パイの限られた市場のシェア争いが激化してくると、皆こぞって実や花を探します。
企業は、すぐに成果を上げたいのです。
ところが、多少無理してでも、中長期的な戦略がある会社は違います。
蕾を探す部隊を持っています。
彼らは、まだ果実に成っていない、蕾を探すことが課せられます。
彼らの成果は、実の数ではなく、蕾の数です。
長篠の戦での「鉄砲三段撃ち」のように、
第1隊の背後では、次の部隊が撃つ準備をしています。
単年度での業績に引っ張られ過ぎると、
企業は毎年毎年振り出しに戻っては、また1から花や実を探さねばなりません。
御破算に願いましては~..
ここでスパイラルできずに、また同じ所へ戻ってしまっては進化できません。
実を収穫する部隊と、蕾を探す部隊と、苗を育てる部隊と、種を撒く部隊と..
それぞれの役割と目的を明確にして、戦略的に経営していくことビジョンが必要です。
かの藤原和博さんが書いていたことを、書き留めておこうと思いました。
・成長社会の特徴は、必ず一つの正解があると信じられることでした。
・「走れメロス」を読まされて、帰り道のメロスの気持ちに一番近いものを次の四つから選びなさいと設問がある。
・つまり一つの正解がこの中に必ずあると断定されているのですが、本来、正解なんてあるわけがないのです。
・みんなにとって正しいことが一つあると同じ方向に努力してきた時代。
藤原さんは、東大出身で当時のリクルートを作ってきた成績も地頭もよい人。
その藤原さんが「僕はこの<正解主義>を変えたいと思っている」と言っています。
3.11の「釜石の奇跡」について触れ、逃げる時は<津波てんでんこ> つまり、
ひとりひとり自分で考えて自分の命を守ることで、釜石の小中学校の児童のほとんどが
災害を逃れ生存した話を上げています。
腑に落ちるお話です。 覚えておきたかったので記しておきます。
時代とともに、いろんなことが変わってくる。
かつては、目抜き通りに店舗を構えて大盛況だった店も、
バイパスができるや通行量は激減。 閑散としたその場所に拘っていたら売上も激減。
多くの企業がこぞって出店し始めたバイパス沿いに小さな支店を出したら
わずか数年で本店の売上を抜いてしまいました。
今、お話したことは
たとえば、目抜き通り=ラジオや雑誌、 バイパス=インターネット と読み替えることもできます。
かつては、ラジオや雑誌で宣伝していれば大きな反響があり話題にもなったのに、
今はインターネットやモバイルという接点に広告したほうが届く、というような。
でもね、時代から距離を置いても人の匂いや生活の息遣いが感じられる街区には、
またぽつぽつと人が還ってきます。
かつての大名や紺屋町みたいに。 金沢ならば新竪町みたいに。 面白い小さなエリアはあるし、
それが好きな人たちもいます。
バイパスを通るクルマに向けて、道路標示を出せばいいだけなんです。
その限られた道標看板スペースに、何を謳うか、それが重要なんです。
道標を見てウインカーをあげ、旧道にやってくるクルマは、いずれまた少しずつ増えると思います。
旧道=かつての目抜き通り は、昔の街道筋のように、味わい深い佇まいで居心地がいいかも。
時代は、プラットフォーム戦略が主流ですが、
私は、その先の毛細血管のような部分に興味があるのです。
母が弾いていたオルガンがリストアされて妹の家に居りました。
弾いてもらった讃美歌が室内に響きます。
小さなオルガンが、荘厳に力強く鳴ります。
懐かしいオルガンには、気が付かなかったけれど
ちょんまげ姿の人がオルガンを弾いている装飾絵が描かれていました。
修理をしてくれたオルガン職人の方のお話ですと、
オルガンを開けた中に書かれた製造番号から、明治時代に作られたものだったことがわかりました。
曾祖母から代々伝わるオルガンを、妹やその娘が弾き鳴らしていくのですね。
私は、ずっとこの音を聞いて育ちましたから、オルガンの音色が大好きです。
多くの人々を惹きつけたNHKの「坂の上の雲」が、終わりました。
私にとっても、1904年~1905年の日露戦争は、もちろん「歴史」で、直接には知りません。
でも、直接経験した何人かの人たちから、話を聞いたことはあります。
私の妻の祖父は、若いころ熊本の連隊に入営しました。
除隊が1907年と記録されているので、入営は1905年か1906年、
日露戦争の直後と思います。
そのお爺さんのオハコは、閲兵に来た乃木大将から直接試問を受けた話でした。
すごく緊張したそうです。それはそうでしょう。
兵隊にとっては、連隊長の大佐でも雲の上の人で、
言葉を交わすことはまず無かったでしょう。
それが大将、それも旅順攻略で有名な乃木大将から、
直接試問されたのですから。
何を質問されて何と答えたかは忘れたが、
「よし」と言われてほっとしたことを覚えている、と言っていました。
九州本土からおよそ60㎞の沖合、九州本土と対馬のほぼ中間点、
玄界灘の真っただ中に、沖ノ島という小島があります。
宗像三女神の長姉、田心姫神(たごりひめのかみ)を祀る、
沖津宮(おきつみや)という、小さな神社があります。
私は2回行きましたが、初めて訪れた時は未だ灯台が無人化されておらず、
10日ごとに海上保安庁の船が灯台守の交替要員を運んでいた頃で、
その船に便乗させてもらいました。
二度目の時には立派な港が出来ていましたが、
初めて訪れた時は船を着けられる港がなく、
沖がかりと言って船は沖合に停泊しました。
灯台守たちは、船のボートで上陸しましたが、
私は、一人で櫓を漕いで来たお爺さんの小舟で、運んでもらいました。
そのお爺さんは、沖津宮のお守りをしている、ただ一人の島の永住者、
佐藤市五郎さんでした。
お宮まで案内してくれましたが、話はもっぱら日本海海戦の話でした。
日本海海戦は、沖ノ島付近で戦われたと、記録にもありますが、
市五郎さんは松の木に登って、この海戦を目の当たりに見たそうです。
その時17歳だったと言っていたように思いますが、
満年齢では16歳だったようです。
佐藤市五郎少年が、木に登って日本海海戦を目の当たりに見たことは、
司馬遼太郎の原作「坂の上の雲」にも出ています。
福間にYさんという、お婆さんがいました。
そのお婆さんの白寿のお祝いで聞いた話です。
日本海海戦の時は、10歳ぐらいだったようです。
ドーン、ドーンという砲声が盛んに聞こえ、
それがやがて静かになったので、戦いが終わったのだナ、ということは判ったけれど、
どちらが勝ったのかは、なかなか判らず、もしロシヤが勝ったのなら、
福間の海岸にもロシヤの水兵が上がって来るのではないかと、
エズかった(恐ろしかった)、と言っていました。
テレビはもち論、ラジオもない頃ですから、どちらが勝ったのか、
なかなか判らなかったのでしょう。
西の海はよかね。
半島や、大陸や、もっと遠いところから、
技術や、文化や、宗教や、そして
いろんな人がやてきたばいね。
ながい ながい 歴史の中で
そうやって “異なる” ことを受け入れ、折り合い、昇華してきたとが
九州なんよ。
きれいな海、旨いもの、笑顔と元気、
安心して信頼できる。
人も企業もブランディングとか言いようけど、
まず信頼できるかどうかやね。
それがなけりゃ、なんも始まらんもんね。
自分との違いを認めて、新しいものを生み出す力。
よか男、よか女の多いごたる気がするとは俺だけかいな。
小さなチームでも、九州の人がおると、ぱっと明るくなる気がするっちゃん。
九州という島の、好きなとこやね。
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