます。

 

幕府に言えば諸藩は全て従うものと、どうもまだ幕府と諸藩との関係がわかっていません。
もっとも他国も「日本のTOPに会わせよ」と朝廷と幕府とどちらに書状を出してよいのかわからないでいました。

 

 

 

中国での太平天国の乱も収まり、12隻のイギリス艦隊が来航したのは事件から半年経ってからことでした。

太平天国の乱⇒ここでも解説しています

幕府からの賠償金を積んだ旗艦ユーリアス号からなる7隻の艦は薩摩へ向かいました。

 

福沢諭吉が幕府からニールからの書簡を訳すよう命じられます。

「主犯」

を差し出せと述べていたイギリス側でしたが、これを

「薩摩の主、つまり島津久光の首」

と誤訳してしまいガーン、薩摩藩は農民も総動員で戦いの準備を始めてしまいました。

 

 

1863年(文久3年)8月27日、イギリスの艦隊は鹿児島湾に到着、城下約7キロのところに投錨。交渉は持たれましたが、決裂。

 

9月2日発砲爆弾が開始。

薩英戦争がここに勃発します。

 

 

ところで、「薩英戦争」があったという事柄は知っていても、勝敗はどちらについたのか、どのくらいの期間に及んだのかは意外にご存知ないのではないでしょうか?

 

 

薩摩から発砲されるとは全く考えていなかったイギリス。

幕府からせしめた賠償金の入った箱を弾薬庫の前に積んでいました汗

数時間は反撃できず笑い泣き

やがて応戦し始めると、イギリス側は鹿児島の城下の街にも発砲し、薩摩は痛手を被りました。

 

 

しかし、薩摩からの発砲で旗艦ユーリアス号の艦長と副長が戦死。

これが薩英戦争のターニングポイントとなりました。

 

この時の戦いは互角に戦い、1日半で終わりました。

イギリス船は3日後、ぼろぼろになって去るしかなかったのです。

 

薩摩とイギリスのダメージ度合い、勝敗はどちらと見なすかには諸説あります。

負傷後に死亡を最初から死者と数えるか、市街地での死者も数に入れるかなど。

 

負傷後に亡くなった方も死者としてカウントすると

薩摩藩  死者10名

イギリス 死者20名 負傷者50名 艦船大破 1隻 中破 2隻

 

ニューヨークタイムズは

「この戦争によって西洋人が学ぶべきことは、日本を侮ることではない。

彼らは勇敢であり、西欧式の武器や戦術にも長けていて、降伏させるのは難しい。

イギリスは増援したのにも関わらず、日本を挫くことはできなかった。」

 

と、世界最強のイギリスが敗れたことを驚きを持って報じたのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

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日本が開港を認めたのは

1854年 日米和親条約 にて下田と箱館

1857年 日米修好通商条約 にて神奈川・長崎・箱館・新潟・兵庫の5港

 

でした。

 

先のブログに記したように神奈川は横浜(横濱)に、兵庫は神戸と改められます

 

ここでも解説しています⇒日本の開国

 

神奈川県の「神奈川」は街道沿いにありました。

東海道53次の3番目の宿場です。川崎宿ー神奈川宿ー程ヶ谷(保土ヶ谷)宿です。

 

ここは「神奈川湊」は併設にされた宿場町でした。

 

街道を通行する日本人と、入港する外国人との間の紛争を避けるために、神奈川湊の対岸にある横濱村に港湾施設や居留地をつくり、開港したのです。

 

これが現在の横浜港です。

海外の条約を結んだ相手国には横濱は神奈川に含まれると説明しました(;^ω^)

日米和親条約は横濱村で締結されたので、「神奈川条約」とも呼びます。

 

 

(ちなみに兵庫は英国公使パークスが兵庫より神戸の方が優れていると判断したためでした。)

 

 

こういう理由ですから、もちろん江戸城に近い江戸湾(東京湾)深部に開港するわけがありません。

そもそも築城時は東京駅周辺まで海でした。

 

 

 

少しずつ埋め立てが進み、幕府の国際関係顧問・通訳オランダ人ヤン・ヨーステンの屋敷があったことからその辺りを「やようす」と呼ばれ、八重「洲」になりましたが、そもそもの八重洲は外堀の内側、現在の大手町辺りを指しました。

明治以降埋め立てが続き土地が広がりました。

 

茶が陸地、紫の所は海だったのです。

 

 

 

幕府はペリー来航に備え、江戸湾にせめてもの抵抗として人工島を作り、砲台を設けました。

これが「台場」、今の「お台場」フジテレビ本社があるところですね。

 

 

 

しかし、残念ながらトラブルは発生しました。

1862年、神奈川県生麦村で薩摩藩・島津久光の行列に無礼を働いたと藩士がイギリス人に殺傷、国際事件に発展します。

 

そう、「生麦事件」です。

 

 

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明けましておめでとうございます。

 

お正月から美しい空に恵まれました。

「素敵な年になりそうキラキラ」と嬉しくなりました。

 

病氣療養中で秋からかなりダウンしていたので、しばらくゆっくりさせていただいておりました。

勉強熱心な読者の方々に毎日でもブログをお届けしたいのですが、当分は無理しないようにして行きます。

 

さて、昨年は単発の話題もお送りしておりますし、必ずしも歴史や政治に限ったブログではございませんが、大まかにこのようにお送りしていました。

 

1月 ・パナマ運河 

   パナマ運河に関する歴史 要衝の地は大国が利権をとりたがる 新パナマックスで期待できること

   ・「成田山」

   「平安仏教」」について

   平安時代 建立の経緯

   弘法大師の留学 密教 仏教の違いについて

 

 

2月 ・キリスト教の布教

   遠藤周作作品「沈黙」 宣教の目的 布教が禁止になった理由 奴隷貿易

   ・「南京大虐殺」と呼ばれる事件と「通州事件」 

   -あたかも証拠のような写真でも、いくらでも操作できるということ

   ・日本の石油確保の歴史

   資源を求めるために戦争は起こる 日本は第2次世界大戦でなぜ大陸へ進出したか 

   イランの原油とイラン革命

   ・中東戦争史

   ソ連のアフガン侵攻 アルカイダの支援勢力 「湾岸戦争」はどのように起こらされたか 軍需景気

 

3月 ・米軍の軍事力と南沙諸島・尖閣諸島問題

   基地問題 沖縄県知事と中国との関係 フィリピン・スービック基地 琉球王国 

 

 

   ・自衛隊とはどのような組織か

   自衛隊用語 旭日旗 海外ではどのように取り扱われているか 

   日本の特殊部隊 ハイテクのかたまり「潜水艦」

 

 

 

4月 ・イスラム教宗派の違い 

   シリアのアラフィー派とは?

   ・第2次世界大戦前のアメリカ

   経済政策としての戦争 ルーズベルトとスターリンの密約

 

 

 

9月 ・新疆ウイグル地区 中央アジア

   中央アジアの位置 シルクロード 中国の中の新疆ウイグルの歴史 中央アジアの歴史・ソ連邦からの独立 

   トルキスタン 中国周辺国家とその民族 ウイグル問題とは何か 

 

 

   ・朝鮮半島を侵略した国々

   日本の統治、高麗時代、李氏朝鮮時代

 

 

 

 

10月 ・GHQによる日本の洗脳

    歪曲された歴史 原爆投下の意味 日本は「真珠湾奇襲」をさせられた 

    「従軍慰安婦」と呼ばれた人たちの破格の待遇

 

 

    ・ニュースの信じ方・取り込み方

    「反日」を煽る大国・国際機関 中国の「一帯一路」構想 

    カシュガル―グワダル 中国とパキスタンの関係 南沙諸島より危険なインドシナ半島

    秘密裏に行いたいことはニュースにならない

 

 

 

11月 ・「私の歴史」

    なぜ社会科を研究していたのに教師にならず、航空会社に就職したか

    代替治療と美容の研究

    ・地政学の使い方 -ランドパワーのロシアを例に

    タタールのくびき モンゴル帝国の勢力 緩衝地帯の必要性 

    ウクライナ問題 チェルノブイリ セヴァストポリ

 

 

    ・「IS」とは?

    「イスラム過激派」「テロ」を利用する国々 

 

12月 ・19世紀半ばの世界情勢①-南北戦争と明治維新

    南北戦争の起こった理由 ペリー来航のタイミング ペリーの地質調査

 

 

    ・西洋人の新航路開拓と植民地経営

    ポルトガル プレスター・ジョンの伝説とインド航路

    スペイン コロンブスの大西洋航路発見とその後のコンキスタドールによる征服

          黒人奴隷の輸出

    イタリア マルコ=ポーロ「東方見聞録」に日本は何と書かれていたか?

 

 

 

    ・19世紀末半ばの世界情勢②-幕末の日本とアメリカ

    琉球とアメリカ 開国 日米和親条約 日米修好通商条約

 

時折単発で時事を解説しながらも、いかに私たちが知っている・体験してきた政治問題が「作られてきたものか」を日本の体験-第2次世界大戦の敗戦ーを通しながら、大国の利権争い、メディアの利用、洗脳、歴史の歪曲などから見て来ました。

 

勝者により歴史は述べられ、文科省指導要領に沿ってその歴史を述べる抵抗感から教諭にならず、ひたすら海外を見聞しようと就職した私の経緯についても述べさせていただきました。

 

 

 

 

昨年末のブログから、「19世紀(1800年代)半ばの日本と世界情勢」②のところに来ています。

間に15~16世紀の西洋人の征服・植民地経営を挟んだのは、「植民地にされるということはどういうことなのか」を理解するために書いています。

 

もし15~16世紀にヨーロッパの大国に攻められていたら、あっという間に植民化され、今頃私たちの名前のラテン語ネームになっていたことでしょう。

数世紀経て、中南米や南米のように混血も進んでいたことでしょう。

今日のようなお正月は祝わず、1年のメインイベントはクリスマスになっていたでしょう。

現代は民主主義・平等と謳いながらも、元の白人支配層のような学歴と収入を得るのは難しい層となっていたことでしょう。

 

 

19世紀半ばでさえも、イギリスは中国やインドを植民地化しています。

この時代の日本とアメリカを見て来ましたが、今後はイギリス・フランス・ロシアと日本の関係にシフトし、日清戦争・日露戦争へどのように繋がって行くのかを見ていきたいと思っています。

 

途中、フランスの歴史、中国の歴史にも立ち寄ることもあると思います。

「スペイン・ポルトガルに植民地にされた中南米・南米がどのように独立して来た」「現代史、わかっているようであまり知られていない「ベトナム戦争」「ソマリア紛争」などにも踏み込みたいのですが、どうもブログ1回1回が長すぎになってしまって(^^;)

 

リクエストや質問はフェイスブック「しみずあきこ」で承っています。

 

 

一緒に国境も時間も超えて、あちこち旅していきましょう。

「地図」を携えてご覧いただけると楽しさ倍増です。

 

 

   

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