1 | 2 | 3 | 4 | 5 |oldest Next >>

ウィンブルドンへ連れて行って…その十三

2012-04-29 13:06:28 Theme: ブログ

 …続き。

 

 明治三十三年(1900)十二月二十五日、第十五議会が開会。伊藤内閣は歳出総額2億5521万円の三十四年度予算案を提出した。2000万円の歳入不足が予想されたので、酒造税・砂糖税・海関税を引き上げ、葉煙草専売率を引き上げて2144万円の増収を図ることにした。



 政友会では野田らが増税反対を唱えたが、容認に一本化された。政友会の方針に何でも反対していた憲政本党では、今回は容認論が多数を占め、代議士総会で賛成を決定した。反発した憲政本党の非増税派34名は翌三十四年(1901)二月十五、十六日の両日、脱党して「三四倶楽部」を結成した。大隈が指揮を取る中では、初めての出来事だった。



 予算案が同年二月七日、増税法案は同月十九日、それぞれ政友会・憲政本党の賛成により、衆議院を通過しており、過半数を占める政友会の威力がモノを言っている様に見えたが、これらの法案は貴族院で猛烈な抵抗に遭った。貴族院では政党内閣に対する拒絶反応が強く、更に伊藤系の貴族院議員の少なさも手伝って、大勢を覆す事ができなかった。同月二十五日、増税法案は委員会で否決され、本会議に送られた。原逓相は貴族院の反発は疎外感から来るものと観察している。



 政府内では、加藤外相、渡辺蔵相が衆議院解散で民意を問えと主張した。原逓相は貴族院令改正で議員構成を変え、政府に従属させる事を求めた。山本海相の提案で停会で時間を稼ぐ事になった。伊藤は山県に電報を発し、「貴方の手下が抵抗勢力の中心です!どうにかしてください!!」と警告する一方、助力を求めた。山県は「極東情勢がいつ激変するか分らない今、貴族院で増税反対論を主張してはならないと」と、手下の芳川、清浦、曾根に電報で指示を出し、伊藤に対して約束を協力した。抵抗勢力の親玉を黙らせた伊藤は同月二十七日天皇に上奏し、十日間停会の詔勅が出た。



 同日、星は機関紙「人民」の中で、貴族院が



「尚頑強にして悔い改まる事がなければ、(略)無責任の言動を逞しくするを懲らしめるの方法を出づべきを勧告する」



の論説や、内閣が強硬方針をとることを求める各地の声を掲載した。



 更に二十八日、政友会議員総会で、星は



「今回の衝突は政府と貴族院の衝突というより、貴族院と衆議院の衝突にして、一歩進めて論じれば、国民と貴族院の衝突なりというべし(略)政府はただその初志を貫く一法のみ」



と演説して喝采を浴びた。



 手下の一人、清浦は元日付の山県宛書簡で、「国家永遠のために増税案を通したい」と書いている。更に同年三月一日、山県に返書を認め、『我々は増税に反対しない、ただ、政府の主張に反対している。政府は増税を一般財源としているが、「単純なる軍事費増税案」に改めれば調停の労を取る積りだ』と述べた。更に自分は昨年以来、伊藤と貴族院の間を取り持とうとしたのに伊藤に無視され、今度は自分の所為にされていると憤っている。


 

 元勲中、伊藤に敵対的だったのは松方で、西郷に対して伊藤は財政整理を条件に打開を図ると積りらしいが、前の蔵相は他ならぬ私だと不快感(と小物感)を露わにしていた。



 閣内では渡辺蔵相が強硬論が唱えていた。反対運動の原動力を山県系の貴族院議員と見なしており、まず和衷協同の勅許による打開を試み、それが駄目なら総辞職を奏上して、衆議院を基礎に貴族院と山県系議員を屈服させるまで戦うか、貴族院令を改め議員は有識者のみに限るべしと唱えたのである。それでも駄目なら、緊急勅令を持ち出してでも徹底的に戦うべしと、妥協の無い部分を見せた。



 伊藤内閣の対応を見て、天皇は京都にいる山県、松方を呼び戻し、同月六日元勲会議を開催させた。翌日、松方と貴族院の近衛議長とで会談が行われたが不調に終わり、その次の日、山県、西郷、松方、井上の四元勲と近衛による会談が行われた。近衛が貴族院を代表して具体案を求めたので、山県が元勲を代表して、増税収入は海軍関係と災害準備、教育にのみ使用し、他の用途に充てるときは議会の承諾を得る事とする案を提示した。時間稼ぎのために停会は十三日まで延長された。



 十日、貴族院側は酒造税のうち日本酒の増税五年間と海関税の増税だけを認めると回答し、話にならない!と元勲達は交渉を打ち切った。


 

 話を聞いた伊藤は態度を硬化し、貴族院改造に乗り出す事にした。当初の案では爵位を持つ議員はそのままに、勅選議員を百名ほどまで削減して任期制にする予定だった。同時に枢密院の改造に乗り出す事も定め、定数は五十名、従来の人数に削減した勅選議員を移籍させ、大問題のときだけ諮詢する方向に定めた。



 しかし、貴族院と枢密院の改造は行われなかった。勅語による解決は、すでに二月末頃に政友会幹部の間で考えられていた。伊藤にしてみれば、自分が創ったとも言える貴族院へ勅語を出す事は、最後までためらいを感じたのだろう。やっとの事で十二日、伊藤は田中宮内大臣に相談し、田中を通して天皇から近衛議長に「いつまでもゴネてないで、賛成しなさい!」と勅語を降し、貴族院を動かす事に成功した。しかし、この勅語は、御名御璽も、国務大臣副署(帝国憲法第五十五条による)もなく、近衛は正規の書式と違うと怪しみ、天皇や閣僚は承知しているのか、「伊藤を小一時間ほど問い詰めてやる」といきまく書簡を伊藤に送っている。



 原は内幕を日記に書いており、貴族院どもがゴネた結果、既得権益を失うのを恐れて、元勲どもに泣き付いた結果であると論じた。しかし、元勲も貴族院に交渉を打ち切られた結果、気分を害しており、貴族院も機嫌を戻してもらうためにも、伊藤内閣に賛同するしか、道はなかった。十四日の停会明け、貴族院は勅許を受け入れた。十六日、再審議となった増税法案は衆議院案の通り可決、成立した。



 結果論全開で述べるなら、伊藤の貴族院・枢密院改造が行われたなら、衆議院の貴族院・枢密院に対する優位が名実ともに固まった可能性が高い。戦前、貴族院の改造が試みられたのは、これが最初で最後であったのだから。大正末期に問題となった鈴木商店に対する台湾銀行融資問題など、貴族院や枢密院がガンとなって妨げらた事を考えると、モッタイないことである。



 十八日、憲政本党や無所属議員たちは天皇を煩わせた責任を追及し、内閣不信任案を提出した。これに対し星は「インフルエンザ」で体調が悪かったが、



「諸君、憲法というものは即ち大権の一部が分ったものであると言わなければならぬとかんがえるのである。大権の中において憲法は成り立って居らなければならぬと考えるのである。然らば憲法を以って陛下の口をつぐみ、陛下が陛下の貴族院の非を改めさせるため、貴族院の悪い方へ進むのを挽回するが為に、陛下が独特の大権もって勅諭を出されたことは、何の悪い事であるか」



と、天皇大権を押し立てて伊藤を擁護した。伊藤首相は今までのストレスが溜まったのか、ブランデーを飲んだ後で壇上に立ち(泥酔演説)、貴族院に出された勅語について衆議院は容喙する権利はないから決議案は問題にならぬ、憲法解釈はヒマな時にでも議論しようと、いう趣旨の演説を行い、世間の顰蹙を買った。



 政友会が議席過半数を占めていたから、同案は翌日否決された。会期終盤では、判事・検事の増俸問題が争点となった。かねてから司法官の間で安月給の返上を求めたものである。政府は三十四年度予算案の衆議院での委員会審議を終えた時点では増俸を決めていた。しかし、衆議院の多数を占めていた政友会所属委員は、院内総務星の提案により、議長官舎で関係閣僚出席の下に独自の予算査定会議を開いた。この会議は星の意のままに進められ、地方官・司法官の増俸を含め、台湾兵営建築費などが次々と削除された。司法官増俸は、前年度の司法官一致の上申があって計上されただけに、金子法相は異議を挿もうとしたが、この件を星に一任していた伊藤首相は「よせ、何を言っている」と一喝し、星は「さっさと、その項には朱線を引いた」と金子に伝えた。一般には、司法官増俸削除は星による東京市議会疑獄追及に対する意趣返しと受け取られた。これに反発した司法官は連袂辞職で抗議し、名古屋・大阪にも波及したが、政府も十六人の辞表を受理して、首謀者である東京地裁検事正・長森藤吉郎(ながもりとうきちろう)を免官、運動をなし崩しにした。



 明治三十四年(1901)三月二十五日、第十五議会は閉会し、第四次伊藤内閣はこれら一連のゴタゴタを乗り越えたのだが、「ぼくのつくったさいきょうのないかく」に対してやってくる不本意な事態の連続に、伊藤は政権持続、政友会統率の意欲を低下させていった。



 そんな伊藤のやる気を削ぐ事態が更にやって来る。伊藤内閣のトラブルメーカーになってしまった渡辺蔵相である。天皇の側近である岩倉具定から「こまったときの天皇頼み」と陰口を叩かれる伊藤だが、その通りで、天皇頼みで増税法案を可決させた。これにより、皇室の藩屏と呼ばれる貴族院はぐうの音も出ないほどに大人しくなった。伊藤自身枕を高くして寝ることが出来ると安心したのだが、渡辺蔵相が財源難と民間経済疲弊による公債募集困難を理由とした公債を財源とした公共事業を一切中止するように提議した。



 同年四月五日と七日、閣議で激論が交わされたが、伊藤は渡辺を支持したが、やっと天皇の勅語を持ち出して増税案を可決させたにも拘らず、公共事業中止というのはなにごとだ!ということで政友会の大多数は伊藤と渡辺に批判的だった。更に追い討ちをかけるように、原逓相が、「強行するなら大臣辞めます!やりたければお二人でどうぞ!」と猛然と反発、伊藤、渡辺は譲歩し、ひとまず事業は中止ではなく、次年度へ繰り延べとなり、支出義務のあるものは、主管大臣と蔵相が協議決定するものとされた。



 それでも、譲歩したにもかかわらず、譲歩しない!というのが渡辺という人のキャラであるらしく、大蔵官僚と財界の支持を背景に、同月十五日の閣議で次年度繰り延べも認めない!公共事業は絶対中止!を声高に叫び、他の閣僚と激論を戦わせ、閣内不統一を世間に印象付けた。



 伊藤が山県に報じたところでは、歳入不足は7500万円に及び、鉄道・製鉄所・電話などの新規事業を中止しても2000万円しか節約できない。今後は清国賠償金からの組み入れは見込めないので、公共事業は中止!というのである。当時三十三年春の日銀の金融引き締め、株式相場の急落を引き金に、三十三年秋から三十四年春にかけて京浜、関西で銀行恐慌が起こり、国債の消化をはかる目処が立たなかった。対外的にも北清事変の余波でロシアが満州を占拠、これによる日露関係の緊張で外債募集もいちじるしく困難になったという事情もあった。



 内外関係とは別に渡辺は同月十五日付けや同月二十八日の手紙の中で、「財政を立て直すことは、政党や内閣を守ることより大切です。出来る出来ないは、閣下次第です」と政党による利益誘導政治とそれを推し進める政友会員を排し、健全財政を軸とした国益・公益本位の模範政党を今こそ作り、国家の倒産を救うべきですと伊藤に決断を迫っていた。



 内外情勢困難を理由に挙げる渡辺に対し、原は逓信官僚を督励して資料を作成し、事業継続に必要な1500万円は明治初年以来の金禄公債償還延期と北清事変解決による兵力の削減を予定すれば、捻出可能である、日清戦争賠償金の使途未定金と行財政整理によって生まれた埋蔵金が見込めるとして、数字と資料を駆使して、渡辺に反撃した。原の奮闘振りは政友会の流れを更に反渡辺に加速させ、原の株を上昇させた。



 政友会内部の空気を読んだ伊藤は渡辺を更迭して事態の打開を考えた。しかし、天皇から、渡辺の更迭は認めない、更迭するなら内閣は総辞職だね!と聞かされると、それを実行することができなかったし、政友会の多数を認めることは自身が考えている健全財政路線を放棄することだと、渡辺から言われたら、その通りであると、納得もした。しかし、天皇と政友会の板ばさみとなり、このままでは政局は混迷を深めるままである。同月二十九日には、裕仁親王《ひろひとしんのう。後の昭和天皇(しょうわてんのう)》が誕生した。天皇家に孫が生まれたのに、政局が混迷したのでは陛下に申し訳が立たないと感じたのか、それとも、アクの強い閣僚を率いて内閣を指導するのに疲れたのか、同年五月二日、宮中に参内して閣内不統一を理由に伊藤首相は辞表を提出した。あとで臨時閣議を開き、閣僚にそのことを告げ、総辞職となった。憲法は閣僚の個別輔弼制を定め、内閣総辞職の規定は無いが、第一次松方内閣以降慣習化しており、閣僚たちは、同日中に辞表を提出したのだが、渡辺蔵相だけはゴネて辞表を出さないばかりか、翌日、伊藤に面会し、自分は天皇の推しメンであり他の有象無象とは違い、他の閣僚と同一の進退は出来ない、財政の危機を放置して退くのは敵前逃亡であると煽った。渡辺は更に天皇に上奏して公共事業と外債募集の中止を訴え、天皇に伊藤を留任させ財政再建に当たらせるように懇願した。しかし、天皇から首相臨時代理に任命されている西園寺は渡辺の辞任を天皇に内奏し、渡辺は天皇の注意により辞表を提出した。



 伊藤は、現在の政局で後を引き受けるものはいない、藩閥元老どもは俺に泣きつくに違いない!とみて慰留されれば協力の約束を取り付けた上で再組閣したいと希望を残していた。そこで井上馨、西園寺公望、桂太郎が後継首相候補に上ると、伊藤は各人に引き受けを勧める推薦活動をしても、その実現を本気に後援する態度を見せなかった。このときの伊藤の態度は幕末期、大政奉還を行った後、大政再委任を求めた徳川慶喜とそっくりである。そして、再び権力が来なかったところもそっくりである。権力を自ら投げ出した人間の下に再び戻るという事は無いのである。



 同年五月四日、天皇は山県に元勲会議での後任選定を指示した。伊藤の留任、西郷海相を横滑りで起用するという案は不調に終わり、同月十六日、井上に組閣の大命を降した。井上は貴族院と政友会から閣僚を取り、蔵相には渋沢栄一を起用して「混合内閣」を組閣しようとした。渋沢は入閣を断わり、桂も陸相での入閣を拒絶した。衆議院の多数を占める政友会も井上の混合内閣を評価せず、同月二十三日、組閣を辞退した。



 大本命の井上が辞退したおかげで、首相銓衡は振りだしに戻ったが、伊藤は自分にまわってくると思ったのか、調整役を避け、人選を一任して大磯の別荘に引きこもった。首相臨時代理の西園寺と元陸相の桂が浮上したが、西園寺は原に対して「オレ流で組閣できるまで、首相の座には近づかない!」と語っており、この段階では時期尚早と見て、固辞していた。



 となると、桂の一人勝ちと思われがちだが、政界の風見鶏といわれた伊東巳代治が動き出し、桂に大命拝辞を勧めた。伊藤が首相への返り咲きを狙っており、伊藤に恩を売って貸しを作り、桂政権への伊藤支援を確約させる。無理して桂が首相に就任すると、伊藤に報復され短命政権に終わる。伊藤ら第一世代の時代は寿命が迫っており、無理をしない方が世代交代が円滑に行くと説いた。伊東は伊藤が口に出せない本音を先取り、斡旋する事で伊藤と桂に貸しを作り政界に存在感を示すことで、伊藤と復縁しようとしていた。



 当の桂は話を聞き流していた。チャンスは与えられるものではなく、掴むものであると思っている桂は本当に来るかどうか分らない次のチャンスなど当てにはしていなかった。同月二十六日、桂に組閣の大命を降した。桂は辞退する一方で首相の座を狙って引きこもっている伊藤を訪ね、首相再就任を勧めたが、伊藤は断わった。ここで引き受けても、短命政権で終わるからである。



 話が違うじゃないか!と伊東が桂に迫って後任辞退、伊藤推挙の書簡を伊藤に送らせた。書簡を受け取った伊藤は伊東ごときが自分の進退を左右しようとした事に不快感を露わにした。更に引責辞任した自分が復権を策動したかに見えたことに気分を害した。



 伊藤の妨害もなく、山県と配下の官僚・軍人勢力が支持したことで明治三十四年(1901)六月二日、第一次桂内閣が発足した。



 伊藤の目算は外れ、伊藤の再出馬あるいは西園寺内閣の出現を期待していた政友会は、この結果に失望した。伊藤は政友会総裁であるとともに、元老でもあり、党員たちが直ちに桂内閣に「軽挙反対」するのを戒める事しか出来なかった。こうして、元老の第一人者で衆議院の多数党の支持を持つ「ぼくのつくったさいきょうのないかく」である第四次伊藤内閣は、退陣した。



 この間、星は、西園寺や原と共謀して渡辺蔵相の更迭を伊藤に勧めたが、伊藤から渡辺処分を唱える政友会内部の鎮撫を頼まれたりしている。かと思えば、西園寺内閣の成立を希望していたが、それが怪しくなると、井上内閣の組閣騒動に首を突っ込んでいる。井上内閣の組閣騒動が治まると、桂太郎内閣出現の前後には、伊東に頼まれて伊藤に再出馬を説いている。遂に桂内閣が決まった六月一日には、政友会本部の議員総会で桂内閣に対して旗幟を鮮明にせよとの石田貫之助(いしだかんのすけ)代議士の発言に対して、星は



「総裁が言ったでしょ。党の利益になるなら、賛成!不利益なら反対!」



と切り返すと、石田は



「新内閣とは関係ないんですね?」



というと、星も



「関係ないね」



と伊藤総裁の方針を支持する答弁を行い、党員を活気付けるため、総務委員会の決議として政務調査、党勢拡張の方策を近日中にまとめて諸君に諮ると報告した。



 今まで、内閣交代過程において、積極的に活動していた星が、今回だけは積極性に欠けていた。約二ヶ月の間、星は、政友会を率いて事に当たるのにくたびれた伊藤を政友会に引き止め、政友会の結束を維持するという以上の努力をしていない。



 それまでの星と違う一面が出てきたという意見もこのころから散見された。



 桂内閣が誕生する十日ほど前、宇都宮へ県会議員補欠選挙の応援に出かけたとき、星派の元代議士・中山丹治郎《なかやまたんじろう。明治三十三年(1900)十二月四日没》の墓参りに行こうと言い出し、墓前にて、



「幾ら大事にされても、死んだら詰まらないね」



と、今まで死のことや墓参りに頓着しなかったこの男が、感慨に堪えない様子であったと、伊藤痴遊(いとうちゆう)が書き記している。



 また、それまで宗教にまったく興味を持たなかった星が、宗教家を歴訪しているのも、興味深いことである。



 いずれにせよ、この時点でまだ五十歳に達した星である。老け込むにはまだ早いはずなのだが、星の時計の針は、明治三十四年(1901)六月二十一日午後三時で永遠に止まることになる。



続く…



 まったく持って、更新を怠っていました。申し訳ございません。言い訳をさせてもらうなら、仕事が忙しかったのです。




 こうならないように、頑張ります。




 






 















ウィンブルドンへ連れて行って…その十二

2012-02-03 04:35:32 Theme: ブログ

…続き。



 このころ、伊藤派と山県派の対立が進んでいた。両者は木戸孝允の死後、長州閥の中心として太政官に参議として重きをなし、明治十四年の政変で大隈重信を追い落とし、内閣制度導入後は薩長藩閥体制を確立した。



 だが、薩摩閥代表の黒田、松方には伊藤、山県ほどに派閥代表としての政治力は無く、樺山資紀、高島鞆之助ら政治活動の好きな軍人は黒田、松方の座を目指して足を引っ張るありさまで、大山巌、西郷従道など政治に一定の距離を置く軍人などもいて、その勢力は安定しなかった。更に、薩摩閥は後釜候補の世代が軒並み西郷隆盛の私学校に入り、明治十年(1877)の西南戦争で戦死。僅かに生き残った者も、投獄、公権停止の憂き目に遭った(公権停止の最終解除は帝国憲法発布の恩赦)。これに加え、島津家独特の城下士、外城士制度から来る身分差別から、外城士出身の官僚たちは、城下士出身(黒田、松方、樺山、高島、大山、西郷)の下で働くより、長州閥の下で働く方がまだマシと、長州閥に合流していった。更にいえば、西南戦争で死んだのは、城下士の西郷派で、城下士の島津久光派は従軍していない。外城士は城下士を嫌っており、これもまた、全体の半分ほどが参加していない。ついでに言えば、薩摩閥は他郷出身の人材の収拾に消極的な面もあった。結果として、幕末期、勢力を温存した事が、かえって不満を蓄積させ、薩摩閥の地盤沈下を招いた最大の要因ではないだろうか。



 幸か不幸か、長州閥は幕末期、内ゲバや京都守護職を務め、徳川体制の存続を主張する孝明天皇の代理人として君臨する会津松平家やその暴力装置として存在する新選組に対するテロやその報復から来る取締りで人材を失い、喪失感を補うために他郷からの人材を受け入れる事に人一倍、敏感であった。その事が明治十四年以降になると、長州閥に人材の多彩さ《陸奥宗光はこの類であり、旧幕臣(渋沢栄一や星)や元会津松平家家臣(石塚英雄、日下義雄、山本覚馬など)が採用されている》を印象付ける事となり、政府は長州閥の一人勝ち状態であった。その中で、双璧と呼ばれる伊藤と山県の不和が明らかになった。



 両者は政党に対する考え方が大いに違っていた。伊藤は明治三十二年(1899)、山口県で行われた講演で、明治維新以前の日本人は単なる統治の対象(人民)でしかなかったが、「憲法の政治が布かれて、日本国民は始めて正確なる国民の地位を得た」と規定する。人々は立憲政治の導入によって参政権を得て、国家の主体的な構成要素(国民)となったのである。人々を国民たらしめるには、「成るべく教育を普及せしめて、一国の利害得失に関係すること」を理解させなければならない。伊藤によれば、人々は参政権を得た結果「国是を了解しなければならぬという義務」を負ったのであり、「国家を己のものと考えなければならぬ」ようになったのである。「人民」から「国民」への変化である。政党政治に対しても容認しており、隈板内閣を実現させ、自らも第一次松方内閣と隈板内閣発足前の二度にわたり政党の結成を考えたほどであった。



 このたびも清国漫遊から帰国した伊藤が考えていたのは政府シンパの議員、直系の官僚や政治家を軸に政党を作り、憲政党の一部を切り崩して新党を結成しようとするものだった。事実、明治三十二年(1899)十一月には憲政党の西山真澄と協議して結党しようと試みたが、側近の一人、伊藤巳代治が猛反対をして、話が頓挫している。伊東は伊東で憲政党を丸ごと伊藤新党に合流させるという荒業を構想していた。三度政党結成を企てるにあたり、伊藤にとっての最大の抵抗勢力は天皇と山県であった。このため、伊藤は天皇と山県の説得に腐心した。



 天皇が伊藤の政党党首就任に反対したのは政党自体の党利党略もさることながら、天皇自身を支える権力基盤である藩閥が、伊藤と他の元勲との対立で分裂する事への危惧があった。天皇の同意を得られるか否かは、山県説得の成否に係わるところが大きかった。



 山県は基本的に国家の生存を第一に考えており、その本質とも言う発言が第一次山県内閣時代の第一議会における主権線・利益線演説《明治二十三年(1890)十二月六日》に端的に表れている。


 

『そもそも国家の独立自立の道には二通りあり、第一には「主権線」を守ること、第二には「利益線」を保護することである。この「主権線」とは国の境目を言い、「利益線」とはこの主権線の安全に密接な関係がある地域を申し上げたのである。おおよそ国というもので主権線、利益線を保全しないものはありません。古今東西の各国に囲まれた一つの国が独立しようとするなら、当然ながら一朝一夕の話のみでなし得ることではありません。どうしても小さな努力を積み重ね、徐々に国力を養ってその成果を観察するように注意しなければならないと考えます』



とあり、明治三年(1871)の外遊でフランスを見てきた山県は、ティエールの第三共和制や政党政治を党利党略を第一とするものとして嫌悪し、政党を自己の政策を邪魔する存在と見なし議会開設後、政党員が官僚機構に食い込むのを苦虫を噛み砕く表情で見ていた。



 そのことに気づいた伊藤は、全国遊説に当たり、山県に度々手紙で連絡し、警戒心を和らげるとともに、決意が不動である事を暗に伝え続けた。その結果、山県は伊藤の政党組織を阻止できないと認識した。



 明治三十三年(1900)五月三十一日、山県から憲政党の要求は全面拒絶と通告された星は、山県に提携解消を通告した。このあと、星と林有造は伊東と会談し、伊東から憲政党に伊藤の党首就任を薦められたのである。憲政党には地方に強力な地盤があるが、看板(=党首)がない。伊藤には看板があるが、地盤がない。そこで、この二つが合体すれば強力な政党が誕生するではないか、と伊東は説いたのである。もし、これを断われば、憲政党は政権から遠ざかり分裂するよ、悪い話ではないよ、と付け加えた。



 伊東は星たちに伊藤説得の手段として、一切条件をつけずに伊藤の指導に従う事を明言する事を勧めた。伊藤が星を買っている反面、抜け目ない人物とも見ており、星たちの前に指導権を失う事を危惧していることや、伊藤の持論である“政党は党利党略、利益誘導に奔りがちである”に配慮したものである。二人は助言を聞き入れ、まず、憲政党全体として、同年六月一日、伊藤博文に対して、憲政党党首への就任要請を行った。



 伊藤は、自分の本意は新政党を作り、既成政党の弊害を正す事だが、熟慮して返答すると留保した。これにより“伊藤と憲政党が合流するのでは”と政界に激震が走った。もっとも、伊藤の幕僚連中も一枚岩ではなく、伊東や金子憲太郎、末松謙澄は憲政党との交渉、山県との調整に当たっていたが、幕僚の一人、渡辺国武は慎重論で、最初に新党の方針を定めて憲政党に呑ませるべきであると主張し、主導権を握る事に固執した。



 同年六月中旬、伊藤新党について山県首相は天皇に敷奏を行うか否かをめぐって、伊藤と山県が対立した。その間にも、伊藤と憲政党との交渉は進められており、同月二十日には伊藤と松田正久の会談で「政党改造」問題の端緒が開け、伊藤と星の間で交渉が進展した。翌二十一日夕刻、伊東が山県と面会し、伊東の口から「新党結成を妨げれば伊藤は次の内閣を引き受けない」と伊藤の意思を送ると、山県は敷奏を約束した。山県が伊藤新党を認めたのである。伊東が伊藤に翌日、山県説得の成功を伝えると、同月二十六日、宮内大臣・田中光顕(たなかみつあき)は天皇に、伊藤が既成政党の弊害を正す為、新党を作る事、山県も了解した事を上奏した。



 二度の新党計画を挫折させた二つの難関が打開されたので、焦点は伊藤の憲政党への回答へ移った。同年七月一日、伊藤は山県に新党計画の起案を内示した。この話を板垣退助から聞きつけた渡辺は、伊藤にイギリスの自由党系団体デポンジャー倶楽部の規則を示し、倶楽部を併設する事を勧めた。それは支持者ではあっても入党には踏み切れない人々を収攬する事を狙ったもので、新党に様々な分野の人々を取り込んで代表性の高い政党を作る事を目指し、新党の間口を拡げる事で全国民的な政党を狙うものだった。



 党組織を倶楽部に代えれば、伊藤がかねてから望んでいる有識者、実業家を取り込むことが出来るが、組織力が弱まり、選挙に弱くなる。選挙に勝つことを望む伊東と倶楽部を重視する渡辺の路線の違いは、二人の主導権争いとも絡んで、政友会の結成過程に影を落す事になる。



 同年七月八日、伊藤は憲政党に対し、既成政党の党首就任は広範に国民を結集する上で不適当として、辞退を回答したが、同時に、政党改善の希望をともに出来て喜ばしいと評価したうえで、新党計画で憲政党と連携して動く事を強調した。同月十九日、憲政党は伊藤に「党を挙げて入党すべし」と申し入れた。伊藤直系幕僚や政府系無所属は数が少ないので、大挙合流すれば多数を占める事ができ、伊藤を憲政党に迎えるのと同じことになるからである。このあたりは伊藤も承知しているので、伊藤は党首に党運営の専制権を与える事を条件とした。憲政党は要求を丸呑みした。与党復帰を最優先していたこともあるが、最終的には数の力で主導権を取れるという読みがあった。同月二十三日、伊藤は山県と会談し、最終調整を終えた。伊藤は伊東に星と結党作業に入るように指示した。



 同月二十八日、伊藤は伊東に次の三点を星と検討する事を命じた。



一、党名は「立憲政友会」、「党」の字は使用しない。これは、「官界又は実業界の厭忌を避け、加入を容易ならしむるの手段」である。「党」には中国の「朋党」(私党)のイメージがついて回り、その名を嫌い入党をためらう者が少なくないと見られていた。



二、本部―地方支部の組織形態を倶楽部とする。国民各層の網羅を図るもので、渡辺の意見が聞き入れられた結果だった。



三、創立委員を選定する。



 星と伊東は協議の結果、伊東名義で同年八月五日に返書した。



一、「立憲政友会」で可。



二、本支部を倶楽部とする事は「統一及び連絡」のために不適当なので反対。ただし門戸を拡げるため本支部に倶楽部を併設する事は賛成。



三、発起人は、伊藤直系から、伊藤直系から西園寺公望、渡辺、金子憲太郎、憲政党から星、林、松田、末松謙澄、他に長谷場純孝、というものである。



 伊東は星・林には憲政党に入会しない意向を伝えており、さらに犬猿の仲の渡辺が割り込んできた事で、嫌気がさして創立委員の名前に連ねていない。伊東が脱落したので、渡辺が伊藤側の、星が憲政党側の代表として奔走し、計画を切り盛りした。政友会の中核となったのは伊藤直系勢力と憲政党だが、伊藤は各方面に人材を求めた。議員を増やす事はもちろんだが、代表性を高める事で全国民的な政党を作り、超然主義の問題を解決する必要があった。



 伊藤は憲政本党の鳩山和夫、尾崎行雄、帝国党の元田肇(もとだはじめ)、日吉倶楽部の鈴木總兵衛(すずきそうべい)、無所属の長谷場純孝、大岡育造(おおおかいくぞう)らに白羽の矢を立てた。伊藤の幕僚である林田亀太郎(はやしだかめたろう)が勧誘に奔走し、鳩山以外の獲得に成功している。伊藤はこの他、原敬(はらたかし)、中田敬義(なかたたかのり)も獲得した。



 しかし伊藤の盟友・井上馨は党外から政党の弊害を監視したい、実業家の誘導に専念したいといって入会せず、その実業家も政争に巻き込まれる事を恐れたり、井上が入会しないなら私も、ということで参加が滞った。有識者も元帝大総長・渡辺洪基(わたなべこうき)が入ったが、概して不振だった。大型政党は出来たが、有識者、実業家の参加は振るわず、彼らの党派性忌避が改めて確認された。



 明治三十三年(1900)八月二十五日、芝紅葉館で立憲政友会創立委員会が開かれ、宣言と綱領が発表された。創立委員長には渡辺が就任した。宣言の中で伊藤は閣僚の任免は天皇の大権に属し、党員をとるか非党員をとるかは天皇の自由意志によるとした。天皇の信任があれば政党内閣が許されるとする一方で、制度としての政党内閣制、議院内閣制を否定し、超然主義の原理を守った。



 伊藤は、閣僚となった者には党員・政友は容喙してはならないと述べ、行政府は党から離れて国家・国民本位に行動すべき事を強調した。伊藤によれば、政友会の使命は公に奉仕する事であり、郷党の情実や業者からの請願に動かされて、党の後押しを与えるような利益誘導や縁故主義は許されない事であった。伊藤はこれら政党の悪い風習を改めるために政友会を作り、国民を真に代表し、国益本位に行動する「国民政党」として政友会を実現したのである。二度の政党結成に失敗した伊藤にとって、まさに三度目の正直であった。



 伊藤が政友会を創立したことは、長年「民党」と対峙して来た官僚たちから裏切りとして見られた。官僚たちは、伊藤と決別したが、伊藤系官僚も政友会に入会した結果、、官吏服務規程により官僚に戻る事が難しくなった。政友会の結成は、既に進んでいた「伊藤系」・「山県系」の最後の分岐点である。



 政党の政権参加に否定的な人々は、この頃までに山県の下に結集した。長州閥系の藩閥政治家の多くとその幕僚、官僚政治家の大部分と長州閥系の陸軍軍人が、山県を頂点に置く政治勢力を形成した。これが「山県閥」と呼ばれる。山県閥は議会で政党と対決する機会が多い事から、反政党的でその勢力は大正十三年(1924)に清浦圭吾が第二次護憲運動に敗れるまで行政官庁、貴族院、枢密院、陸軍に及んだ。



 「伊藤閥」は、伊藤に近い藩閥/官僚政治家である。衆議院のほか、内閣府、枢密院・貴族院の一部に展開していたが、伊藤閥は本質的に伊藤の秘書集団の色彩が濃く行政官庁や軍に影響力がなく、伊藤本人への依存度が高いのが欠点であった。



 政友会の創立宣言を受けて明治三十三年(1900)九月十三日、憲政党は解党の上、党を挙げて政友会に加入する事を党大会で決定した。同月十五日、帝国ホテルで立憲政友会の発会式が行われ、伊藤が総裁に就任した。入会者は100万に上り、代表1400人が列席した。伊藤は演説で、国家の利益を主とすることと一党派の私利に殉ずべきではない事を強調したが、綱領にも国家への責任と公益を目的とする行動が謳われていた。この日、会則が規定されたが、懸案の倶楽部問題は「地方の事情で支部が置けないときは倶楽部に代えることができる」という形で処理された。実際の設置例は僅かだった。



 本部には総裁の下に総務委員、幹事などの役員が置かれたが、これらは伊藤総裁が任命した(会則には任命権者の規定無し)。それは伊藤総裁の指導権を人事面から保障するものだが、総裁は総務委員の決定に対しても必要と認める場合には覆せる事が、合意されていた。



 伊藤派は旧憲政党勢力に対して人数的に劣勢であり、多数決では主導権を失う公算が大きい。伊藤は政友会を国益本位・公益中心に運営するため、「総裁専制」を必要としたのである。それは政友会に軋轢を生み出すことになる。



 山県は伊藤に辞意を打ち明けたが、伊藤は次期議会での支援するから辞めるなと激励したが、同年九月二十六日、山県首相は病気を理由に天皇に辞表を提出した。山県は伊藤を後任に推したが、伊藤は政友会が発足したばかりなので歓迎しなかった。だが、旧憲政党系は政権復帰を望んで伊藤に接近したので、伊藤政権に飛びついた。同年十月一日、九州派の野田卯太郎は総務委員・都筑馨六と旧憲政党からの閣僚候補を相談している。伊藤としては政友会を固めてから政権を引き受けたかったのだが、奔流と化した伊藤政権への動きを塞き止める事は至難だった。同月七日、天皇は伊藤に組閣の大命を降し、伊藤は閣僚銓衝に着手した。



 同月九日の夜、渡辺が自宅で記者懇談を行い、脱会の意向を表明した。横行する会員の猟官運動によって政党改良を謳う創立宣言書は反故になったと非難した。翌十日午前、伊藤に脱会届を送りつけた。同日の昼、渡辺は舌の根も乾かないうちに脱会宣言を取り下げたと言明した。記者に尋ねられると、「心機一転」しただけと繰り返した。同月十一日、渡辺は伊藤を訪ね、脱会中止を改めて確認した(心機一転事件)。



 渡辺が脱会を取り下げた理由は、宮内大臣・田中光顕から伊藤・井上と融和するようにと天皇からの御内沙汰が伝えられたことだが、直接の原因は大蔵大臣就任の見通しがついたからである。伊藤の番頭を自任する渡辺は、政友会内部で伊藤系が旧憲政党に対し優位に立つように腐心していたが、伊藤が星を優遇し、井上が大蔵大臣候補に挙がっていることで、気分を害したのである。渡辺は、軍費膨張や政党の利益誘導からくる経費増大を抑え得るのは自分しかいないと自負していた。渡辺は伊藤に冷遇されていると見て脱会を決意したが、井上が蔵相を辞退するのを聞きつけ、脱会宣言を取り下げた。



 渡辺に翻弄された憲政党勢力は政友会全体にお詫びと反省をしろ!と求めたが、渡辺は今回の出来事は自分と伊藤の揉め事で、解決済みであり、(渡辺を厳しく処分すると)、会内の勢力バランスが憲政党系に傾くのと、伊藤系には渡辺の他に財政通がいないのを知った上で必要は無いと開き直った。性質が悪い奴ですね。憲政党勢力は星を先頭に立て伊藤に、渡辺の入閣取り消し、創立委員長解任を求めた。伊藤は会内の勢力均衡を目的に一任せよとかわした。



 同月十七日、政友会は機関紙「政友」で渡辺問題の顛末を公表し、渡辺と絶縁状態になった。



 明治三十三年(1900)十月十九日、第四次伊藤博文内閣が成立した。



 総理大臣:伊藤博文、外務大臣:加藤高明(かとうたかあき)、内務大臣:末松謙澄、大蔵大臣:渡辺国武、陸軍大臣:桂太郎、海軍大臣:山本権兵衛、司法大臣:金子堅太郎、文部大臣:松田正久、農商務大臣:林有造、逓信大臣:星亨、班列:西園寺公望、内閣書記官長:鮫島武之助、内閣法制局長官:奥田義人(おくだよしと)。



 外相の加藤がイギリス公使からの初入閣で目玉であった。桂陸相、山本海相、鮫島、奥田の他は、すべて政友会員の政党内閣だった。問題児渡辺は蔵相に就任した。過半数政党を基礎とする政権だが、波乱の幕開けだった。伊藤の幕僚・金子法相は「こんな人が幕僚にいては将来どんな異変が起きることか」という、渡辺に対する井上の危惧を伊藤に伝えた。渡辺の奇矯な行動が再現されれば、政権の大事である。それが井上の杞憂でない事は、後に露わになる。



 余談になるが、当初、星は憲政党の実力者という事で内務大臣の地位を星派が熱心に薦めたが、伊藤が首を縦に振らず、娘婿の末松に内務大臣の地位を与えた。在野の世論は、伊藤が内務大臣を兼任するのをはばかり、能力的に可もなく不可もない末松が身代わりを務めた、と読んだ。星と林は劇薬と見られていて、いい方向に働けば、優れた業績を上げるが、使い方を間違えれば、伊藤内閣の致命傷になるとも見られていた。このように、第四次伊藤内閣は「ぼくのつくったさいきょうのないかく」と自画自賛していたが、その内情は砂上の楼閣といってもいいくらい、もろいものを抱えていた。



 「模範政党」を目指したはずの政友会は早くも醜聞に見舞われた。同年十一月頃から、毎日新聞《社長兼主筆・島田三郎(しまださぶろう)》の記者・木下尚江(きのしたなおえ)による一連の告発記事がそれである。「公盗の巨魁星亨」と題した記事を掲げ、東京市役所や市議会での贈収賄・公金費消が摘発され、東京市参事会員として市政の実権を握る星の側近、利光鶴松、太田直次(おおたなおつぐ)、峰尾勝春(みねおかつはる)、稲田政吉(いなだまさよし)が検挙された。


 星は毎日新聞に対して無記名である事を指摘、責任署名を求めたが、毎日側は拒絶し、さらに星批判の記事を掲載し、星の控訴を要求した。同年十一月十五日、東京市会汚職事件の件で星は告訴される。この件を聞いた貴族院や憲政本党から星追及の声が挙がり、政友会の反星派議員にも呼応の動きが起きた。同年十二月二十二日、星は逓信大臣を辞職し、原敬が後任となった。星は毎日のネガティブキャンペーンに対して自身の言論機関を設けて反撃を試みた。「民声新報」と呼ばれるものがそれで、主筆に佐久間秀雄(さくまひでお)、編集長に国木田独歩(くにきだどっぽ)が招かれ、明治三十四年(1901)一月一日、民声新報は第一号を発刊、毎日と論戦を繰り広げた。



 

 続く…



 遅くなってしまい、申し訳ございません。



 

 

 



 






 



 




 


ウィンブルドンへ連れて行って…その十一

2012-01-01 12:06:15 Theme: ブログ

 新年明けましておめでとうございます。今年一年よろしくお願いいたします。



 去年一年間、訪ねていただきましてありがとうございます。なにぶん遅筆なもので、更新も遅れがちではありますが、頑張って行きたいと思います。去年一年間は大震災があり、さらに個人的にも部署が五月で異動になり、身辺がごたごたしていました。最近はやっと落ち着きました。それでは続き…



 星のやり方に対して憲政党内でも批判があったが、明治三十二年(1899)十月の党大会では、松田正久、片岡健吉らとともに総務委員に再選された。評議員、院内幹事に星派が進出し、支配体制が強化された。



 星のやり方に在野からも声を挙げた人がいた。万朝報の記者で幸徳秋水(こうとくしゅうすい)という。同紙明治三十二年十月十五日付の記事で、



「星亨のすることは、善ではないし、義にかなってもいない。しかも、昨秋以来、天下の問題はことごとく彼の作為によらないものはないし、彼によって解決されなかったものもない。彼は政界の表面にはほとんど出ず、隠然とした存在であって、しかも独裁者のような地位権勢を占めるに至ったのだが、その人物と公然として争う者が一人としていないのはどうしたことであろうか。それを可能にさせているのは他でもない、日本の国民である。彼らはただただ利益を追う、ひたすら権勢を求める。善か不善かは問わない。義と非義も問わない。星に従えば利益と権勢を得ることができるし、彼に反抗すればそれらを失う。そのために人々は彼に従うのである」



と憤慨し、それを可能にしている事情が、“勝てば官軍、負ければ賊軍”という政治風土の中で育った日本人が、原則を守るが故に意地でも星に従わないという人物がおらず、“得になるものだから従っておこうという”状況判断が支配した事により、大衆は状況に従い、星を急成長させた要因である、という記事を掲載している。



 第十四議会《会期:明治三十二年(1899)十一月二十二日~明治三十三年(1900)二月二十三日》が開会した。



 文官任用令により政党の反発を受けていた山県は、憲政党との提携維持のため、政党側の利益となる立法措置の必要に迫られていた。アメとなったのは、衆議院議員選挙法改正だった。政党は議会開設以来、選挙権の拡大を要求し、選挙法改正を求めてきた。改正案は第二次伊藤内閣時代の第八議会以降、毎年のように衆議院では可決された。しかし、既得権益の固まりである貴族院では賛成を得られず、山県内閣が第十三議会に提出した改正案も、貴族院に邪魔をされて、成立には至らなかった。



 この当時、選挙権拡大を求めていたのは、政党だけではなかった。資本主義の発達により台頭した実業家層も、地租増徴とともに選挙権拡大を求める運動を行った。実業家の選挙法改正運動は、納税条件を引き下げて都市部実業家層に参政の機会を与え、国政を実業家本意に転換する事を目標としていた。これは産業発展と国力増大を目指す政府の方針と一致していた。



 議会開設当初は原則として小選挙区で、全国257の選挙区から300名の議員が選出されていた。しかし、商工業の発達につれ、人口が都市部に流入し、当初の人口と議席数が著しく均衡を失っていた。このため、都市部の議席増も実業家の改正運動の目標となった。実業家達は渋沢栄一、大倉喜八郎らを中心に衆議院議員選挙法改正期成同盟を結成し、山県ら政府高官に建議して、活発な請願運動を行った。



 山県内閣は選挙法改正に前向きに取り組み、第三次伊藤内閣以来、議会に改正の政府案を提出していた。改正は単なる政党懐柔の手段ではなく、政府自体にも重要な課題となった。前年に引き続き、山県は第十四議会に選挙法改正案を提出した。改正案は実業界の要望を満たすため、都市部を独立の選挙区とした。都市部選出の議員の増加は同時に農村部の相対的低下を意味するため、地主・豪農などの既得権益を侵害するとして、農村側から改正案反対運動が盛んに行われた。憲政党は地主・豪農層を主要な支持基盤としていたので、党内には改正案反対論もあり、政府案支持の統一見解をまとめる事は容易ではなかった。



 選挙法改正をめぐる論議は政府与党対野党という従来の対立関係ではなく、都市部対農村部、実業家対地主・豪農層という新たな対立の図式を生んだ。都市部代表の星は、実業家層を取り込んで、改正案の成立に奔走し、法案可決のため修正案を持って両院協議会で交渉を行った。星の活躍もあって、改正法として成立した。



 改正法によれば、人口3万人以上の市は独立の選挙区とされ、郡部については一府県一選挙区の大選挙区が採用された。また、市部、郡部いずれの場合も人口13万人までは議員1名で、それを超える場合は、13万人ごとに議員1名増と定められた。議席総数は369に増加したが、増加分はほとんど都市の議席で、都市部の占める地位が高まった。納税条件も改正により直接納税15→10円以上に軽減されたため、有権者は全国でおよそ100万人(人口の2%)となった。従来の自分の名前を書き、捺印する公開主義的な投票から、現在の無記名投票に改められた。



 第十四議会では、山県の懐刀と呼ばれていた内閣法制局長官・平田東助の手により、産業組合法、治安警察法、郵便法、電信法、保険業法などの重要法案が提出され、可決・成立した。重要法案で不成立に終わったのは貴族院が先議した宗教法案でぐらいである。このうち、産業組合法は戦前の農業協同組合である産業組合の設置を定めるもので、政府の地主・自作農を中心とする農政の基盤となる。



 集会及び政社法、保安条例などの治安立法の集大成として治安警察法がある。政治結社、集会の届出制、警察官による集会と集団行進の禁止、解散権を定めていた。注目されるのは、同法中の労働者の団結権、同盟罷業権を制限する規定である。これは当時、明治三十年(1897)七月五日、労働組合期成会《幹事長:高野房太郎(たかのふさたろう)、幹事:片山潜(かたやません)》が組織され、日本でもヨーロッパ並みの労働運動が勃興してきた矢先の、政府による先制攻撃である。実業界の支持・支援を受けて活動する政党にとって、労働運動は警戒すべき存在だった。



 閉会後の明治三十三年(1900)四月九日、内閣官制、官僚の身分保障、教育制度に関する勅令の改正は枢密院への諮詢を要する事に改められた。同年五月十九日には軍部大臣の任用資格が現役の大中将に限定された。同月二十日、各省次官に代って総務長官が置かれた。大臣が交代しても行政事務の連続性を強調しているが、政党員の任官を困難にしたものである。山県の政党に対する官僚機構への防壁である。



 その一方で山県は各省に自由任用の官房長を新設した。憲政党に配慮して設置したものだが、秘書官の焼き直しとも言うべき官房長程度で不満が抑えられるほど、世の中は甘くない。憲政党では“山県内閣との提携は赤字決算ダー、手を切るべきダー!”という声が多くなり、星の豪腕でも抑えきれないほどだった。星は山県内閣に対して、しばしば交渉に務め、宣言実行・局面展開の方法を協議したが、交渉はしばしば難航した。また星は、山県に面会して、



「現内閣員の大部分を憲政党に加盟させるか、党員若干名を入閣させるか、どっちか採用してよ。」



という条件を示した。山県の政局運営はこの頃、行き詰まりを迎えていた。政府部内では舌の根が乾かないうちに再増税が検討されており、山県と伊藤・井上の間で対立が生じていた。山県は同年五月二十四日、議会も閉会し当面懸案も無いので海外事情に明るい人物に人物に新条約実施後の運営を任せたいと天皇に辞意を申し出た。落城の明治政府を立て直し、自身の閥族政治を再構築するために組みたくもない政党と一時的に提携した山県は我慢の限界に来ていたのである。山県は同年五月三十一日、全面拒絶を回答した。回答を受け、憲政党は山県に提携解消を通告した。



 このようにして、山県内閣と憲政党の協力関係は断たれたが、憲政党の山県内閣に対する収支決算は赤字であったかといえば、そうでもなく、選挙権の拡大に成功し、地方議会の掌握に成功したわけである。



 天皇は伊藤に後継を打診したが、伊藤は立憲政治には「政党員と結託」が必要だが、今は準備不足と固辞した。薩摩閥の松方・西郷に打診後、桂陸相の起用が浮上したが、天皇は山本海相との折り合いを理由に退けた。



 山県から内報を受けた桂は、自伝の中で元勲が「国家の後継者を考え出したのはいい事ダー!」と記している。元勲の年齢はほぼ同じなので、崩壊は一気に訪れる、これが藩閥の危機で、次世代の育成を行っているのは陸軍だけであるとも記している。



 明治二十年に高等文官の試験任用を導入した後、藩閥は地元で育英制度の充実、中等学校の強化など行って帝国大学に人材を送り込もうとしたが、成果が上がらなかった。陸海軍では、自由任用の余地がない上に、階級制度、身分保障でもある停年制度、終身現役の元帥の存在など藩閥存続に有利な条件が揃っていて、昭和初期まで存続した。桂がいうように藩閥の次世代で首相になったのは寺内正毅(てらうちまさたけ)、田中義一(たなかぎいち)、山本権兵衛と、軍人だけであった。



 同年六月十五日、天皇は山県に対して北清事変(=ほくしんじへん※参照)の拡大を理由に留任を命じ、山県も了承した。



 ※北清事変…話の中心になったのは義和団であり、これを義和団の乱とも言う。義和団は白蓮教(びゃくれんきょう)系の義和拳教という宗教を奉じる秘密結社で、当初は山東省方面にあった。義和拳教は、拳法の練習によって神通力を得るとし、団ごとに神壇を持って孫悟空、洪鈞老祖、諸葛武候など(「西遊記」「封神伝」「演義三国志」などの劇中の人物)を神として祭っていた。



 一方、このころの清国では、内地に教会が建てられてキリスト教の布教が行われ、一般民衆との摩擦・紛争事件が各地で起きていた。地方官憲や郷紳(ごうしん。清国における地域特権階級)は、はじめ民衆側についていたが、教会のうしろだてに外国の領事・公使・軍隊があることが明らかになってくると、やがて民衆から外国側に就いた。外国資本により汽車・汽船・電信・電話などの交通通信手段が進んでくると、従来の古い作業に従事していた人々は失業を余儀なくされた。



 追い討ちをかけるように、水災・干害などの天災も、人々の生活を一層苦しくし、民衆の不満を背景に、義和団は団員を増やしていった。



 義和団のスローガンは、はじめ「打富済貧」「官逼民変」「反清復明」といった仁侠的なものであったが、日清戦争後になると「扶清滅洋」(清をたすけ西洋を滅ぼす)を掲げて排外活動を積極化し、山東省などでの活動が目立つようになってきた。はじめはドイツ軍や山東省長官で現地軍閥の袁世凱(えんせいがい)に撃破されていたが、やがてその勢力は天津・北京へと向かい、ますます強大な勢力となった。北京での団員は20万人にのぼったという。


 清朝第十一代皇帝・光緒帝(こうちょうてい)やその後で黒幕として振舞い、保守排外的な傾向に傾いた伯母の西太后(せいたいごう)の清朝政府はこの運動を支援し、



「中国の積弱はすでに極まり。恃むところはただ人心のみ」



といって、行動をともにするようになった。



 北京に入った義和団は外国人に数々の暴行をふるい、外国公使館区域を包囲するにいたった。



 清朝政府が列国に対して1900年6月21日に宣戦を布告すると、同年8月14日、八か国(日本・ドイツ・イギリス・フランス・ロシア・アメリカ・イタリア・オーストリア)の連合軍約2万が北京に向かい外国人とキリスト教徒の救援を行った。その後、さらにアルフレート・ハインリヒ・カール・ルートヴィヒ・フォン・ヴァルダーゼー元帥が指揮するドイツ兵が加わり4万5千の兵で、直隷、山西、山東に四散した義和団を討伐、満州に義和団の乱が及ぶとロシアがこれを討伐した。


 西太后と光緒帝は、同年8月15日の北京陥落の翌日未明に、農民の姿で古馬車に乗り西安へ向かったが、その途中で列国と和を結ぶことを決めた。



 講和は、中国側は慶親王(けいしんのう)と李鴻章(りこうしょう)が全権大使に指命され、講和相手国は八か国のほかにスペイン・ベルギー・オランダを加えた11か国であった。約1年の歳月を交渉に費やし、1901年9月7日に調印された。(北京議定書)



 その内容は、主に次のとおり。



1、日本とドイツに謝罪使を派遣する。《日本は日本公使館書記官・杉山彬(すぎやまあきら)が、ドイツはドイツ駐清公使クレメンス・フォン・ケッテラーがそれぞれ義和団に殺害されたため》



2、端郡王載漪《たんぐんおうさいい。愛新覚羅載漪(あいしんかくらさいい)、清朝皇族》以下の戦争責任者を処罰する。



3、外国人を殺害・虐待した城市の科挙を5年間停止する。



4、武器・弾薬およびその材料の中国への輸入を2年間禁止する。



5、4憶5千万両を銀で列国に支払う。この賠償金は年利4パーセントとし、関税、塩税を担保として、39年間で支払う。



6、公使館区域を定め、その防衛のために外国軍隊を常駐させる。



7、大沽(たーくー)砲台、および北京と海岸にいたる間の砲台を撤去する。



8、北京と海岸の間の重要地点は、外国軍隊が占領する。



9、中国人が排外団体に加入することを、永久に禁止する。



10、総理衙門を外務部とあらため、六部の上位におく。



と第二次大戦で日本が連合国軍と交わした条件並みに厳しい条件が打ち出され、首都北京とその周辺に外国軍が配置されるとともに莫大な賠償金が課せられ、清国は半植民地状態となった。清国が分割をまぬがれたことは、幸いであった。



 日本政府としては、桂陸相の持ち出したイタリアがクリミア戦争でイギリス・フランスに加担して少数の兵力を送った結果、「列国の伴侶」に加わり、「世界の強国たるの基礎」を作った例を重視していた。桂の議論を受けて、山県や伊藤は日本にも列国入りの機会が来たと判断し、桂に命じて陸軍少将・福島安正(ふくしまやすまさ)指揮の第五師団を派遣した。桂はこの部隊を「保険料」と呼んだ。戦死しても、将来のことを考えると、列国に貸しを作ると見たからである。保険料は現地にも存在した。駐在武官で陸軍中佐の柴五郎(しばごろう)である。福島・柴両名に共通するのは、語学に堪能という事である。

 

 

 英語・フランス語・中国語と数ヶ国語に精通する両者はよく間に立って相互理解に大きな役割を果たした。北京籠城戦に当たって実質総指揮を担ったのは柴五郎であり(各国中で最先任の士官だったため)、解放後日本人からだけでなく欧米人からも多くの賛辞が寄せられている。



 桂は列国が日本の軍事力に頼らざるを得ない一方で、日本に主導権を取られるのを嫌っている事を承知していた。そのため、進んで大軍を送っても利用された挙句に外交で失敗しかねないので、日本の存在を最高値で、しかも文句のつけようのない形で売りつけるのが桂の理想だった。それはそして成功した。ボーア戦争で国力を浪費したイギリスとの日英同盟、日露戦争での外債募集の成功と引き分けに持ち込んだこと、アジアにおける一等国の地位の確立と不平等条約体制からの離脱という成果を得る事になる。



 反対論も存在した。蔵相を務めた渡辺国武である。渡辺は出兵により兌換制停止、正貨引き揚げ、不換紙幣濫発、高利外債募集で軍事費を賄う事になると予測し、大軍派遣をやめるように訴えた。が、結局は押し切られた。



続く…



 



 


 



 






 

 










 







Amebaおすすめキーワード

    1 | 2 | 3 | 4 | 5 |oldest Next >>
    アメーバに会員登録して、ブログをつくろう! powered by Ameba (アメーバ)|ブログを中心とした登録無料サイト