ウィンブルドンへ連れて行って…その十三
…続き。
明治三十三年(1900)十二月二十五日、第十五議会が開会。伊藤内閣は歳出総額2億5521万円の三十四年度予算案を提出した。2000万円の歳入不足が予想されたので、酒造税・砂糖税・海関税を引き上げ、葉煙草専売率を引き上げて2144万円の増収を図ることにした。
政友会では野田らが増税反対を唱えたが、容認に一本化された。政友会の方針に何でも反対していた憲政本党では、今回は容認論が多数を占め、代議士総会で賛成を決定した。反発した憲政本党の非増税派34名は翌三十四年(1901)二月十五、十六日の両日、脱党して「三四倶楽部」を結成した。大隈が指揮を取る中では、初めての出来事だった。
予算案が同年二月七日、増税法案は同月十九日、それぞれ政友会・憲政本党の賛成により、衆議院を通過しており、過半数を占める政友会の威力がモノを言っている様に見えたが、これらの法案は貴族院で猛烈な抵抗に遭った。貴族院では政党内閣に対する拒絶反応が強く、更に伊藤系の貴族院議員の少なさも手伝って、大勢を覆す事ができなかった。同月二十五日、増税法案は委員会で否決され、本会議に送られた。原逓相は貴族院の反発は疎外感から来るものと観察している。
政府内では、加藤外相、渡辺蔵相が衆議院解散で民意を問えと主張した。原逓相は貴族院令改正で議員構成を変え、政府に従属させる事を求めた。山本海相の提案で停会で時間を稼ぐ事になった。伊藤は山県に電報を発し、「貴方の手下が抵抗勢力の中心です!どうにかしてください!!」と警告する一方、助力を求めた。山県は「極東情勢がいつ激変するか分らない今、貴族院で増税反対論を主張してはならないと」と、手下の芳川、清浦、曾根に電報で指示を出し、伊藤に対して約束を協力した。抵抗勢力の親玉を黙らせた伊藤は同月二十七日天皇に上奏し、十日間停会の詔勅が出た。
同日、星は機関紙「人民」の中で、貴族院が
「尚頑強にして悔い改まる事がなければ、(略)無責任の言動を逞しくするを懲らしめるの方法を出づべきを勧告する」
の論説や、内閣が強硬方針をとることを求める各地の声を掲載した。
更に二十八日、政友会議員総会で、星は
「今回の衝突は政府と貴族院の衝突というより、貴族院と衆議院の衝突にして、一歩進めて論じれば、国民と貴族院の衝突なりというべし(略)政府はただその初志を貫く一法のみ」
と演説して喝采を浴びた。
手下の一人、清浦は元日付の山県宛書簡で、「国家永遠のために増税案を通したい」と書いている。更に同年三月一日、山県に返書を認め、『我々は増税に反対しない、ただ、政府の主張に反対している。政府は増税を一般財源としているが、「単純なる軍事費増税案」に改めれば調停の労を取る積りだ』と述べた。更に自分は昨年以来、伊藤と貴族院の間を取り持とうとしたのに伊藤に無視され、今度は自分の所為にされていると憤っている。
元勲中、伊藤に敵対的だったのは松方で、西郷に対して伊藤は財政整理を条件に打開を図ると積りらしいが、前の蔵相は他ならぬ私だと不快感(と小物感)を露わにしていた。
閣内では渡辺蔵相が強硬論が唱えていた。反対運動の原動力を山県系の貴族院議員と見なしており、まず和衷協同の勅許による打開を試み、それが駄目なら総辞職を奏上して、衆議院を基礎に貴族院と山県系議員を屈服させるまで戦うか、貴族院令を改め議員は有識者のみに限るべしと唱えたのである。それでも駄目なら、緊急勅令を持ち出してでも徹底的に戦うべしと、妥協の無い部分を見せた。
伊藤内閣の対応を見て、天皇は京都にいる山県、松方を呼び戻し、同月六日元勲会議を開催させた。翌日、松方と貴族院の近衛議長とで会談が行われたが不調に終わり、その次の日、山県、西郷、松方、井上の四元勲と近衛による会談が行われた。近衛が貴族院を代表して具体案を求めたので、山県が元勲を代表して、増税収入は海軍関係と災害準備、教育にのみ使用し、他の用途に充てるときは議会の承諾を得る事とする案を提示した。時間稼ぎのために停会は十三日まで延長された。
十日、貴族院側は酒造税のうち日本酒の増税五年間と海関税の増税だけを認めると回答し、話にならない!と元勲達は交渉を打ち切った。
話を聞いた伊藤は態度を硬化し、貴族院改造に乗り出す事にした。当初の案では爵位を持つ議員はそのままに、勅選議員を百名ほどまで削減して任期制にする予定だった。同時に枢密院の改造に乗り出す事も定め、定数は五十名、従来の人数に削減した勅選議員を移籍させ、大問題のときだけ諮詢する方向に定めた。
しかし、貴族院と枢密院の改造は行われなかった。勅語による解決は、すでに二月末頃に政友会幹部の間で考えられていた。伊藤にしてみれば、自分が創ったとも言える貴族院へ勅語を出す事は、最後までためらいを感じたのだろう。やっとの事で十二日、伊藤は田中宮内大臣に相談し、田中を通して天皇から近衛議長に「いつまでもゴネてないで、賛成しなさい!」と勅語を降し、貴族院を動かす事に成功した。しかし、この勅語は、御名御璽も、国務大臣副署(帝国憲法第五十五条による)もなく、近衛は正規の書式と違うと怪しみ、天皇や閣僚は承知しているのか、「伊藤を小一時間ほど問い詰めてやる」といきまく書簡を伊藤に送っている。
原は内幕を日記に書いており、貴族院どもがゴネた結果、既得権益を失うのを恐れて、元勲どもに泣き付いた結果であると論じた。しかし、元勲も貴族院に交渉を打ち切られた結果、気分を害しており、貴族院も機嫌を戻してもらうためにも、伊藤内閣に賛同するしか、道はなかった。十四日の停会明け、貴族院は勅許を受け入れた。十六日、再審議となった増税法案は衆議院案の通り可決、成立した。
結果論全開で述べるなら、伊藤の貴族院・枢密院改造が行われたなら、衆議院の貴族院・枢密院に対する優位が名実ともに固まった可能性が高い。戦前、貴族院の改造が試みられたのは、これが最初で最後であったのだから。大正末期に問題となった鈴木商店に対する台湾銀行融資問題など、貴族院や枢密院がガンとなって妨げらた事を考えると、モッタイないことである。
十八日、憲政本党や無所属議員たちは天皇を煩わせた責任を追及し、内閣不信任案を提出した。これに対し星は「インフルエンザ」で体調が悪かったが、
「諸君、憲法というものは即ち大権の一部が分ったものであると言わなければならぬとかんがえるのである。大権の中において憲法は成り立って居らなければならぬと考えるのである。然らば憲法を以って陛下の口をつぐみ、陛下が陛下の貴族院の非を改めさせるため、貴族院の悪い方へ進むのを挽回するが為に、陛下が独特の大権もって勅諭を出されたことは、何の悪い事であるか」
と、天皇大権を押し立てて伊藤を擁護した。伊藤首相は今までのストレスが溜まったのか、ブランデーを飲んだ後で壇上に立ち(泥酔演説)、貴族院に出された勅語について衆議院は容喙する権利はないから決議案は問題にならぬ、憲法解釈はヒマな時にでも議論しようと、いう趣旨の演説を行い、世間の顰蹙を買った。
政友会が議席過半数を占めていたから、同案は翌日否決された。会期終盤では、判事・検事の増俸問題が争点となった。かねてから司法官の間で安月給の返上を求めたものである。政府は三十四年度予算案の衆議院での委員会審議を終えた時点では増俸を決めていた。しかし、衆議院の多数を占めていた政友会所属委員は、院内総務星の提案により、議長官舎で関係閣僚出席の下に独自の予算査定会議を開いた。この会議は星の意のままに進められ、地方官・司法官の増俸を含め、台湾兵営建築費などが次々と削除された。司法官増俸は、前年度の司法官一致の上申があって計上されただけに、金子法相は異議を挿もうとしたが、この件を星に一任していた伊藤首相は「よせ、何を言っている」と一喝し、星は「さっさと、その項には朱線を引いた」と金子に伝えた。一般には、司法官増俸削除は星による東京市議会疑獄追及に対する意趣返しと受け取られた。これに反発した司法官は連袂辞職で抗議し、名古屋・大阪にも波及したが、政府も十六人の辞表を受理して、首謀者である東京地裁検事正・長森藤吉郎(ながもりとうきちろう)を免官、運動をなし崩しにした。
明治三十四年(1901)三月二十五日、第十五議会は閉会し、第四次伊藤内閣はこれら一連のゴタゴタを乗り越えたのだが、「ぼくのつくったさいきょうのないかく」に対してやってくる不本意な事態の連続に、伊藤は政権持続、政友会統率の意欲を低下させていった。
そんな伊藤のやる気を削ぐ事態が更にやって来る。伊藤内閣のトラブルメーカーになってしまった渡辺蔵相である。天皇の側近である岩倉具定から「こまったときの天皇頼み」と陰口を叩かれる伊藤だが、その通りで、天皇頼みで増税法案を可決させた。これにより、皇室の藩屏と呼ばれる貴族院はぐうの音も出ないほどに大人しくなった。伊藤自身枕を高くして寝ることが出来ると安心したのだが、渡辺蔵相が財源難と民間経済疲弊による公債募集困難を理由とした公債を財源とした公共事業を一切中止するように提議した。
同年四月五日と七日、閣議で激論が交わされたが、伊藤は渡辺を支持したが、やっと天皇の勅語を持ち出して増税案を可決させたにも拘らず、公共事業中止というのはなにごとだ!、ということで政友会の大多数は伊藤と渡辺に批判的だった。更に追い討ちをかけるように、原逓相が、「強行するなら大臣辞めます!やりたければお二人でどうぞ!」と猛然と反発、伊藤、渡辺は譲歩し、ひとまず事業は中止ではなく、次年度へ繰り延べとなり、支出義務のあるものは、主管大臣と蔵相が協議決定するものとされた。
それでも、譲歩したにもかかわらず、譲歩しない!というのが渡辺という人のキャラであるらしく、大蔵官僚と財界の支持を背景に、同月十五日の閣議で次年度繰り延べも認めない!公共事業は絶対中止!を声高に叫び、他の閣僚と激論を戦わせ、閣内不統一を世間に印象付けた。
伊藤が山県に報じたところでは、歳入不足は7500万円に及び、鉄道・製鉄所・電話などの新規事業を中止しても2000万円しか節約できない。今後は清国賠償金からの組み入れは見込めないので、公共事業は中止!というのである。当時三十三年春の日銀の金融引き締め、株式相場の急落を引き金に、三十三年秋から三十四年春にかけて京浜、関西で銀行恐慌が起こり、国債の消化をはかる目処が立たなかった。対外的にも北清事変の余波でロシアが満州を占拠、これによる日露関係の緊張で外債募集もいちじるしく困難になったという事情もあった。
内外関係とは別に渡辺は同月十五日付けや同月二十八日の手紙の中で、「財政を立て直すことは、政党や内閣を守ることより大切です。出来る出来ないは、閣下次第です」と政党による利益誘導政治とそれを推し進める政友会員を排し、健全財政を軸とした国益・公益本位の模範政党を今こそ作り、国家の倒産を救うべきですと伊藤に決断を迫っていた。
内外情勢困難を理由に挙げる渡辺に対し、原は逓信官僚を督励して資料を作成し、事業継続に必要な1500万円は明治初年以来の金禄公債償還延期と北清事変解決による兵力の削減を予定すれば、捻出可能である、日清戦争賠償金の使途未定金と行財政整理によって生まれた埋蔵金が見込めるとして、数字と資料を駆使して、渡辺に反撃した。原の奮闘振りは政友会の流れを更に反渡辺に加速させ、原の株を上昇させた。
政友会内部の空気を読んだ伊藤は渡辺を更迭して事態の打開を考えた。しかし、天皇から、渡辺の更迭は認めない、更迭するなら内閣は総辞職だね!と聞かされると、それを実行することができなかったし、政友会の多数を認めることは自身が考えている健全財政路線を放棄することだと、渡辺から言われたら、その通りであると、納得もした。しかし、天皇と政友会の板ばさみとなり、このままでは政局は混迷を深めるままである。同月二十九日には、裕仁親王《ひろひとしんのう。後の昭和天皇(しょうわてんのう)》が誕生した。天皇家に孫が生まれたのに、政局が混迷したのでは陛下に申し訳が立たないと感じたのか、それとも、アクの強い閣僚を率いて内閣を指導するのに疲れたのか、同年五月二日、宮中に参内して閣内不統一を理由に伊藤首相は辞表を提出した。あとで臨時閣議を開き、閣僚にそのことを告げ、総辞職となった。憲法は閣僚の個別輔弼制を定め、内閣総辞職の規定は無いが、第一次松方内閣以降慣習化しており、閣僚たちは、同日中に辞表を提出したのだが、渡辺蔵相だけはゴネて辞表を出さないばかりか、翌日、伊藤に面会し、自分は天皇の推しメンであり他の有象無象とは違い、他の閣僚と同一の進退は出来ない、財政の危機を放置して退くのは敵前逃亡であると煽った。渡辺は更に天皇に上奏して公共事業と外債募集の中止を訴え、天皇に伊藤を留任させ財政再建に当たらせるように懇願した。しかし、天皇から首相臨時代理に任命されている西園寺は渡辺の辞任を天皇に内奏し、渡辺は天皇の注意により辞表を提出した。
伊藤は、現在の政局で後を引き受けるものはいない、藩閥元老どもは俺に泣きつくに違いない!とみて慰留されれば協力の約束を取り付けた上で再組閣したいと希望を残していた。そこで井上馨、西園寺公望、桂太郎が後継首相候補に上ると、伊藤は各人に引き受けを勧める推薦活動をしても、その実現を本気に後援する態度を見せなかった。このときの伊藤の態度は幕末期、大政奉還を行った後、大政再委任を求めた徳川慶喜とそっくりである。そして、再び権力が来なかったところもそっくりである。権力を自ら投げ出した人間の下に再び戻るという事は無いのである。
同年五月四日、天皇は山県に元勲会議での後任選定を指示した。伊藤の留任、西郷海相を横滑りで起用するという案は不調に終わり、同月十六日、井上に組閣の大命を降した。井上は貴族院と政友会から閣僚を取り、蔵相には渋沢栄一を起用して「混合内閣」を組閣しようとした。渋沢は入閣を断わり、桂も陸相での入閣を拒絶した。衆議院の多数を占める政友会も井上の混合内閣を評価せず、同月二十三日、組閣を辞退した。
大本命の井上が辞退したおかげで、首相銓衡は振りだしに戻ったが、伊藤は自分にまわってくると思ったのか、調整役を避け、人選を一任して大磯の別荘に引きこもった。首相臨時代理の西園寺と元陸相の桂が浮上したが、西園寺は原に対して「オレ流で組閣できるまで、首相の座には近づかない!」と語っており、この段階では時期尚早と見て、固辞していた。
となると、桂の一人勝ちと思われがちだが、政界の風見鶏といわれた伊東巳代治が動き出し、桂に大命拝辞を勧めた。伊藤が首相への返り咲きを狙っており、伊藤に恩を売って貸しを作り、桂政権への伊藤支援を確約させる。無理して桂が首相に就任すると、伊藤に報復され短命政権に終わる。伊藤ら第一世代の時代は寿命が迫っており、無理をしない方が世代交代が円滑に行くと説いた。伊東は伊藤が口に出せない本音を先取り、斡旋する事で伊藤と桂に貸しを作り政界に存在感を示すことで、伊藤と復縁しようとしていた。
当の桂は話を聞き流していた。チャンスは与えられるものではなく、掴むものであると思っている桂は本当に来るかどうか分らない次のチャンスなど当てにはしていなかった。同月二十六日、桂に組閣の大命を降した。桂は辞退する一方で首相の座を狙って引きこもっている伊藤を訪ね、首相再就任を勧めたが、伊藤は断わった。ここで引き受けても、短命政権で終わるからである。
話が違うじゃないか!と伊東が桂に迫って後任辞退、伊藤推挙の書簡を伊藤に送らせた。書簡を受け取った伊藤は伊東ごときが自分の進退を左右しようとした事に不快感を露わにした。更に引責辞任した自分が復権を策動したかに見えたことに気分を害した。
伊藤の妨害もなく、山県と配下の官僚・軍人勢力が支持したことで明治三十四年(1901)六月二日、第一次桂内閣が発足した。
伊藤の目算は外れ、伊藤の再出馬あるいは西園寺内閣の出現を期待していた政友会は、この結果に失望した。伊藤は政友会総裁であるとともに、元老でもあり、党員たちが直ちに桂内閣に「軽挙反対」するのを戒める事しか出来なかった。こうして、元老の第一人者で衆議院の多数党の支持を持つ「ぼくのつくったさいきょうのないかく」である第四次伊藤内閣は、退陣した。
この間、星は、西園寺や原と共謀して渡辺蔵相の更迭を伊藤に勧めたが、伊藤から渡辺処分を唱える政友会内部の鎮撫を頼まれたりしている。かと思えば、西園寺内閣の成立を希望していたが、それが怪しくなると、井上内閣の組閣騒動に首を突っ込んでいる。井上内閣の組閣騒動が治まると、桂太郎内閣出現の前後には、伊東に頼まれて伊藤に再出馬を説いている。遂に桂内閣が決まった六月一日には、政友会本部の議員総会で桂内閣に対して旗幟を鮮明にせよとの石田貫之助(いしだかんのすけ)代議士の発言に対して、星は
「総裁が言ったでしょ。党の利益になるなら、賛成!不利益なら反対!」
と切り返すと、石田は
「新内閣とは関係ないんですね?」
というと、星も
「関係ないね」
と伊藤総裁の方針を支持する答弁を行い、党員を活気付けるため、総務委員会の決議として政務調査、党勢拡張の方策を近日中にまとめて諸君に諮ると報告した。
今まで、内閣交代過程において、積極的に活動していた星が、今回だけは積極性に欠けていた。約二ヶ月の間、星は、政友会を率いて事に当たるのにくたびれた伊藤を政友会に引き止め、政友会の結束を維持するという以上の努力をしていない。
それまでの星と違う一面が出てきたという意見もこのころから散見された。
桂内閣が誕生する十日ほど前、宇都宮へ県会議員補欠選挙の応援に出かけたとき、星派の元代議士・中山丹治郎《なかやまたんじろう。明治三十三年(1900)十二月四日没》の墓参りに行こうと言い出し、墓前にて、
「幾ら大事にされても、死んだら詰まらないね」
と、今まで死のことや墓参りに頓着しなかったこの男が、感慨に堪えない様子であったと、伊藤痴遊(いとうちゆう)が書き記している。
また、それまで宗教にまったく興味を持たなかった星が、宗教家を歴訪しているのも、興味深いことである。
いずれにせよ、この時点でまだ五十歳に達した星である。老け込むにはまだ早いはずなのだが、星の時計の針は、明治三十四年(1901)六月二十一日午後三時で永遠に止まることになる。
続く…
まったく持って、更新を怠っていました。申し訳ございません。言い訳をさせてもらうなら、仕事が忙しかったのです。
こうならないように、頑張ります。





