80’sの洋楽POPS&ROCK(1980~1989) -2ページ目

R.I.P…ファーギー・フレデリクセン

ファーギー・フレデリクセン Fergie Frederiksen

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TOTOの2代目メインヴォーカリスト「ファーギー・フレデリクセン」が
亡くなった。彼の残した奇跡を彼の歌声とともに・・・


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ページ最後には最新の彼の「勇姿」が!


まずは、84年利リースTOTOの5枚目のアルバム「アイソレーション」より・・・


「Angel Don't Cry」…



51年アメリカ合衆国ミシガン州グランドラピッズで、デンマーク系
の家庭に生まれる。

13歳の時に 歌い始め、15歳になると40歳代のミュージシャン・グ
ループコモン・ピープルをバックにクラブやパブでハイトーンを披露。

セントラル・ミシガン大の体操選手特待生として進学し、1年の時に
ミシガン州チャンピオンに、将来のオリンピック選手として期待された。

しかしながら、体操ではなく音楽で生計を立てる道を選んだ。

バンド・ヴォーカリストの歩み・・・

75年、MSファンクのリード・ボーカリスト、トミー・ショウの代役で、
76年MS解散まで同バンドに在籍。

78年、トリリオンのメンバーとして、エピックより初のレコード・デビ
ューとなる「氷牙」がリリース。

大学卒業後はセッション・ワークを主体として活動、映画音楽やコマーシ
ャル・ジングルに作品提供。

ヴィレッジ・ピープルの映画「キャント・ストップ・ザ・ミュージック」
にてデヴィッド・ロンドン名義で、「サマンサ」と「サウンド・オブ・ザ・
シティ」を歌い、同アルバムは豪州でチャート1位、英国で9位となる。

自身初ソロ・アルバム、「デヴィッド・ロンドン」をスウェーデンのメト
ロノーム・レコードからリリース、同アルバムは流通量が少ないためかなり
入手困難。

CMソングでは、クラフト・ゼネラル・フーズ社提供のCM歌を提供。

エンジェルのキーボーディストのグレッグ・ジェフーリアの招聘でリード・
ボーカルとなる。

82年頃、カンサスのリードボーカルのスティーヴ・ウォルシュが脱退に伴い
サミー・ヘイガーを含む200人が挑んだ後任選出オーディションでジョン・
エレファンテと争そったが敗北。

カンサスのマネージャー、バッド・カーの目に留まることとなり後の道が開
けた。ジム・ピータリック率いるサバイバーの新リード・ボーカルに収まり
そうになったが、「アイ・オブ・ザ・タイガー」にてバックグランド・ボー
カルで終わってしまう。


83年、TOTOヴォーカリスト、ボビー・キンボールが在籍したバンド「ル・ルー」
のリード・ボーカル・スポットに空きがあるとマネージャーのバッド・カーから
聞きつけ加入、アルバム「ソー・ファイアド・アップ」をRCAレコードからリリ
ース。

フレデリクセンのデモ・ビデオをTOTOのドラマーのジェフ・ポーカロが入手。

同バンドに興味を持たれオーディションを受ける。ジェフ・ポーカロが強くフレ
デリクセンを推したこともあり、同予選でエリック・マーティンを退け、キン
ボールに代わってリード・ボーカルの座を獲得。

TOTO5枚目のアルバム「アイソレーション」をコロムビアから発売する。


「ストレンジャー・イン・タウン」がヒットしたが、セールス的には前作を上回
ることは出来なかった。次作「ファーレンハイト」ではバックアップ・ボーカル
で1曲のみ参加。

87年頃からは、ボストンのギタリストのバリー・グドローの新プロジェクトRTZ
でデモ作成に入り、同バンドのボーカルに納まりそうになったが頓挫。

88年ドイツに渡り、同国のヘビー・メタル・バンド、Karoのアルバム「ヘビー・
バースデー」5曲目、「火の玉」で攻撃的バッキング・ボーカルを担当。

この後、音楽業界に嫌気が差し引退、数年間レストラン・ビジネスに携わる。

最後にこれを・・・2013年の彼のセルフ・カヴァー・・・

彼の最後で最新のアルバム「エニイ・ギヴン・モーメント」より・・・


「Angel Don't Cry」・・・




ファーギー、安らかに。

<アルバム>
ファーギー・フレデリクセンのソロアルバム一覧

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