「浮かれパリ野郎」からの・・・
明治初期を代表する言論人、福地桜痴(ふくちおうち)(上)と、AKB48チームBの北原里英(きたはらりえ)さん(下)
さて、「維新の嵐、アップデート」もなんのかんのといいながら、第十回目を迎えることができました。
今回の二人は幕末期、明治期とその卓越した語学力で、明治の言論界に一世を風靡した、福地桜痴とAKB48チームBの北原里英さん。
どちらも「浮かれパリ野郎・・・」キャラという共通項がありますが・・・
福地 桜痴(ふくちおうち)天保十二年(1841)三月二十三日~明治三十九年(1906)一月四日
通称 :幼名は八十吉(やそきち)、元服後は源一郎(げんいちろう)
諱 :万世(むつよ)、
号 :星泓(せいおう)、桜痴(おうち)
字 :尚甫(しょうほ)
号の桜痴は徳川時代に吉原の魅力に取りつかれ、一推しになった愛妓の名「桜路(さくらじ)」に由来するという。
天保十二年(1841)三月二十三日に肥前国長崎新石灰町(しんしっくいまち)に町の漢方医者で父の福地苟庵《こうあん。通称は源輔(げんすけ)》とその妻松子(まつこ)の間に六女一男の長男として生まれる。
父は最初、長府毛利家(長州毛利家の分家です。)の家臣の出で、訳アリで飛び出して長崎に移り住み、漢方医の勉強をした後、福地嘉昌(よしまさ)の婿養子となって、松子と結婚し、今日に至る。
少年時代より神童の誉れが高く、四歳の時に父から儒学の手ほどきを受け、 十五歳のときにオランダ通詞・名村八右衛門(なむらはちえもん)のもとで蘭学を学ぶ。
名村は出島オランダ商館長(=カピタン)が、幕府へ世界情勢を報告する「風説書(ふうせつがき)」の口授翻訳をする際に、桜痴を筆記者にしており、桜痴は、いつも出島にいるカピタンがどうして海外情報を知っているのか疑問に思い、名村にたずねると、
「西洋には新聞という印刷物があって毎日刊行されている。それは国内外の時事を知らせるものでカピタンはそれを読んで重要な事柄を奉行所に伝えるのだ」
と、古いオランダの新聞を手渡し、桜痴が初めて手にした新聞はアムステルダムで発行されたものだった。
安政四年(1857)に長崎海軍伝習所(徳川幕府が設立した西洋式海軍軍人の養成所)の伝習生矢田堀景蔵(やたぼりけいぞう)に従って江戸に出て、以後、二年ほど父苟庵の知り合いで、小石川に英語塾を開く森山多吉郎(もりやまたきちろう)の下で英語を学んだ。
安政六年(1859)六月 外国奉行支配通弁御用御雇になった。
当時、幕府では日米修好通商条約の締結に伴い、アメリカへ使節を派遣する話が具体化しており、正使の他に副使も派遣してはどうかとの意見を外国奉行(=対外交渉などの実務)兼神奈川奉行(=貿易を担当し、港の警備、船舶の監督、貨物検査、当地の民政の監督)の水野忠徳(みずのただのり)が建議していた。
アメリカに行きたいと思った桜痴は水野に掛け合って、アメリカ行きの使節団に入れてもらおうと、頼み込んで、その結果、水野から使節団入りの内定を貰うのだが、水野自身が、ロシア海軍士官殺害事件の責任を問われて、外国奉行の職を失い、同年十月二十八日閑職である西の丸留守居に左遷された。
この結果、日米修好通商条約批准のため渡米する万延元年(1860)の遣米使節団に加われなかった。
同年、御家人に登用される。
文久元年(1861)十二月二十二日~文久二年(1862)十二月十一日まで、文久遣欧使節《=徳川幕府がオランダ、フランス、イギリス、プロイセン、ポルトガルとの修好通商条約(安政五年(1858))で締結された、新潟、兵庫両港と江戸、大坂の両都の開市開港延期交渉と、ロシアとの樺太国境画定交渉のために欧州へ派遣した最初の使節団》に通訳として参加した。
正使 竹内保徳(たけうちやすのり)、副使 松平康英(まつだいらやすひで)、目付 京極高朗(きょうごくたかあき) 他総勢35名で構成され、ルートは:品川出航(イギリス軍艦オーディン号)→長崎→スエズ(一旦上陸)→カイロ→アレクサンドリア→マルセイユ→パリ→ロンドン→オランダ→ベルリン→ペテルスブルク→ベルリン→ポルトガル→フランス船で帰国。
通訳として外交折衝の場に赴き、使節団も各国で大歓迎を受け、プロシア以外の国々と開市開港を五ヵ年延期する約定を結ぶ事に成功したが、ロシアとの国境交渉では、調印には至らなかった。
参加中は花のパリで通訳の同僚の福沢諭吉(ふくざわゆきち)らと浮かれパリ野郎の第一号になった。
パリでは歌劇や演劇の見物に出かけたが、台詞や話の筋がまったくわからない桜痴らは居眠りに終始し、会場の観客から「東の果ての野蛮人は違うよね、プッ」と嘲笑を買い、悔しいと思ったのか、あらかじめ話の筋を理解していれば退屈しないだろうと考え、英語とオランダ語のできる接待係に話のあらすじを聞き、それを同僚にも伝え観劇、次第に演劇に興味を覚え、シェイクスピアなどの戯曲を学びはじめる。
ロンドンで桜痴は新聞社を訪ね、記者が政府や議会に対して意見を述べているのを目の当たりにし、いずれ自分も新聞記者になって時事を痛快に論じたいと思うようになる。
文久三年(1863)六月の老中格小笠原長行(おがさわらながみち)の挙兵入京作戦《=京都で攘夷をすると宣言しないと、江戸には帰さないと攘夷派の手によって人質同然となっていた将軍徳川家茂(とくがわいえもち)奪還のため、元外国奉行の水野忠徳、江戸南町奉行の井上清直(いのうえなおきよ)、元勘定奉行兼元歩兵奉行の小栗忠順(おぐりただまさ)ら国際情勢に詳しく、外交・行政・財政・軍事の経験豊富な幕府内部の実務派官僚を中心に小笠原を盟主として、イギリス、フランス両公使から軍隊輸送の援助を取り付け、幕府の西洋式陸軍1500率いて、京都に向かい、承久の乱《=鎌倉時代の承久三年(1221)に、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて、返り討ちにあって敗れ、島流しになった事件》を再現させ、攘夷派の大名、公家を軍事力をもって粉砕、当時の孝明天皇(こうめいてんのう)に詰め寄って、開国和親の勅命を布告する事を迫り、これを拒むときは、たとえ天皇であろうとも、容赦はしないと主張したが、幕府内部の意見の不一致や、攘夷派の打算も手伝って、朝廷は家茂が大坂へ下ることを許したものの、攘夷派撃滅による一挙の問題解決はならなかった事件》に参加。
余談になりますが、これ以降徳川幕府は自力で状況を好転する事が出来なくなりまして、挙兵入京作戦の失敗はイギリス公使のオールコックから失望を買い、イギリス、フランス両国の援助を受けた上で攘夷派大名を排除できない徳川幕府のひ弱さに見切りをつけ、イギリス東洋艦隊の鹿児島湾砲撃事件(=薩英戦争)を痛み分けに持ち込み、この二ヵ月後に行われる、「八月十八日の政変」は会津松平家と薩摩島津家《背後には、孝明天皇と中川宮(なかがわのみや)がひかえていますが》によって攘夷派大名、公家を追放した事件ですが、オールコックはこのときの島津家の手腕を高く評価し、日本にいるイギリス人の利益は、島津家などの外国に好意的な大名家の代表者会議に任せたほうが、いまの徳川幕府よりは、よりイギリスの利益を守ってくれるし、安全であると、本国の外務省に書簡を送っています。
桜痴も末端ながら関与していたが、事件の首謀者である水野忠徳(=この事件により同月謹慎を命ぜられている)の機転で大阪出張ということにより、処罰を免れている。
慶応元年(1865年)閏五月五日~慶応二年(1866)一月十九日まで、第二回渡欧使節団(横須賀製鉄所建設及び軍制調査)に通訳として参加した。
正使 柴田剛中(しばたたけなか)他総勢9名で構成され横浜からパリに向けて渡欧した。
まず、七月十七日にフランスに入り、皇帝ナポレオン三世と会見したほか、外務省や各国公使館の訪問、陸・海軍省との折衝、軍港、海軍工廠などを見学し、フランスとの製鉄所建設と陸軍の軍事教練に必要な協定を締結することに成功し、さらにフランスでも収集した情報は幕府に書き送られた。
イギリスでは不調に終わり、帰国の途につく。
帰国後の慶応二年(1866)3月に外交折衝の現場で頑張った事を評価され、100表15人扶持を与えられ旗本の身分に昇進したが、このころ、大衆の間では、「米などの生活必需品がうなぎのぼりに値上がりし、働いても働いても暮らしが一向に良くならないのは、幕府の欧米諸国との貿易が物価上昇を促し、日本を疲弊させる」という小攘夷論者の宣伝を傾聴するようになり、開国論=売国論という排外的な世論の図式に嫌気がさして、吉原に赴き、女と遊びに没頭して、現実逃避に走り、「江左第一風流才子(=こうさだいいちふうりゅうさいし。江戸一番の遊び人と言う意味にでも思ってくれれば・・・)」を自称。
さすがに、遊び疲れたのか、慶応三年(1867)十月の大政奉還の際には、外国事情に詳しい幕臣達の共通意見とも言うべき徳川慶喜を天下大統領として新政府の主導権を握り、「大君のモナルキ(=大名家を潰した上で、ヨーロッパ型の郡県制や行政機構を整える制度)」を実行するべきとの内容の意見書を勘定奉行の小栗忠順に対して提出したが、小栗もこの意見の提案者の一人なので意見の正しさは認めたものの、慶喜の意向が判然としない事などの理由から容れられる事が無かった。
桜痴は戊辰戦争の真っ最中で江戸城開城後の慶応四年(1868)閏四月に江戸で「江湖新聞(こうこしんぶん)」を創刊した。
この時期、代表的な新聞として、柳河春三(やながわしゅんさん)の「中外新聞(ちゅうがいしんぶん)」と「江湖新聞」があります。
前者は外字新聞の翻訳印刷を通じて外国事情の紹介に重きを置きつつ国内事情の報道にも注意するという意味で中外と称し、維新最初の新聞として,しかも近代的新聞紙の初期的内容をもっている新聞として,すでに当時1500部を売り,さらにその成功が多くの新聞を誘発したという点で注目すべきものでした。
「江湖新聞」は期するところは「中外新聞」と同じですが,その編集方針が,イラストを入れ,総仮名付で,女子供にも読めるようにした点で,新聞の大衆化を志向した。
同年五月五日には、同紙に「強弱論」を表し、戦争の成り行きについて大勢は太政官側にあるが、列強の介入があれば、生糸や茶などの輸出産品に恵まれている奥羽越列藩同盟が形成逆転するかもしれない、と興味深い予測を行い、日本国内がアメリカの南北戦争(1861~65)みたいに全面的な内戦になれば、
「北すなわち北盟(奥羽越列藩同盟)が南すなわち南盟(太政官)に勝つ」
と予想し、さらに
「ええじゃないか、とか明治維新というが、ただ政権が徳川から薩長(薩摩島津家と長州毛利家)に変わっただけではないか。ただ、徳川幕府が倒れて薩長を中心とした幕府が生まれただけだ」
と厳しく述べた。
江戸で発行された新聞発行者の多くは,海外の事情にも通じた幕府に仕えていた人々で,彼らは幕府改革の必要性を認めながら、維新の内戦は,島津・毛利二家の徳川家打倒の私情によるものと位置づけ,むしろ,開国政策をとる幕府擁護の論調でした。
このような批判的論調の新聞を太政官が喜ぶ訳がなく,逆に怒りを買い、書籍出版物の許可制を厳達したため、新聞は発禁処分、桜痴は逮捕され、太政官の糾問所に連行されたが、尋問数回で無事無罪放免されたが、木戸孝允が裏で取り成したといわれている。
明治時代初の言論弾圧事件である。
その後、徳川家の駿府移住に従い、自らも駿府に移ったが、同年末には江戸改め東京に舞い戻り、士籍を返上、平民となり、浅草の裏長屋で暮らしたが、その後翌年(1869)、本郷にて日新舍(にっしんしゃ)という英語、フランス語を主とした私塾を開き、当時、福沢諭吉の慶応義塾、中村敬宇(なかむらけいう)の同人社とならんで東京の三大学塾と称された。
日新舍の学生には、のちに東洋のルソーと呼ばれ自由民権思想と運動に大きな影響を与えた中江兆民(なかえちょうみん)がいて、桜痴は中江を教頭にして日新舍を任せ、遊び癖が復活し、再び吉原通いに没頭して現実逃避に走るのだが、任せていた中江も桜痴に触発されて吉原通いに没頭し、日新舍は崩壊した。
塾を潰すまで遊んだ吉原では、元幕臣で大蔵省に仕えていた渋沢栄一(しぶさわえいいち)との出会いがあり、明治三年(1870)、渋沢から大蔵少輔の伊藤博文(いとうひろぶみ)を紹介してもらい、桜痴の語学に堪能なところ(オランダ語、英語、フランス語)、女好きで遊び人(塾を潰すまで遊ぶ)で、仕事をするときはきちんとする(外交官としては働いている)といった所でウマが合い、伊藤のコネで大蔵省御用掛に再就職が叶い、同年十月、伊藤が財政幣制調査のためアメリカに渡るのに随い、銀行や会社、国家会計、金融などの調査をした。
翌四年(1871)十一月、特命全権大使岩倉具視(いわくらともみ)の遣外使節団に一等書記官として随行し、実務方の頂点に立ち、国際事情に疎い、攘夷派出身の官僚達を
「あの、これくらいの事はあなた方が因循姑息と罵る幕府の人物でも、知っている話なのですが・・・」
「あの、大衆を攘夷思想で煽っている暇があったら、ヨーロッパのテーブルマナーや国際法の一つでも覚えてくださいよ、まったく、こんなのも知らないで、世界に打って出ようなんて、どうゆう神経してんの?」
「攘夷から開国に転向した際、あなた方の羞恥心はどの方角を向いていたのですか?」
ネチネチと言葉攻めでいたぶり、徳川時代に味わった屈辱をここで晴らした。
明治六年(1873)九月に帰国したが、そのころ国内では、征韓論で太政官が分裂、その後、渋沢栄一が大蔵省を去り、翌七年(1874)、桜痴が三十四歳のとき、政治家としての道をあきらめ大蔵省一等書記官を辞職、主筆として『東京日日新聞』(=毎日新聞の前身)に入社します。
当時、日本の新聞記者の社会的立場は低く、大蔵省の役人から新聞記者への転職に、周りは反対したのだが、桜痴は「おれが新聞記者になったからには、それだけのことはしてみせる」と啖呵をきった。
そのころ政府には官報(=法律、政令、条約、勅命等の公布をはじめとして、国の諸報告や資料を公表する「国の広報紙」「国民の公告紙」としての使命を持ち、国の会計収支や決算報告も掲載される)がなく、桜痴は『東京日日新聞』を政府の機関紙にしようと、大蔵省時代の人脈で、伊藤博文や大隈重信(おおくましげのぶ)に直接意見を聞き、それを記事にし、その一方、自らの筆で社説を書き、日本ではじめて「社説」欄を設け、新聞がひとつの主張をもって世に訴えるということを新聞の目玉にした。
当時の日本語には「社会」という単語はなく、「世間」や「浮き世」などの概念しかなかったのだが、明治八年(1875)一月十四日の紙面で「社会」を「ソサエチー」のルビつきで掲載し、これが「社会」という日本語が使われた最初と言われている。
『東京日日新聞』は桜痴の言論人としての幕府・太政官時代の内情や、広く国際情勢に明るく、外交の知識、経験に裏打ちされた情報を比喩の名手と呼ばれた表現力で表し、記事も好評で発行部数は上昇、明治九年(1876)、桜痴は『東京日日新聞』の社長兼主筆に就任した。
明治十年(1877)、西郷隆盛(さいごうたかもり)の士族反乱(=西南の役)がはじまり、伊藤博文の許可をもらい熊本へ赴く。
陸軍卿(=陸軍の最高責任者)の山県有朋(やまがたありとも)から、
「従軍記者として従軍させることはできないが、軍には報告や諸文案起草の記録掛がいない。その任につくならば便宜をはかる。」
といわれたので、この条件を承諾し、『東京日日新聞』にも通信することの黙認を得て、軍用御用掛となった。
『郵便報知新聞(=報知新聞の前身)』の犬養毅(いぬかいつよし)と桜痴は戦地で取材し新聞に掲載し、連日の現地報道に『東京日日新聞』の売り上げはさらに急上昇。
桜痴は京都御所で明治天皇(めいじてんのう)に戦況を言上することになり、二時間にもおよぶ報告を行い、金五十円と縮緬二反を下賜し、慰労の酒肴を頂戴し、酒の飲めない桜痴が、このときばかりは酒を飲み、のちに、
「酒を口にしたのは、後にも先にもそのときだけだった」
とよく語った。
桜痴の活動は目覚ましく、明治十一年(1878)には、渋沢栄一らとともに東京商法会議所を設立し、商法講習所(=一橋大学の前身)にも関係します。
明治十二年(1879)世界漫遊中のグラント前アメリカ大統領夫婦が来日した際、歓迎接待の担当となって、両陛下を招いて上野公園の大会を催した。
明治十四年(1881)、私擬憲法『国憲意見』を起草し、その一方で軍人勅諭の制定にも関与した。
明治十五年(1882)、丸山作楽(まるやまさくら)・水野寅次郎(みずのとらじろう)らと共に立憲帝政党を結成し、天皇主権・欽定憲法の施行・制限選挙などドイツ流の政治要綱に掲げ、フランス流の自由党やイギリス流の立憲改進党に対抗する政府与党を目指し、保守的な士族や商人らの支持を受けたが、政府が超然主義(ちょうぜんしゅぎ。=議会や政党の存在・主張を無視するという意味)を採ったため存在意義を失い、翌年に解党した。
明治十九年 (1886)、第1次伊藤内閣の意向もあって、末松謙澄(すえまつけんちょう)、渋沢栄一、外山正一(とやままさかず)をはじめ、政治家、経済人、文学者らが演劇改良会を結成し、桜痴もその一員になる。
しかし、本業の『東京日日新聞』を官報にするという桜痴の希望はかなえられず、明治二十一年(1888)政府は自ら官報を発行、、『東京日日新聞』は部数が減り経営不振となり、責任を感じた桜痴は、社長から退き、会社も辞め、小説家に転身し、未来小説、政治的暴露小説、社会風刺小説、人情的ロマンスなど、つぎつぎに発表していき、西洋の戯曲、小説を翻案して歌舞伎狂言作者の河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)、落語家の円朝(えんちょう)らに提供します。
明治二十二年(1889)十一月には千葉勝五郎(ちばかつごろう)とともに、東京の京橋区木挽町(こびきちょう)に歌舞伎座(かぶきざ)を開設したが、桜痴はまもなく借金問題により経営から離れ、歌舞伎座の座付作者に専念、若い頃海外で見てきた西洋演劇と歌舞伎の融合を行い、活歴物や舞踊などの脚本を多数執筆し、名優九代目 市川団十郎らがこれを演じ、代表作は「大森彦七」「侠客春雨傘」「鏡獅子」「春日局」などの脚本を手がけました。
また、歴史家としても『幕府衰亡論〈ばくふすいぼうろん〉』『幕末政治家〈ばくまつせいじか〉』などの歴史書の執筆にも精力的で、これらは現在も高く評価されている。
桜痴は、明治三十四年(1901)に福沢が亡くなったときに、次のような追悼文を送っている。
「明治七年、余が東京日々新聞を主宰するに当たり、君は余に告げて曰く、足下が新聞事業に従う、はなはだよし、ただただ慎みて政府と提携することなかれ。提携せば必ず足下を誤らんと。果たしてしかり、余は君の忠告を守ることが出来なかったばっかりに我を誤りたりき。ああ、君は余が益友なり、信友なり、君かつて、余に背かず、余実に君に背けり。」
明治三十六年(1903)、九代目市川団十郎が死去すると、歌舞伎座から手を引き、翌三十七年(1904)、再度、政治の世界を志し第九回衆議院議員総選挙に東京府東京市区から、無所属で立候補したとき、不憫に思う江戸っ子の義侠心で最下位当選を果たす。
明治三十九年(1906)一月四日、桜痴は議員の任期中に六十四歳で死去。
「吾曹」《ごそう=(われわれ)の意味》と自称した事から、桜痴は「吾曹先生」と呼ばれ、その現実主義的な意見は信望を集め、太政官の情報を正確に伝える報道官的な役割も、担っていた。
戒名は、温良院徳誉芳香桜痴居士。
さて、北原さんですね。
北原さんといえば、平成21年(2009)7月2~6日までフランスパリ市内で行われた「Japan Expo 2009」にて、パリでAKB48メンバーが浮かれている様を見て「浮かれパリ野郎」という名言(=迷言)?を残してくれました。
「大声ダイヤモンド」選抜参加当時の北原里英は凄く期待されていて、その期待度の高さは、彼女が以降の全ての選抜に参加し、ほぼ全ての海外公演に参加し、ほぼ全てのテレビの歌番組の収録に参加していることからもはっきりと判ります。
(「大声」当時の)AKBにとっては本当に待望の、身長が160cm前後あり(157cm)、目力があって、細身で歌手ないし、ダンスの出来るアーティストタイプの人材ということになります。
強いて言うなら、本人も認める宮崎美穂のように、声の質が良くて、声量豊かな声を持っていれば、なお良かったのですが・・・
研究生時代には、全チームの公演で代役フル出演を重ねるという、超人ぶりを発揮し、言葉遣いこそ丁寧語ですが猛烈に負けん気が強く、MCでも常に前に出て、一発芸を幾つも覚えてどんな事態にでも対応する準備を常に整えている北原里英はファンの間から「大島優子の再来」と呼ばれ、チームAに昇格してからもファンの評価も高いものがあるといいます。
第一回AKB選抜総選挙では、13位と気を吐き、同期の出世頭である宮崎美穂を抜き、りのりえコンビの相方である指原莉乃はアンダーガールズ、仁藤萌乃(他にも石田晴香や内田真由美がいるけど・・・)が圏外へと沈んでいく中、実力と存在感をアピールしました。
集英社のグラビア企画や(チームPB対チームYJ)、カゴメの野菜シスターズ、四谷警察署の一日所長などの仕事をそつなくこなし、第二回AKB選抜総選挙では、16位と気を吐き、19位の指原、21位の宮崎、27位の石田、29位の仁藤、圏外の内田と比較して、実力と存在感をアピールしました。
と、普通なら中堅メンバー独特の安定感が出てきて来るのだが、この人の場合、今まで持っていたアドバンテージが後からやってきたメンバーに喰われてしまっているのが問題なのである。
まず、同期の指原にはブログの人気とメディアの露出で完全に出し抜かれ、後輩で6期の高城亜樹には身長の高い(164cm)キャラ、人気と選抜での立ち位置をもって行かれ(第二回で13位)、止めはSKEの松井玲奈である。
なにせ、北原里英の売りである雑学の豊富さ、偏差値的な頭の良さ、二次元への思い入れ、細身のアーティスト体型、愛知出身(というか地方から上京しての努力キャラ)、同い年と言うキャラに加え、北原が欲しいと思っているメディア選抜(第二回で11位)を持っていくのだから、北原里英に残ったものと言ったら、かつて使っていた「うなぎイヌ」ネタと「妄想ポエム」位では無いでしょうか?
彼女が追うべきライバルもまた前田敦子、板野友美、高橋みなみ、など同年代が多いのが特徴である。
同期の宮崎、指原はへたれと馬鹿にされながらも、テレビ的にはリアクションが面白いので、今でも結構な頻度でAKBINGO!にメインで出ていますが、北原里英(他の仁藤、内田、石田)は根の性格が生真面目すぎて、バラエティ的な面白みに欠けるということがあるのでしょう。
AKBでリアクションと言うと、最近は柏木由紀とか高城、昔なら小嶋陽菜、高橋みなみ、大島優子といったあたりでしょうか?
この人たちって、原則“ボケ”キャラで、“突っ込み”キャラではないですからね。
テレビのバラエティ番組では“突っ込み”は司会者の仕事であって、ゲストの仕事では無いので、日常AKBの公演で仕切りと“突っ込み”の担当である、平嶋夏海・増田有華・米沢瑠美・片山陽加あたりは、AKBINGO!に呼ばれることは無いですよね。
北原里英も同じで根の性格が生真面目すぎて、“ボケ”が得意ではないため、バラエティで居場所を見つけることが非常に難しいのではないでしょうか。
今からバラエティ向けに方向性を変えてみるという方法もあるかもしれませんが(なにせ、愛知出身の“ボケ”キャラには、小森美果やSKEの矢神久美がいて、ここでもキャラがかぶるのである)、別の方向性を考えた方が無難な気がします。
個人的には、もう一度事務所を通じて、教育テレビにお願いして、勉強した上で、高校受験や大学受験用の教育番組(=特に化学や物理など)に出るなりしたほうが性格的に合っている気がします。
「Qさま」に代表されるインテリクイズ番組は佐藤夏希や松井咲子の印象が強いし。
北原里英を見ていて思うのは、根の性格が生真面目なうえに性格も不器用というのが際立っている気がしますが(だからあれだけダンスが上達したのでしょうが)、これは(程度の差こそあれ)AKBのほとんど全メンバーに共通していることだと思うのですが(まあ海の物とも山の物ともつかない頃からAKBに所属しているんですから)、北原里英の場合、生真面目と不器用という意味では、先輩の佐藤亜美菜ともかぶる訳で・・・
北原里英に与えられた命題は「先輩で同年代のライバルと後輩で同年代のライバルに挟まれた中間管理職アイドル北原里英に、逆転の芽があるのか」というところですかね。
福地 桜痴(ふくちおうち)天保十二年(1841)三月二十三日~明治三十九年(1906)一月四日
通称は源一郎といい、長崎の町医者の長男に生まれる。
長崎で儒学とオランダ語を学び、その後江戸に出て英語を勉強して、幕府の御家人となり、外国方勤務となる。
二度の欧州における外交折衝の功績を認められ、旗本に取り立てられるも、戊辰戦争で徳川家が恭順を示すと、新聞を書いて言論によって抵抗を示したが、太政官から、発禁処分を受ける。
その後、太政官に出仕したが、程なく辞め、ジャーナリスト、政党党首、歌舞伎の脚本家、小説家、代議士と職を転々とする。
福沢の死の際に両者の人物が比較され、福地は才において優る。しかし意思の強固さでは福沢が上であると評された
北原里英(きたはらりえ)平成3年(1991)6月24日~
愛知県出身の日本のアイドルで太田プロダクション所属
女性アイドルグループ「AKB48」チームBのメンバーである。
愛称は「りえちゃん」・「きたりえ」
キャッチフレーズは、
「夢見る名古屋嬢」
同じ属性にある2つの物を比較して○○より○○派と言うキャッチフレーズを使うこともある。
「愛知県からきました。北原里英○○才です」(B5th公演~)
身長157.0cm B78cm W57cm H83cm S23.5cm、血液型:A型
趣味:漫画、アニメ、映画鑑賞
特技:ものまね、妄想、英会話
将来の夢:女優、構成作家
平成19年(2007)、AKB48 第二回研究生(5期生)オーディションに合格。
平成20年(2008)7月30日、チームAに昇格。
同年10月22日、10thシングル「大声ダイヤモンド」で初めて選抜メンバー入りし、18thシングル「Beginner」までの全シングルで選抜入りする。
平成21年(2009)6月~7月にかけて実施された『AKB48 13thシングル選抜総選挙「神様に誓ってガチです」』では13位となり、選抜入りを果たした。
同年8月23日に行われた「読売新聞創刊135周年記念コンサートAKB104選抜メンバー組閣祭り」の夜公演にて、10月よりチームBに異動することが発表され、平成22年(2010)5月21日に異動した。
同年3月25日に行われた「AKB48 満席祭り希望 賛否両論」の夜公演にて、太田プロダクションから移籍打診があったことが発表され、後に正式に移籍した。
同年5月~6月にかけて実施された『AKB48 17thシングル選抜総選挙「母さんに誓ってガチです」』では16位となり、シングル選抜入りを果たした。
拙い文章を読んでいただきありがとうございます。
思ったより、長くなってしまいました、すみません。
北原里英と指原莉乃のコンビに「りのりえ」と呼び名があるように、明治期の福地と福沢にも、呼び名があって、「天下の双福」といわれたそうです。
今回、福地桜痴と北原里英でやってみましたので、次回はその相方同士、福沢諭吉と指原莉乃です。
参考文献
「明治維新人名辞典」 (吉川弘文館)
「幕府衰亡論」 (柳田泉 平凡社)
「幕末政治家」 (福地桜痴 平凡社)






1 ■こんばんは!
コメント遅くなってすいません!m(_ _)m
福地さんはまた極端な方ですね(^∇^;)
良く遊び良く学べと言いますが、まさにそれの最先端だったんですね!
きたりえは確かに最近伸び悩んでますね…
まさかさっしーがあんなにブレイクするとは思わなかったですし、きたりえもまだまだ何があるか分からないし頑張って欲しいですね♪