いけ!!アフロの人!!

~1番ショート石井のブログ~


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月の高い宵であった。


大和の盆地では、稲穂も刈られ丸裸になった田を尻目に、すすきの穂が夜風にそよぎ、静かに月を愛でている。
清新な空気はこの豊かな盆地の樹木の息吹そのものであり、青白い世界は静かに寝息を立てていた。

大和黒田庵戸宮の一室には荏胡麻の灯明がゆらりと二つの影を映していた。

揺れる影の主は吉備津彦と弟・稚武彦命であった。
彼らは日暮れ前から、共に進軍作戦を立てていたのである。


「兄者、吉備を目指す道は、陸路で明石、針間(はりま)を経て吉備へ入る道順と、海路で淡道島(あわぢしま)から伊予島は讃伎を経て吉備へ入る道順がありまするが、いずれから参りましょう。」


稚武彦が地図を指しながら言う。


伊予島とは、今で言う四国であり、神話に登場する正式名称は「伊予之二名島(いよのふたなのしま)」と言う。
この名称は「古事記」に現れるのだが、一つの胴体に、四つの顔を持った姿で描かれている。
四つの顔はそれぞれ「愛比売(えひめ)」「飯依比古(いひよりひこ)」「大宣都比売(おおげつひめ)」「建依別(たけよりわけ)」と言い、二人の男神、二人の女神であると言う。詳細な説明は省くが、愛比売は「愛媛」、飯依比古は「讃岐」、大宣都比売「阿波」、建依別は「土佐」をそれぞれ指す。
このような国の神格化については、国産み神話の項で述べる事にする。


さて、この時、吉備津彦が23歳であるのに対して、稚武彦は18歳であった。
吉備津彦が第三皇子であるのに対し、この弟皇子は第八子であると言う。
この時代は娘を勘定に入れないので、第八皇子であったと思われる。


稚武彦は、この少し年の離れた兄・吉備津彦が大好きであった。
幼い頃から稚武彦は他の兄皇子達には、母が侍女である事から虐げられていた。
しかし、この吉備津彦は稚武彦を可愛がり、事有る毎に励ましていた。


「気にする事はない。そなたには彼ら以上に武の才がある。これからはその武を磨くと良い。」


そして、稚武彦は軍事に長けた立派な将軍に成長していた。
それは父である孝霊天皇も認める所であり、畿内の対立勢力討伐を見込まれて、この度めでたく兄・吉備津彦に帯同する事を許されたのである。
また、稚武彦は、吉備津彦が姉譲りの神通力を持っている事に、尊敬の念を抱いていた。

稚武彦には神通力は備わっていなかった。その事もあって吉備津彦への憧れは、強い。


ともあれ、この度の吉備制圧は、稚武彦にとっての初めての本格的な遠征であり、そして兄皇子に認めてもらう絶好の機会であった。
その情熱は、兄の行軍に関する作戦を立てる役割を、つまり副将または軍師としての役割を、進んで買って出たかったほどだ。


先に示した進軍進路は、征伐を命ぜられた瞬間に彼の頭に浮かんでおり、同時に兄が選ぶであろう進路も想定していた。


「ならば我は伯父・大吉備諸進命に倣い、陸路を行く。折角、吉備津彦の名を賜ったのだ。脇道は望まぬ。」


吉備津彦の意気もまた盛んであった。そして、この吉備津彦の回答こそ、稚武彦が想定していたものであった。


「だが、稚武彦、そなたは海路を往き、讃伎より吉備に入れ。」


稚武彦は刹那の間、慌てた。


「軍を分けると仰られるのですか?」


この時代とは言え、大軍では無い場合、三千程度の兵を分割する事は、国責めにおいては上策ではないとされていた。
稚武彦にしてみても、兄と行軍を共にするつもりであり、別れて行軍する事は想定していなかった。


「左様。そなたは既に一端の将軍である。であれば、軍を分けて進む事も自然であろう。」


定石ではない。とは言え、兄のこの言葉に稚武彦は奮起した。兄の信頼に何とか応えねばなるまい、と思った。
と同時に彼の将軍としての本能は、瞬時にある計算をした。


大和王国は倭の最大勢力となったとは言え、その支配は完全ではない。
しかし、父・孝霊天皇の望む吉備の討伐に当たっては、ある勝算があった。
吉備の勢力は比較的大和王国に友好的であり、現地での兵の調達は可能であると見込む事ができた。
この度の敵の正体はまだ分からぬが、大和王国や吉備国に仇なす「鬼」である以上、吉備国としても協力をしてくれるに違いない。


「わかりました。見事、兄上の期待にお応えいたしましょう。」


意を決した稚武彦は、爽やかな笑顔を返した。


「うむ。」


それだけ答え、吉備津彦は満足そうに微笑んだ。

さらに二人は詳細な進軍作戦を立てていき、大筋の計画が成った。


夜も更ける頃には、二人は酒を酌み交わし、幼き日々の思い出を語っていた。


気が付くと室の外には、俄かに慌ただしい気配が帯びていた。

程なくして、姉・倭迹迹日百襲媛(やまとととひももそひめ)から使いが来た。


「お取り込み中、大変ご無礼仕ります。倭迹迹日百襲媛より急ぎのご伝言を仕りました。」


使者によると姉・百襲媛からの伝言はこうだ。


「甥の大彦命(おおびこのみこと)が北陸道を攻めていましたが、そこで、ある童が歌うのを、たまたま耳にしたと言うのです。その歌というのが、何とも不思議で、不吉な歌であったと言う事で大和へ引き返してきました。そして、一体どういう意味だろうかと相談してきたので、私が占ってみたところ、その歌の意味するところは、甥の武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)とその妻・吾田媛(あたひめ)が謀反を興し、大和へ挟み撃ちに責め入ってくると言う結果が出ました。大彦命にも伝えていますので、一緒に埴安彦命の謀反を止めて下さい。」


「武埴安彦が?わかった。姉上には大彦に援軍を出すと伝えよ。大儀であった。」


吉備津彦は姉からの使者を帰すと、稚武彦と再び行軍作戦を練り直す必要があった。

が、吉備津彦にとってみれば、甥・武埴安彦の謀反と言うのは、意外な事ではなかった。

武埴安彦は武勇に優れ、並ぶ者無しと言われる若武者であり、その妻・吾田媛は、河内のとある旧勢力の女王であった。

彼ら旧勢力は、元々南九州の勢力「隼人」であったが、いつの時代にか、河内や山城の南にまとめて住むように仕向けられていた。故に、便宜上、「河内隼人」、「山城隼人」などと呼ぶ事もある。


関連があるか分かっていないが、武埴安彦の反乱には、似た話が過去にある。


神武天皇の后は阿比良比売(あひらひめ)と言い、どうも神武が日向に在った間に、他部族より娶った姫であるようだ。
そして、阿比良比売は吾平津媛とも書き、日南市の吾田町の出身ではないかと言われている。
その阿比良比売の子は手研耳命(たぎしみみのみこと)と言い、父・神武天皇の死後、神武の正妻・媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)を妻にし、反乱を起こし、大和王国を我が物にしようと企てた。
しかし、神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)、後の二代・綏靖天皇(すいぜいてんのう)に討伐された。


ちなみに神武の正妻・媛蹈鞴五十鈴媛命は「たたら」の名を冠している所から、製鉄に関連していると推量されている。特筆すべきは、出雲の神の子孫であると考えられており、ここでも高天原族が先住民であった出雲族を飲み込もうとしていた事を読み取る事ができる。


子供が歌った歌は知る術はない。が、この故事になぞらえたものではなかっただろうか。

そして、百襲媛はその歌から謀反を察知したのであろう。


「稚武彦よ、姉上の占いは必ず当たる。吉備討伐に先駆けて、一緒に武埴安彦命を討伐するのだ。」


「分かりました兄上。では、大彦とは別の道にて大和への援軍を出しましょう。」


「うむ。わしの考えも同じであった。」


姉の占いによると、武埴安彦命は妻・吾田媛と示し合わせて、武埴安彦は山背から、吾田媛は河内から、隼人を率いて大和を挟み撃ちにしようとしている、と言う。

そしてこの夜、吉備津彦と稚武彦は、甥の大彦命と、縁戚の彦国葺(ひこくにぶく )と共に、挟撃を未然に防ぐ策を練った。


この事を大彦命に伝えると、大彦側でも同様の作戦を考えていた。

そして、吉備津彦と大彦の協議の結果、大彦・彦国葺は山背の武埴安彦軍を、吉備津彦・稚武彦は河内の吾田媛軍を討つ事とした。


かくして、大和への反乱を討伐する作戦は成った。


「得たり。」


血気盛んな稚武彦は、兄・吉備津彦に良い所を見せたかった。

思いがけず訪れたこの機会を、心の中で喜んだ。


月も傾き、酔いはすっかり醒めていた。


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さて、吉備津彦達が吉備への進軍作戦を練っている間に、我々は高天原族について少し学ばねばならない。


神倭伊波礼琵古命(かむやまといわれひこのみこと)こと、日本の初代天皇である神武天皇は、高天原と言う天界から降臨した、高天原族の後裔であると言う。


それでは高天原族が東へと急激に歩みを進めた理由は何だったのだろうか。


その答えは神話の世界にあった。


太陽神・天照大神などの八百万の神々による合議で、「葦原中国(今の日本の国土)の平定が終わったので誰かに支配させよう」となり、高天原より「日向襲之高千穗峯(ひむかそのたかちほみね)」に天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命(あめにぎしくににぎしあまつひこひこほのににぎ)と言う天照の孫を降臨させる事が決まったと言う。


そして天孫が降り立った所から、今の日本での高天原族の足跡つまり歴史は始まると言う。


この小説では、このような日本神話を度々引用する。
これらは『古事記』『日本書紀』に記述されており、高天原族の統治の正統化の為に、編纂時に作られり、改竄された神話が多いのである。
しかし、歴史書として見逃せない記述が多い。従って物語の重要な要素として積極的な考察を組み込みながら引用して行く。


まずは天照大神の孫「天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命」の名前であるが、凄く象徴的で抽象的な名前である。


平たく言うと「天を賑やかし、国を賑やかす、天から来た男、稲穂を賑やかす使命を帯びた神」つまり豊穣の神であろう。長いのでニニギとする。


つまり太陽神の孫である豊穣神・ニニギは高天原と言う天界から日向に降り立ったと言うのだ。
どうも農耕文化を朝鮮半島よりもたらした事を連想させる名前である。故に渡来人系であった事が想像される。


ここで、もう一つだけ触れて置かねば先へ進めない事がある。


天照大神が言った「葦原中国の平定が終わったので」降り立って治めよ、の意味である。
つまり、ニニギに先立って、葦原中国の国を造っている者がいたという事である。


実は、今現在の日本神話すなわち日本の歴史は、我が国最古のまとまった歴史書である「古事記」(「帝紀」「旧辞」の再編版)の時代から既に、先住民の存在を認めている。
もっともそれは神話の世界の話であり、神々の姿で描かれており、明確にどういう民族がどういう規模で存在していたかまでは読み取れない。


だから日本の歴史家達は、こぞってその謎に挑むのであった。


さて、古事記に拠ると、ニニギに先立って葦原中国の建国は、出雲族の神である大国主命(おおくにぬしのみこと)とその子・事代主美命(ことしろぬしのみこと)が、海から出雲へ流れ着いた創造神の子・少名彦名命(すくなびこなのみこと)と協力して行なったと言う。

大国主命は、古事記では国津神(くにつかみ)と呼ばれる土着神として描かれており、高天原の神であるところの天津神(あまつかみ)が遣わした建御雷神(たけみかずちのかみ)にその国土を譲った事になっている。

この事は、別の信仰を持つ土着の民族を、高天原族が退転させたか、支配下に治めて大和王国を形成していく過程を描いたものと捉える事ができ、歴史上極めて重要な記述である。


この出雲神話については別の機会で詳細に述べ、ここでは出雲系の神が既に葦原中国を支配していて、高天原族に葦原中国を「譲った」と言う事を述べるに留める。


さて、ニニギの子孫である神武の東征だが、そのあらましはこうだ。


日向の皇子・神倭伊波礼琵古命は兄弟皇子を集めて演説する。
「葦原中国を治めるためにニニギが降り立ったという天孫降臨以来、1792470年以上が経ったが、我々は未だに日向にあり、葦原中国を支配できていない。国中を支配するのに、もっといい場所を目指して領土を拡大すべきではないか。」


兄弟皇子たちは「賛成である。それなら東に大和と言う国がある。今は出雲族が治めているが、葦原中国を治めるには丁度いい場所である」と言い伊波礼琵古は東へ上るのであった。


そして、筑紫の国、豊の国を経て、本州へ上陸し、阿岐、吉備を経て難波、河内から熊野から大和へ入った。
大和へ入ると出雲族の勢力の激しい抵抗に遭いながらも、神の加護によって何とか大和を平定したと言う。
実は神話に有った時代ではなく、その過程で出雲族を退転させているのかも知れない。


古事記に拠れば、遂に今から2670年前、つまり紀元前660年に大和で即位し、神武天皇となったとしている。

この時のメインのルートが山陽道であったと考えられている。


高天原族は今の宮崎県・高千穂町のあたりを拠点とした豪族であると思われる。
そのルーツは不明だし、邪馬台国との繋がりは見えないが、少なくとも、これよりも後の時代の史書に国名のある「奴国」や「邪馬台国」が加盟していたであろう「倭」という連合国に加盟したものと思われる。

または倭の創立者であり、治めていたのは日向の国だったのかもしれない。


倭は元々朝鮮半島の勢力を指した名前である説や、「やまと」の当て字であると言う説がある。
この倭の100余の国の内、30ヶ国程度で中国の言葉が通じるとも書かれている。
ここでは「和」の意味を尊重し、朝鮮半島南部から日本の九州北部へ伸びた小国家連合として扱い、大和王国の母体となったと考える事にする。そして高天原族は、朝鮮半島より入植し、日向を足がかりにして、この倭の首長になったのではないかと考える事にする。


一般的に卑弥呼の時代の中国の歴史書「漢書地理志」「魏志倭人伝」「後漢書東夷伝」などの記述が、古代日本の姿を知る手掛かりとされていて、記述にある中国までの足跡などから、邪馬台国の位置を探ろうという試みが繰り返されてきていて、それが邪馬台国「畿内説」「北九州説」を生み出している。


江戸時代の旗本・新井白石は、6代将軍・徳川家宣、7代・家継の時代に、間部詮房と共に「正徳の治」の側用人政治で活躍した事でおなじみだが、彼は8代・吉宗の時代に失脚した。失脚後は、深川の田舎屋敷でしばらく暮らした後、千駄ヶ谷で隠遁していた。その間に様々な歴史上のまとめを行なって、『藩翰譜』、『読史余論』、『古史通』などを著した。


そして白石は、『古史通或問』の中で、初めて邪馬台国の位置を大和国(奈良県)であると記述した人物でもある。1716年の事だ。


一方北九州説を初めて唱えたのは国学者・本居宣長で、1778に著した『馭戎慨言(ぎゅじゅうがいげん)』で初めて主張している。彼は現代においてもなお通用する古事記研究の第一人者である。


このようにすでに邪馬台国の論争は250年近くにも渡り繰り返されてきたが、結論は出ていない。
しかし様々な考察や物証から、私は北九州説を採ってこの話を書き進めて行きたい。


さて、そのように神武東征が行われていたものの、吉備津彦の当時の倭は、まだいくつかの大国とのパワーバランスを保ちながら、勢力を拡大して行く過渡期にあった。


父・孝霊天皇の兄は大吉備諸進命(おおきびのもろすすみのみこと) と言い、吉備津彦以前に吉備を何度か討伐し、その功績から後世にその名が付けられたとされている。が、この人物についても十分な記述が残っていない。


そもそも吉備国とは、今の広島県東の一部から岡山県全土、それに香川県の一部に兵庫県の西部までを含めた、かなり広範囲の地域を指している。


この強大な吉備の討伐のために、孝霊天皇の兄・大吉備諸進命は生涯を捧げたようだ。


余談にはなるが、孝霊天皇だけではなく、当時の皇統を見ると第1皇子が皇統を継いでいない事が多い。
恐らく大和王国の成長期に在ったため、軍事に長けたものは都を離れ、討伐を行い、政治に長けた者は都に在って皇位を継いで統治を行なったのかと思う。ただし、孝霊天皇自身も出雲に近い伯耆の国に直接出兵したりしているので、そうでないかも知れない。


いずれにしてもこの時代における吉備と言う国は強国であり、出雲族系との厚い繋がりが見え、高天原族は度々討伐を行なっていた事と、その重要な任務を吉備津彦と稚武彦に任ぜられた事を知っておいて欲しい。


さて、どうやら吉備津彦と稚武彦の進軍行路が決まったらしい。


が、どうも慌ただしい様子である。


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昔々大和の国に、第七代孝霊天皇の三男の彦五十狭芹彦命(ひこいさせりびこのみこと)と呼ばれる皇子がいた。


彼は勇猛果敢で、大和王国の権力拡大に多大な貢献をしている勇者であった。


彦五十狭芹彦命は、父・孝霊天皇の命により、畿内の支配を強固なものにすべく獅子奮迅の活躍を繰り返している。


明けても暮れても戦に次ぐ戦の日々であった。


「そなたらにも苦労を掛けるが、それもこの大和国を大陸の国々に並ぶ強固で豊かな国にするためじゃ。」


そう言って彼は、あご髭で呑むかの如く、豪快に酒を垂らしながら家臣をなだめていた。


後に大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)と呼ばれるようになる人物である。


彼は大和王権に有って、生まれながらにして母違いの長兄の大日本根子彦国牽尊(おおやまとねこひこくにくるのみこと)が皇統を継ぐ事が決まっている中、次兄の日子刺肩別命(ひこさしかたわけのみこと)や第四皇子の彦狭島命(ひこさしまのみこと)、第八皇子の稚武彦命(わかたけひこのみこと)達と共に、一軍の将となって、乱立した小国同士の内乱状態がようやく一段落した大和王国を、より強大な国家に築き上げるために、転戦する日々が続いていた。


弓や剣の扱いだけではなく、行軍、布陣、戦術、兵站と言った軍事から、民の統制、人心掌握、そして姉譲りの神通力に至るまで、その技術は一流である必要があったため、幼い頃より、果てなく帝王学を身に付ける日々を送り、そしてすべて一流の人物となっていた。


姉譲りの神通力と書いたが、その姉について詳しく述べねばならない。


彦五十狭芹彦命は大和黒田庵戸宮(やまとのくろだいおどのみや)で孝霊天皇と母の倭国香媛(やまとのくにかひめ)の皇子として生まれた。


と言うが、母については詳しい話は伝わっていない。が、彼女には彦五十狭芹彦命の他に娘が二人いた。


一人は倭迹迹稚屋姫命(やまとととわかやひめのみこと)、もう一人は倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)と言う。


二人の姉は母の美貌と優しさを引き継いで、幼い頃からいつも彦五十狭芹彦命を癒してくれていた。


しかし倭迹迹日百襲媛には、それ以上に不思議な力があった。


彼女には、鳥が舞うように空に魂を飛ばし、自由自在にあちらこちらを見に行く事ができた。故に「鳥飛ひ」の名を冠する。また、占いに長じていたため、様々な先読みができたし、彼女は神を降ろす事のできる巫女でもあり、その能力は戦においても大変重宝された。


彼女はその巫女的な性質から、「鬼道」で国を治めた卑弥呼の正体ではないかと推量されたり、後に数奇な運命で命を落とす事になるのだ。


とにもかくにも、彦五十狭芹彦命もこの姉に似て不思議な力を持っていたのである。


正確には、そもそもこの時代の一部の人間には、神の力が未だ明確に残っていたのだ。


孝霊天皇や彦五十狭芹彦命をはじめ、大和王国を建国している一族は高天原族と言う一族であった。
彼らは高天原と呼ばれる、神々の住む世界から降臨して来た一族の末裔で、並々ならぬ能力を持っており、その力で日本を統べようとしているのであった。

彼らは神と密接に結びつく事によって、様々な奇跡を起こしたり、予言ができたし、別の動物に変身する事もできた。


それを以って「神通力」と称していた。現代で言う神通力とはだいぶ異なり、神秘的な力である。


高天原と言う天界から、日向の国に天降った天孫の子孫であると言う、神倭磐余彦(かむやまといわれひこ)と言うものが、倭の中で最も力を付け、東征を繰り返し、大和へ至った。

その過程において、教えに従わぬ者には容赦をせず、滅ぼした。
倭のいくつかの従わなかった小国家は滅ぼされたし、逃れた者への追求も厳しいものであった。
教えに従わず、滅ぼされた者達の代表者として、クマソや、エミシ、ツチグモやオニがいた。
彼らは例外なく土着の先住民族であったが、高天原族はその土地を奪う事に執着し、服属させるか、退転させるか、討伐した。その討伐を以って「鬼退治」の逸話が各地に残っているのである。


このように彦五十狭芹彦命の家系は「鬼退治」の歴史を持つ家系であった。


敵は多い。


ある日、彦五十狭芹彦命に父・孝霊天皇より新たな討伐令が下されるのであった。


「そなたに山陽道の平定を命ずる。これより大吉備津彦命と名乗るが良い」


当時の吉備は一旦は大和王国に服属するものの、先に退転させた出雲王族の末裔や、朝鮮半島から渡って来た渡来人や、土着の豪族の反乱によって大和王国からの独立を企む不穏分子が数多あった。


「吉備津彦よ、近頃吉備の国からの貢物が減っている。恐らくは鬼のせいであろう。稚武彦と協力して、まずは吉備を平定いたせ。」


吉備津彦は弟・稚武彦と共に三千の兵を率いて行く事とした。


孝霊天皇の53年、吉備津彦23歳の事である。


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僕が岡山へ転勤したのが2009年11月1日。

早くも2年の月日が経過したが、仕事に追われる日々に負け、無二の慰みである歴史探索もままならなかった。

だが、これではストレスも溜まるし、知識も揮発する可能性も高い。
ここは自分の正念場と一念発起して、歴史研究の成果をここに書き綴っていきたい。

岡山県に転勤が決まった時は、この県には大した印象は持っていなかった。正直な事を言うと、中国地方の広島以外には、あまり「県」として興味はなかった。

しかしどうであろう、古代日本の呼称である吉備、明治維新までそう呼ばれていた、律令制度で名付けられた美作、備中、備前・・・この呼び方に変えた途端、俄然興味が湧いてくる。

歴史好きであり、剣士である僕にとって、これらの国名には心踊るものがある。

美作と言えば、天下無双の剣豪・宮本武蔵を輩出した場所である。

備中は羽柴秀吉が毛利家の高松城に対して空前絶後の水攻めを行い、織田毛利の和睦を取り付け、不在時に発生した本能寺の急変に神速で駆けつけた「中国大返し」の、そして天下統一の正に起点となった舞台である。

備前は何といっても備前長船。天下の名剣の産地である。

吉備と言えば・・・真っ先に思いつくのが吉備団子。
吉備団子と言えば、今回の主題である桃太郎伝説の産地である。

♪もーもたろさん、もーもたろさん、おこしにつけたーきびだんごー、ひとつーわたしにくださーいなー。

誰もが子供の頃から知っているであろう童話「ももたろう」。
僕が人生で最初に感じた違和感は、桃太郎が鬼が島の鬼退治に連れて行ったお供の動物3匹であった。もちろん、犬猿雉の事である。

犬については、その俊敏さと、鋭い牙や吠え声、そして賢さや忠実さは、言わずもがな、世界でも古くから「人間の友」として馴染みがある動物である。
「イヌ」の語源は命令したそばから「居ぬ(去ぬ)」と言う俊敏さからとする説が有力である程だ。お供筆頭として合点がいく。

猿についても、俊敏さを備え、鋭い牙を持つ。しかしなんと言っても人間並みの賢さと器用さを持ち合わせている。
「サル」の語源も去ると説が有力とされるが、その動物界有数の賢さから勝るが転じて「サル」となったとされる。なるほどこちらも合点が行く。

しかし雉はどうであろう。

絵本には雉が鬼の目を突付いて攻撃している絵が描かれている。
雉と言う鳥を子供の頃にはあまり知らなかったが、少なくとも鷲や鷹などの方が鳥類で強い事を知っていた。

子供心に感じた違和感。

なんできじ????

雉と言う鳥で思いつくことは、美味しいキジ鍋や一万円札に書かれた姿。
そして一般の認知度は低いかもしれないが、キジは日本の国鳥であるという事。

しかし、国鳥に選定された公式な理由とは、「狩猟に最適である」と言う世界に類を見ない珍しいと言うか、雉に取っては不名誉なものである。
「キジ」の語源は「帰じ」とも言われるが、有力なのは「キギシ」と言う古語が詰まったもので、鳴き声からきたものとされる。

余談だが、ある芸能人がテレビで桃太郎の鬼退治は、貧しい村の老夫婦が子供を口減らしのために山の中に捨てたり、殺したりして「居なくなり去って帰らない」と言う悲しい歴史の比喩であると言う都市伝説を披露したが、これは語源的には正解かもしれないが、まったく物語とは関係ない。

話が逸れたので改めて言おう。

なんできじ????

この子供の頃の違和感は大人になるにつれ、どうでもいい事になっていた。
しかし、岡山転勤を機に新たに発生した別の疑問の解決過程の中で、期せずして解消される事となった。

その新たな疑問は、赴任早々の休日に、岡山市の西側にある吉備路をサイクリングしている時に、大きな姿をして浮かび上がってきた。

この吉備路には、古墳時代の中期に当たる5世紀前半から中盤、つまり西暦450年前後に作られた、日本で4番目に大きな前方後円墳「造山古墳」がある。全長350m、幅190m、高さ29mもある巨大建造物だ。

サイクリング中にその存在を知り、僕は「え?なんで?こんなものがこの岡山に?」とドキっとした。
そして頭に渦巻く疑問で、胸の鼓動を押さえられないほどであった。
この巨大な古墳はなぜこの場所にあるのだろうか?

僕に取ってこの疑問は日本建国の謎そのものであった。
時代年表を見ればなぜそんなに興奮したかお分かり頂けると思う。
そもそも古墳時代は3世紀後半から7世紀半ばまで、つまり西暦250年当たりから650年あたりまでを指すのでその近辺を抜粋する。


57 奴国王が漢より金印を受領する。
239 邪馬台国の卑弥呼が漢に使者を送る。
285 漢字が伝来する。
350 大和政権が日本をほぼ統一する。
391 大和朝廷の軍が朝鮮で高句麗と戦い、任那に日本府を設ける。
421 倭王讃(仁徳天皇?)が、宋に使者を送る。
456 雄略天皇即位。
538 百済から仏教が伝わる
562 任那の日本府がほろぶ。
574 聖徳太子の誕生。
587 蘇我氏が物部氏を滅ぼす。
589 隋(ずい)、中国を統一。
593 聖徳太子が推古天皇の摂政となる。
594 推古天皇が仏教を盛んにする詔を出す。
603 冠位十二階を定める。
604 十七条の憲法を定める
607 小野妹子を隋に送る(遣隋使)。
奈良に法隆寺を建てる。
618 唐、中国を統一。  
622 聖徳太子が死去。
630 遣唐使の派遣。
645 大化の改新
663 白村江の戦い (○唐・新羅連合軍×●百済・日本連合軍)

古墳は有力権力者の墓であり、無数に造られたが、これ程大規模な前方後円墳となると、古墳時代後期からは大和政権の大王、つまり天皇家の祖先のもの以外はほとんどないとされる。

天皇家の系譜については、伝説的なものが非常に多く含まれているが、実在が明確になっているのは、21代雄略天皇以降である。
雄略天皇の在位は456年-479年。5世紀後半である。
そのお爺さんが仁徳天皇である。
日本で一番大きな前方後円墳は大阪にある大仙陵古墳であり、この古墳の作られたのは5世紀前期~中期とされている。

そう、つまりこの造山古墳は仁徳天皇御陵と非常に近い年代に造られたと考えられている。これは大和政権が当時どこにあったのか、当時の日本の政権がどうなっていたかを考える上で重要なもののように思える。

その謎を追う中で、桃太郎の伝説に行き当たった。

またまたサイクリングで発見した中山茶臼山古墳。
ここは地元では「御陵」と呼ばれている古墳であり、現在は公園になっているが、かなり大きな丘である。後で判明したのだが、長さ120m、幅80m、高さ19mもある前方後円墳であった。
登ってみると、埋葬され、祀られていると伝えられているのは、吉備津彦命という7代・孝霊天皇の第3皇子であると言う。
驚いたことにこの御陵の管理管轄は「宮内庁」と書かれている。

これまた鳥肌ものの興奮を覚えたのである。
しかし驚いたのは、推測造営年代が3世紀後半から4世紀に掛けて、つまり250年から300年代であり、年表からも分かるとおり、、、邪馬台国が使者を送ってから大和朝廷が日本を統一するまでの間に当てはまるのである。

実はこの中山茶臼山古墳の主、吉備津彦命こそが、桃太郎のモデルである人物である。
そこから吉備津彦命について詳しく調べ始めると、色々な事が分かってきた。

吉備津彦は温羅という土着して豪族となった百済皇子の討伐を命ぜられた事、有能な家臣団を有していた事、様々な伝説的なエピソードが複雑に入り組んで地名としてこの地に残っていること、などだ。

これらの謎、疑問解明への欲望を端として、岡山へ来てからというもの、歴史考察が進んでいる。しかし謎は深まるばかりである。


桃太郎のモデルである吉備津彦の物語を中心に、現代日本の姿の本質に迫る書き物を、どのくらい掛かるか分からないけど、これから少量ずつでも、できるだけ分かり易く書き進めて行き、読んだ人に歴史を好きになって欲しい。


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個人的には


いやだ!!!


それ以外ない。


でも、


どんな小手先のテコ入れも


もはや通用しないとこまで来てしまったのかな


てのも本心から思う。


そしてメンバーに実際会ってみて


揺るぎない決意を感じた。


お互いにさびしくもあり、


実際のところはまだ戸惑いもある。


だが、


背水の陣を布いて


必勝の体制で挑む決意。


ここでガタガタ言っていては


アフロが廃る!!!


あ、アフロ最近かぶってないんだったー。


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