F式?w三国志解答編(曹操の続き(vol.3) | FWのブログ

F式?w三国志解答編(曹操の続き(vol.3)

 

 おはようございます~

 今めざど観ながら書いてますが、日差したっぷりいいお天気♪

 

 週末はお出かけ日和!土曜は晴れ!寒の戻りで寒いですが、

 もしかしたら東京の桜の開花が宣言されるかな?

 日曜日は比較的春のあたたかさが戻ってきますね!

 めまぐるしい季節の移り変わり、気温が大きく変わるので

 身体には気をつけて素敵な週末にしたいものですね!

 

 ちっちゃなSPキューティwに会えるので楽しみな朝です!

 それとスマホ乗り換え目的でキャンペーンに行くので、

 何気にあわただしい・・・

 

 長い前置きが続いたところで<(_ _)>タイトル記事の本題に入ります。

 

 

 番組でも紹介されていたが、

 史記の中に端的に為政者と民の営みの関係の公理を綴った一節がある。

 非常にシンプルだが核心を衝いている!

 古代から中世へと続く人の営みとして脈々と息づく言葉である。

 

 「王者以民人為天、而民人以食為天」

 という一節であり、その意味漢文表わすごとく、

 王者にとって人民が最も重要であり、人民にとって

 食が最も重要である。

 ということである。

 

 曹操は未曾有の大飢饉に苦しむ民を目にして、覇者への道を駆け抜ける

 に当たり、このシンプルな現実を肌に突き刺さるような感覚で

 心に刻み、覇者として新政権統一への道標として政治に活かし、発想し

 エネルギッシュに実行した。

 

 その実際を出典番組を僕流に紹介して描いてみたいと思います。

 

 その前に、僕が社会に出てすぐ読んで感銘した三国志の書籍を

 ご紹介します。陳舜臣氏著作の「秘本三国志」という本です。

 

 惜しむらくも著名歴史小説家であり、歴史家でもある著者の陳先生は

 近年この世を去られています。

 

 神戸元町生まれで曹操が建国した魏の名将陳羣、陳泰は

 祖先にあたられるとのこと。

 陳寿(正史三国志の著者)は陳羣の後継陳泰のことを

 「陳泰は広く世を救い、極めて慎ましく潔い人柄であり、誠によく父業を受け継いだ」

 と賞賛しており、その後の悠久ときを得て血筋の陳舜臣先生が書を執筆されて

 いることに思い深き感慨を感じてしまいます。

 

 本題から横道にそれましたが、粛々と先に筆を進めます。

 

 曹操が何故大軍を結集できたのか?この答えを結論から

 言えば、出自に関係なく実力主義を重んじその能力で人材重用した

 曹操の合理的考え方が、当時掃討された後も現在の山東省方面を

 拠点としていわゆるゲリラ戦法で残存していた100万とも言われた

 黄巾の乱の残党を自らの勢力への糾合へとつなげたからです。

 

 劉備は漢王朝の再興を掲げ割拠し、孫権も黄巾の乱の民を賊として

 言わば軍隊としてみなさなかったので、両勢力とも黄巾の残党を

 兵力とする発想には及びもつかなったのでしょう!

 

  しかしこれを実行できた曹操の気宇壮大な人格には当時の黄巾の残党

 にも心通じるものがあったのではないかと僕は想像します。

 

 それはさておき、その結果曹操の軍は大勢力となり、中国北部で

 周辺地をどんどんその支配下にしていきます。三国の中で勢威を

 大拡大した曹操も、あの有名な赤壁の戦い(大船団同士の大河上

 の歴史的大戦)で劉備孫権連合軍に大敗北を喫し、一時勢威を

 弱めることはご存じの方も多いでしょう!

 

 しかし、曹操はその大痛手を受けてもあくまで自らの理想の実現

 を諦めるような人物ではありませんでした。倒れたところからまた

 何かを掴む大英雄だということがここからもわかります。

 

 そもそも後漢が倒れるまでに至るまでの若き曹操は、都洛陽の

 今で言う裁判官に該当する官吏の任にありました。

 

 そこでは、富裕の有力者であろうと一介の庶民であろうと裁きは

 法に基づき厳格公平に裁きました。その結果富裕有力者である

 理由だけで罪を免れたり、軽減されてたそれまでのものとは全く違う

 処し方で職務に臨んだ曹操に対し、恨みつらみとこれを憎む心で、

 有力者達が彼の失脚を画策します。しかし完璧に職務に精励する

 曹操には非の打ちどころが見つからず、地方行政長官に栄転させる形で

 都から追い払うのが関の山だったと言います。

 

 しかも赴任先の地方でも有力者から贈られた賄賂を咎として

 その有力者を逮捕した程の徹底ぶり!まさに時代の反逆者

 という受け止められ方をしていたのでした。(正史三国志より)

 

 政治的腐敗を生む治世のあり方を鋭い洞察力で見抜き、

 法という正義と秩序の源泉を踏みにじる者は誰であっても

 許されるものであってはならぬ!という漢王朝末期に蔓延した

 腐敗した政情の革新者たるを志した曹操は旧勢力の人達

 からは忌み嫌われたのはこの頃からもそうでした。

 

 そんな確固とした決意で沈着かつ冷徹さも兼ね備えた曹操は、

 赤壁の戦いでの大敗戦も次の自らの進化の糧として

 真摯に向き合い、柔軟で冴えわたる頭脳と身体中から発散する

 エネルギッシュさで先ずはこの戦乱の中で戦いに勝つための

 方策として、ますます能力溢れる逸材を求めることだと確信し、

 そのことに傾注します。

 

 その中では伝統的考え方や当時の人達がなんら疑問を抱くこと

 もなかった家柄や血筋に基づき世襲で人材登用の道を開くこと

 はおろか、それまでの行いで瑕疵ある者であっても能力に秀でた

 者であれば広く人材を求める姿勢になって行きます!

 

 敵方の部将関羽を何度も自らの人材に求めたこともその一例

 ですが、仮に忠義とか礼節とか伝統的儒教では重んじられた徳目に

 反する者でも優れた能力を有する者であれば人材として求める!という

 画期的な布告を出すに至ります。部下達が眉をひそめたであろうこの布告

 の正当化根拠として斉の桓公の故事(注1)や陳平の故事(注2)をあげ

 てまで貪欲なまでに人材を求めました。

 

 (注1)斉の桓公は自らに矢を射た管中をその大親友の鮑叔牙の進言

     を受け容れ登用し、宰相にまでします。その結果戦乱下政情不安定

     だった斉は国力をつけ、安定した時代を迎えます!

     この故事の管中と鮑叔については「管鮑の交わり」の故事が有名

 

 (注2)陳平は仕官もできずに兄の下で読書三昧を過ごし、農作業の手伝い

     も一切せず、そのことを嫂(あによめ)からよく責められていたが、背が

     高く容姿端麗でもあったことから、嫂と密通するという儒学では不徳

     の極みの行為をしたが、後に劉邦が漢を建国する際の参謀として

     様々な謀や知略で大活躍それを大いに助けた。張良と共に漢建国の

     参謀として有名。

 

(この続きは後刻付け加えます。そろそろ出ないとスマホが・・・)

 

未了記事

 

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