月の高い宵であった。
大和の盆地では、稲穂も刈られ丸裸になった田を尻目に、すすきの穂が夜風にそよぎ、静かに月を愛でている。
清新な空気はこの豊かな盆地の樹木の息吹そのものであり、青白い世界は静かに寝息を立てていた。
大和黒田庵戸宮の一室には荏胡麻の灯明がゆらりと二つの影を映していた。
揺れる影の主は吉備津彦と弟・稚武彦命であった。
彼らは日暮れ前から、共に進軍作戦を立てていたのである。
「兄者、吉備を目指す道は、陸路で明石、針間(はりま)を経て吉備へ入る道順と、海路で淡道島(あわぢしま)から伊予島は讃伎を経て吉備へ入る道順がありまするが、いずれから参りましょう。」
稚武彦が地図を指しながら言う。
伊予島とは、今で言う四国であり、神話に登場する正式名称は「伊予之二名島(いよのふたなのしま)」と言う。
この名称は「古事記」に現れるのだが、一つの胴体に、四つの顔を持った姿で描かれている。
四つの顔はそれぞれ「愛比売(えひめ)」「飯依比古(いひよりひこ)」「大宣都比売(おおげつひめ)」「建依別(たけよりわけ)」と言い、二人の男神、二人の女神であると言う。詳細な説明は省くが、愛比売は「愛媛」、飯依比古は「讃岐」、大宣都比売「阿波」、建依別は「土佐」をそれぞれ指す。
このような国の神格化については、国産み神話の項で述べる事にする。
さて、この時、吉備津彦が23歳であるのに対して、稚武彦は18歳であった。
吉備津彦が第三皇子であるのに対し、この弟皇子は第八子であると言う。
この時代は娘を勘定に入れないので、第八皇子であったと思われる。
稚武彦は、この少し年の離れた兄・吉備津彦が大好きであった。
幼い頃から稚武彦は他の兄皇子達には、母が侍女である事から虐げられていた。
しかし、この吉備津彦は稚武彦を可愛がり、事有る毎に励ましていた。
「気にする事はない。そなたには彼ら以上に武の才がある。これからはその武を磨くと良い。」
そして、稚武彦は軍事に長けた立派な将軍に成長していた。
それは父である孝霊天皇も認める所であり、畿内の対立勢力討伐を見込まれて、この度めでたく兄・吉備津彦に帯同する事を許されたのである。
また、稚武彦は、吉備津彦が姉譲りの神通力を持っている事に、尊敬の念を抱いていた。
稚武彦には神通力は備わっていなかった。その事もあって吉備津彦への憧れは、強い。
ともあれ、この度の吉備制圧は、稚武彦にとっての初めての本格的な遠征であり、そして兄皇子に認めてもらう絶好の機会であった。
その情熱は、兄の行軍に関する作戦を立てる役割を、つまり副将または軍師としての役割を、進んで買って出たかったほどだ。
先に示した進軍進路は、征伐を命ぜられた瞬間に彼の頭に浮かんでおり、同時に兄が選ぶであろう進路も想定していた。
「ならば我は伯父・大吉備諸進命に倣い、陸路を行く。折角、吉備津彦の名を賜ったのだ。脇道は望まぬ。」
吉備津彦の意気もまた盛んであった。そして、この吉備津彦の回答こそ、稚武彦が想定していたものであった。
「だが、稚武彦、そなたは海路を往き、讃伎より吉備に入れ。」
稚武彦は刹那の間、慌てた。
「軍を分けると仰られるのですか?」
この時代とは言え、大軍では無い場合、三千程度の兵を分割する事は、国責めにおいては上策ではないとされていた。
稚武彦にしてみても、兄と行軍を共にするつもりであり、別れて行軍する事は想定していなかった。
「左様。そなたは既に一端の将軍である。であれば、軍を分けて進む事も自然であろう。」
定石ではない。とは言え、兄のこの言葉に稚武彦は奮起した。兄の信頼に何とか応えねばなるまい、と思った。
と同時に彼の将軍としての本能は、瞬時にある計算をした。
大和王国は倭の最大勢力となったとは言え、その支配は完全ではない。
しかし、父・孝霊天皇の望む吉備の討伐に当たっては、ある勝算があった。
吉備の勢力は比較的大和王国に友好的であり、現地での兵の調達は可能であると見込む事ができた。
この度の敵の正体はまだ分からぬが、大和王国や吉備国に仇なす「鬼」である以上、吉備国としても協力をしてくれるに違いない。
「わかりました。見事、兄上の期待にお応えいたしましょう。」
意を決した稚武彦は、爽やかな笑顔を返した。
「うむ。」
それだけ答え、吉備津彦は満足そうに微笑んだ。
さらに二人は詳細な進軍作戦を立てていき、大筋の計画が成った。
夜も更ける頃には、二人は酒を酌み交わし、幼き日々の思い出を語っていた。
気が付くと室の外には、俄かに慌ただしい気配が帯びていた。
程なくして、姉・倭迹迹日百襲媛(やまとととひももそひめ)から使いが来た。
「お取り込み中、大変ご無礼仕ります。倭迹迹日百襲媛より急ぎのご伝言を仕りました。」
使者によると姉・百襲媛からの伝言はこうだ。
「甥の大彦命(おおびこのみこと)が北陸道を攻めていましたが、そこで、ある童が歌うのを、たまたま耳にしたと言うのです。その歌というのが、何とも不思議で、不吉な歌であったと言う事で大和へ引き返してきました。そして、一体どういう意味だろうかと相談してきたので、私が占ってみたところ、その歌の意味するところは、甥の武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)とその妻・吾田媛(あたひめ)が謀反を興し、大和へ挟み撃ちに責め入ってくると言う結果が出ました。大彦命にも伝えていますので、一緒に埴安彦命の謀反を止めて下さい。」
「武埴安彦が?わかった。姉上には大彦に援軍を出すと伝えよ。大儀であった。」
吉備津彦は姉からの使者を帰すと、稚武彦と再び行軍作戦を練り直す必要があった。
が、吉備津彦にとってみれば、甥・武埴安彦の謀反と言うのは、意外な事ではなかった。
武埴安彦は武勇に優れ、並ぶ者無しと言われる若武者であり、その妻・吾田媛は、河内のとある旧勢力の女王であった。
彼ら旧勢力は、元々南九州の勢力「隼人」であったが、いつの時代にか、河内や山城の南にまとめて住むように仕向けられていた。故に、便宜上、「河内隼人」、「山城隼人」などと呼ぶ事もある。
関連があるか分かっていないが、武埴安彦の反乱には、似た話が過去にある。
神武天皇の后は阿比良比売(あひらひめ)と言い、どうも神武が日向に在った間に、他部族より娶った姫であるようだ。
そして、阿比良比売は吾平津媛とも書き、日南市の吾田町の出身ではないかと言われている。
その阿比良比売の子は手研耳命(たぎしみみのみこと)と言い、父・神武天皇の死後、神武の正妻・媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)を妻にし、反乱を起こし、大和王国を我が物にしようと企てた。
しかし、神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)、後の二代・綏靖天皇(すいぜいてんのう)に討伐された。
ちなみに神武の正妻・媛蹈鞴五十鈴媛命は「たたら」の名を冠している所から、製鉄に関連していると推量されている。特筆すべきは、出雲の神の子孫であると考えられており、ここでも高天原族が先住民であった出雲族を飲み込もうとしていた事を読み取る事ができる。
子供が歌った歌は知る術はない。が、この故事になぞらえたものではなかっただろうか。
そして、百襲媛はその歌から謀反を察知したのであろう。
「稚武彦よ、姉上の占いは必ず当たる。吉備討伐に先駆けて、一緒に武埴安彦命を討伐するのだ。」
「分かりました兄上。では、大彦とは別の道にて大和への援軍を出しましょう。」
「うむ。わしの考えも同じであった。」
姉の占いによると、武埴安彦命は妻・吾田媛と示し合わせて、武埴安彦は山背から、吾田媛は河内から、隼人を率いて大和を挟み撃ちにしようとしている、と言う。
そしてこの夜、吉備津彦と稚武彦は、甥の大彦命と、縁戚の彦国葺(ひこくにぶく )と共に、挟撃を未然に防ぐ策を練った。
この事を大彦命に伝えると、大彦側でも同様の作戦を考えていた。
そして、吉備津彦と大彦の協議の結果、大彦・彦国葺は山背の武埴安彦軍を、吉備津彦・稚武彦は河内の吾田媛軍を討つ事とした。
かくして、大和への反乱を討伐する作戦は成った。
「得たり。」
血気盛んな稚武彦は、兄・吉備津彦に良い所を見せたかった。
思いがけず訪れたこの機会を、心の中で喜んだ。
月も傾き、酔いはすっかり醒めていた。


