東山魁夷「花明り(はなあかり)」の部分図(講談社『日本大歳時記』より)
この絵は、東山魁夷が京都の「円山(まるやま)公園のしだれ桜」を見て描いたものだ。満開のしだれ桜とその真上の満月、この瞬間をとらえた『花明り』という作品は、お月様のように心まで丸くなってしまう絵だ。

(東山魁夷画「花明り」 昭和43年[1968年] 127×96㎝ 北澤美術館蔵) 

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東山 魁夷(ひがしやま かいい、1908年[明治41年]7月8日~1999年[平成11年]5月6日)(90歳没)は、日本の画家、版画家、著述家。昭和を代表する日本画家の一人で、「風景画の分野では国民的画家」といわれる。

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東山魁夷は画家であるが、その文才も素晴らしい。僕は、彼の文体自体がとても好きなので文庫本で彼の作品を読んでいるが、彼の文章を読むと情景が色彩とともに心の中に映し出されてくる。とにかく、美しい文章である。また、彼の絵画に対して深い理解をすることができる文章でもある。

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「東山魁夷小画集」(全6冊)[新潮文庫]

『京洛四季』『中国への旅』『唐招提寺全障壁画』

『風景との巡り合い』『ドイツ・オーストリア』

『森と湖と』

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折しも桜の季節、「花明り」という作品を描くきっかけになった出来事が書かれている彼の素敵な文章と東山画伯の画集の解説に掲載されている詩のような文章とを次にご紹介するので、「円山のしだれ桜と満月」の絵『花明り』の解説をご堪能ください。

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円山の桜:花明り(『日本の美を求めて』より)

  京都を主にした連作を描いた頃のことである。円山(まるやま)の夜桜として知られている、あの、枝垂(しだれ)桜の満開の姿と、春の宵(よい)の満月が呼応する情景を見たいと思った。
  四月十日頃だったか、その夜が十五夜であることを確かめて京都へ向かった。昼間、円山公園へ行ってみると、幸いに桜は満開であった。春の陽差しが今宵の月夜を約束するかのように明るかった。夕方までの時間を寂光院(じゃくこういん)や三千院(さんぜんいん)を訪ねて過ごし、頃合いを見て京都の町へ帰って来た。 
 下鴨(しもがも)あたりだったか、ふと、車の窓から覗(のぞ)くと、東の空に、ぽっかりと円い大きな月が浮かんでいるではないか。私は驚いた。円山の桜を前にして東山から顔を出したばかりの月が見たかったのであって、空高く月が昇(のぼ)ったのでは意味が無くなってしまう。大原(おおはら)で時間をとり過ぎたことが悔(く)やまれた。 
 円山公園へ急いで辿(たど)り着くと、私はほっと一息ついた。ここでは山が間近であるため、幸いに月はまだ姿を見せていなかった。紺青(こんじょう=鮮やかな明るい藍[あい]色)に暮れた東山を背景に、この一株のしだれ桜は、淡紅色(たんこうしょく)の華麗(かれい=はなやかで美しいこと)な粧(よそお)いを枝いっぱいに着けて、京の春を一身に集め尽(つ)くしたかに見える。しかも、地上には一片の落花もなかった。
  山の頂が明るみ、月がわずかに覗き出て、紫がかった宵空(よいぞら)を静かに昇り始めた。花はいま月を見上げる。月も花を見る。この瞬間、ぼんぼりの灯(あかり)も、人々の雑踏も跡かたも無く消え去って、ただ、月と花だけの清麗(せいれい)な天地となった。
 これが巡(めぐ)り合わせと言うものであろうか。花の盛りは短く、月の盛りと出合うのは、なかなか難しいことである。また、月の盛りは、この場合ただ一夜である。もし、曇りか雨になれば見ることが出来ない。その上、私がその場に居合わせなければならない。
 これは一つの例に過ぎないが、どんな場合でも、風景との巡り合いは、ただ一度のことと思わねばならぬ。自然は生きていて、常に変化して行くからである。また、それを見る私達自身も、日々、移り変わって行く。生成と衰滅(すいめつ=おとろえほろびること)の輪を描いて変転してゆく宿命(しゅくめい=生まれる前から決まっている運命)において、自然も私達も同じ根に繫(つなが)っている。
 花が永遠に咲き、私達も永遠に地上に存在しているなら、両者の巡り合いに何の感動も起こらないであろう。
花は散ることによって生命の輝きを示すものである。花を美しいと思う心の底には、お互いの生命のいつくしみ、地上での短い存在の間に巡り合った喜びが、無意識のうちにも、感じられているに違いない。それならば、花に限らず名も知らぬ路傍(ろぼう=みちばた)の一本の草でも同じことではないだろうか。
 風景によって心の眼(め)が開けた体験を、私は戦争の最中に得た。自己の生命の火が間もなく確実に消えるであろうと自覚せざるを得ない状況の中で、初めて自然の風景が、充実した命あるものとして眼に映った。強い感動を受けたそれ迄(まで)の私だったら、見向きもしない平凡(へいぼん)な風景ではあったがーー

(東山魁夷『日本の美を求めて』[講談社学術文庫、1976年])

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「円山」(『東山魁夷小画集』解説)
 花は紺青に暮れた東山を背景に、繚乱(りょうらん)と咲き匂(にお)っている。この一株のしだれ桜に、京の春の豪華を聚(あつ)め尽したかのように。
 枝々は数知れぬ淡紅の※瓔珞(ようらく)を下げ、地上には一片の落下も無い。
 山の頂が明らむ。月がわずかに覗(のぞ)き出る。丸い大きな月。静かに古代紫の空に浮び上る。
 花はいま月を見上げる。
 月も花を見る。
 桜樹を巡る地上のすべて、ぼんぼりの灯(あかり)、篝火(かがりび)の焰(ほのお)、人々の雑踏、それらは跡(あと)かたもなく消え去って、月と花だけの天地となる。
 これを巡り合わせというのだろうか。
 これを『いのち』というのだろうか。

※瓔珞とは、珠玉や貴金属を編んで、頭・首・胸にかける装身具。

 (東山魁夷小画集『京洛四季』[新潮文庫])

今年も道端で黄色い可憐な花を咲かせて春の到来を告げる「タンポポ」が、あちこちで見かける季節になった。今年、すでに見た方も少くなくないだろう。僕は、今年の3月22日に、初めて『カントウタンポポ』に出会った。その場所は湯殿川沿いの遊歩道で、僕が「オオバン」と「バン」を観察する所だ。オオバンとバンが僕に『カントウタンポポ』の在り処(ありか)を教えてくれたのではないかと思われた。2回目の出会いは4月6日で、片倉城跡公園に桜の花やカタクリの花や水芭蕉の花を観に行った帰り、同じ場所で『カントウタンポポ』に再会した。ちなみに、日本で見られる「代表的なタンポポ」は外来種の『セイヨウタンポポ』と在来種の『ニホンタンポポ』だが、その雑種もある。ちなみに有名な『ニホンタンポポ』は『カントウタンポポ』だ。

ところで、「タンポポ」は最も代表的な「春の野の花」だが、不思議なことに万葉集・古今和歌集・新古今和歌集だけではなく、中世の短歌にも詠まれていない。『和名抄(わみょうしょう)』に「フジナ」また「タナ」とあるのが「タンポポ」で、その嫩葉(わかば)を食用に摘(つ)んだそうだ。春の野原の最も普通の雑草で、根元から幾重(いくえ)にも重なりあって出る葉は、柔らかくうす緑で鋸歯状(きょしじょう)(のこぎりの歯のような形状)に深く切れこみ、地面にはりついたように生える。茎葉(けいよう)を折ると、白い乳が出る。春の太陽の輝きをさながら吸収して咲き出したといった趣(おもむき)の花だ。西日本には、白、というよりクリーム色がかった花が多い。学者はとくに「白花たんぽぽ」という。いずれの種類の『タンポポ』も、花が終わって実になると白色の冠毛(かんもう)を生じて、『蒲公英』の絮(わた)が風のない日も、どこまでも飛んでゆく。

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『タンポポ・蒲公英』

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被子植物、真正双子葉類、キク科タンポポ属の多年草の総称。原産地はヨーロッパ。常緑性の多年草で日当たりのよい野原や田んぼの畔(あぜ)や道端や草地に生え、根際(ねぎわ)から羽状(うじょう)(羽のようなさま)に深く裂(さ)けた葉を放射状に出す。3月〜4月ごろ、その中心の根生葉から※花茎(かけい)を伸ばし、頂(いただき)に黄色または白色の※舌状花(ぜつじょうか)のみからなる※頭状花(とうじょうか)を開く。小花は全て舌状花からなり、多数の小花が集まって一つの花となっている。種子は上部に白い毛をつけて風に飛ぶ。ちなみに、若葉は山菜として食用とされ、根は民間薬とされて、漢方では催乳(さいにゅう)に用いる。日本では『カントウタンポポ』『カンサイタンポポ』『エゾタンポポ』『シロバナタンポポ』などの雑種が自生し、『セイヨウタンポポ』『アカミタンポポ』などが帰化している。なお、江戸中期にはタンポポの園芸がブームとなり、多くの園芸品種が作られたそうだ。

※ 「花茎」とは、地下茎や根から直接出て、ほとんど葉をつけず、花をつける茎(くき)。

 ※「舌状花」とは、花弁 (かべん )が合着し,上部だけが平らで 舌状に伸び,水平につきだしている 花冠 (かかん) のことである。   

※「頭状花」とは、花軸(かじく)の先端に二個以上の花が集まったもので、短い花軸の先が盤状(ばんじょう)になり、その上に多くの花が集まって付き、一つの花のように見えるもの。

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『ニホンタンポポ (日本蒲公英)』

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「タンポポ属」の中で在来種の、※総苞片(そうほうへん)が閉じている種類のものは、特に『ニホンタンポポ』と呼ばれる。 「繁殖力が高く幅広く分布」する『セイヨウタンポポ』に比べ、 『ニホンタンポポ』は「狭い範囲で繁殖」するため、『カントウタンポポ』や『カンサイタンポポ』など地方によって見られる「タンポポ」の種類が異なる。 古くは、茎(くき)を裏返して鼓(つつみ)を作って遊んだことから「鼓草(こそう)」と呼ばれた。 『タンポポ』の名前は、球形の綿毛の姿が綿を丸めて布でくるんだ「タンポ(短穂・打包)」に似るためや 鼓草の鼓の音を連想して、子供が「タン!ポンポン」とか「タンポポ」とか「テテポボ」とか言い出したためだと言われている。 なお漢字の「蒲公英」は、漢名の『蒲公英(ホコウエイ)』から取っている。

※「総苞 片」とは、花序(かじょ)(1個の花または花の集まり)のもとに多数の苞葉(ほうよう)(花序の基部にある特殊化した葉のこと)が密集したもので、その苞葉の1枚まい1枚まいのこと。

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『ニホンタンポポ(日本蒲公英)』の特徴
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在来の『ニホンタンポポ』は、『セイヨウタンポポ』と違い、自分の花粉を自分のメシベにつけても種はできず、他の株からハチやチョウが花粉を運ぶ必要性があるので、群生していないと種ができないというところが特徴だ。また、『ニホンタンポポ』は1つの花からできる種の数も『セイヨウタンポポ』と比べて少なく、1年中発芽できる『セイヨウタンポポ』と違って、その種は秋まで発芽しない。帰化植物の『セイヨウタンポポ』が在来種を駆逐する勢いにある。ただし、都会において急激に数を減らした原因は、人間が開発したことによって、発芽に時間がかかる在来の『ニホンタンポポ』』より先に『セイヨウタンポポ』が広がる下地を生み出したことが原因とされる。『セイヨウタンポポ』は日本の侵略的外来種ワースト100に選定されていて、環境省の「指定要注意外来生物」となっている。

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『タンポポの花』はどこか?

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「タンポポの花」というのは「小さな花の集合体」で、

その小さな花は全て舌状花からなり、多数の小花が集まって一つの花となっている。1枚の花には、それぞれちゃんと雄蕊(おしべ)と雌蕊(めしべ)がついている。小さな花の集合体なのでタンポポの種(たね)は丸い形になる。キク科の植物の多くは、このような集合した花を付ける。ちなみに、『二ホンタンポポ』は春に咲き、『セイヨウタンポポ』は春から秋まで咲き続ける。春以降、私たちの暮らしを彩ってくれる黄色い花を時には立ち止まってじっくり観察してみてはどうだろう。

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『二ホンタンポポ』と『セイヨウタンポポ』の特徴

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「在来種」の『ニホンタンポポ』には『エゾタンポポ』『カントウタンポポ』『カンサイタンポポ』など22種類がある。種子は比較的少なめだが大きくて、風に乗って飛ばされ、地上に落下しても秋までは発芽しない性質を持っている。夏場は自らの葉を枯らして根だけを残した休眠状態「夏眠」になり、秋に再び葉を広げて越冬する。このようなたくましさは、日本の自然環境に合わせた生活サイクルを身につけているからだといえるのではないだろうか。
「外来種」の『セイヨウタンポポ』はいろいろあるが、海外から入ってきた黄色いタンポポはすべて『セイヨウタンポポ』と総称されている。個体と花粉を交雑(こうざつ)しなくても種子をつくることができるため、繁殖力が極めて強いのが特徴だ。また種子が小さく発芽するときの芽も小さいので、他の植物が生えないような都市化された環境でも生育でき、豊かな自然環境が残るところでは生息が難しいといわれている。

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『二ホンタンポポ』と『セイヨウタンポポ』の見分け方

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『二ホンタンポポ』と『セイヨウタンポポ』は、どこを見れば見分けられるかと言うと、その最大の違いは、花のつけ根にある総苞片の形だ。『セイヨウタンポポ』は総苞片の外片が下に反り返っているが、『二ホンタンポポ』は上向きで内片に付いている。
『セイヨウタンポポ』の総苞片⇒下に反り返っている  (2024年4月11日)

タンポポの総苞片が明らかに下に反り返っている⇒『セイヨウタンポポ』(2024年4月11日)

『セイヨウタンポポ』とその総苞片(2024年4月12日)⇒総苞片が下に反り返っている

『カントウタンポポ』とその総苞片(2024年4月12日)⇒総苞片が下に反り返っていない

タンポポの花を包む総苞の形のちがい(学研の図鑑『植物』)

「タンポポ」を外で見つけることがあったらちぎって確認してみると良い。花の見た目は、ほとんど変わらないが、裏をひっくり返してみて、「反り返っている」のは『セイヨウタンポポ』、「反り返っていない」のが『ニホンタンポポ』だ。ふつう目にするほとんどの「タンポポ」が『セイヨウタンポポ』なので、めったに見ることのない『ニホンタンポポ』を見つけることができると、本当に嬉しくなる。

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『ニホンタンポポ』と『セイヨウタンポポ』が、それぞれ良く見られる場所
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繁殖力が強い『セイヨウタンポポ』は、ほぼ日本全域に分布している。都市化によって造成された土地に、よく見られる。里山のような昔ながらの土地に分布しているのが『ニホンタンポポ』だ。昔から環境が変化しにくい寺社仏閣の境内や昔からの田畑で見られる。

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「在来種と外来種の雑種」の存在
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最近では「在来種と外来種の雑種」が、非常に多くなっているということだが、環境省が行った「緑の国勢調査(2001年)」で全国の市民から集められたサンプルを調査したところ、「雑種のタンポポ」が全国に広がっているという結果が得られた。これらの「雑種のタンポポ」の中には総苞片の反り返り具合が弱く、「在来種と間違いやすいタンポポ」もあるそうだ。こうした「反り返りが弱いタンポポ」は、より在来種の特徴が出ている雑種で、「反り返りが強いタンポポ」は、より外来種の特徴が出ている雑種であると言われている。 

寺田町のセイヨウタンポポ(2024年3月22日)

大船町のセイヨウタンポポ(2024年4月7日)

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『セイヨウタンポポ』
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多年草。葉や茎を切ると白いゴム質の乳液が分泌(ぶんぴ)され、これによって虫に食べられるのを防いでいるが、これはアレロパシー作用(植物が放出する化学物質が影響して、他の生物に何らかの作用を及ぼすこと)を持っているからだと言われている。根茎(こんけい)による繁殖力が強く、どの部分の切片からも出芽する。日本では、在来種の『ニホンタンポポ』と違って、ほぼ一年中見ることができ、暖地では真冬でも花や綿毛も見ることができる。『セイヨウタンポポ』には「有性生殖」を行う2倍体と「無融合(ゆうごう)生殖」を行う3倍体があり、日本に定着した『セイヨウタンポポ』は3倍体で、「単為(たんい)生殖」で種子をつける。「単為生殖」、つまり「花粉に関係なく、種子が単独で熟してしまう」のだ。そのため繁殖力が強く、都市部を中心として日本各地に爆発的に分布を広げた理由の一つとされる。『セイヨウタンポポ』は、現在ではほぼ日本全国に広がっているが、古くからの田園風景の残る地域では在来種の『ニホンタンポポ』が勢力を持っている。そのため、「都市化の指標生物」になると言われている。『セイヨウタンポポ』は、あまり季節を問わず、黄色い舌状花を長い期間にわたって咲かせる。萼(がく)(花びらの外側の緑色のもの)のように見える部分「総苞片」が「開花時に反り返る」ことで、「花に沿って固く閉じる」在来種の『ニホンタンポポ』とは区別できる。ただし、在来種も「花の盛りを過ぎると総苞が反り返る」ので注意を要する。花は天気が良いときに開く。タンポポの特徴である綿毛・冠毛は開花時からすでにあり、花が咲き終わってから花が閉じ、花茎がいったん倒れたときに長く成長する。綿毛の根元には刺状(しじょう)(こぶ状)の突起(とっき)が付いた褐色(かっしょく)の果実がつく。この突起は、果実が綿毛と一緒に風に乗って飛ばされて、地面に着地したときのブレーキの役目をするという説がある。葉は鋸歯状(きょしじょう)に※深裂(しんれつ)するが、変化が大きい。※生育型(せいいくけい)は、※ロゼット型(がた)となる。   
※「深裂」とは、葉の形などで、緑が深く切れ込み中央近くまで達していること。

※「生育型」とは、生活型の一つで、植物を茎や枝の形状によって分類すること。

※「ロゼット型」とは、冬も緑色の葉を放射状に広げて地面にぴったりつけた状態で過ごすもの。この状態のことを、形が似ていることからロゼット(バラの花の意味)と言われている。

湯殿川沿いのカントウタンポポ(2024年3月22日)

湯殿川沿いのカントウタンポポ(2024年4月6日)

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『カントウタンポポ』

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『カントウタンポポ』は、関東や中部地方(静岡・山梨)を中心に生息するタンポポ。別名「アズマタンポポ」。日本に昔から在来する種類で、高さは10~20cm。茎は中空で、切ると白い乳液が出る。3月〜5月頃(春)になると黄色い花を咲かせる。「タンポポ」の中で開花時期が早いのが『カントウタンポポ』だ。野原、道ばた、草地、丘陵などに生える。「帰化種」が増えて「在来種」が減ってきている植物の中で減少が著しいのは否(いな)めないが、絶滅危惧種への指定はない。とにもかくにも『カントウタンポ』は数が少ないため摘み取らないようにしなければならない。花は黄色の舌状花からなる。花序の総苞(そうほう)が直立して閉じており、内片と外片に角状の突起があるのが特徴だ。※根生葉(こんせいよう)はロゼッタ状に生え、※倒披針形(とうひしんけい)で深く切れ込みがある。種子は少ないが、大きく重いのが特徴だ。この『カントウタンポポ』は花が咲き終わったら、2週間程度でフワフワの白い綿毛になる。

※「根生葉」とは、地面に広がって立ち上がっていない葉。

※「倒披針形」とは、植物の葉などの形を表わす語で、披針形(植物の葉などで平たくて細長く、先のほうがとがり、基部のほうがやや広い形)を倒立させた形。

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『セイヨウタンポポ』と『カントウタンポポ』『カンサイタンポポ』、『エゾタンポポ』との違いと見分け方

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『セイヨウタンポポ』は帰化種。『カントウタンポポ』、『カンサイタンポポ』、『エゾタンポポ』は日本の在来種。『在来種と帰化種の違い』は、「総苞(そうほう)の外片(がいへん)が反(そ)り返っているかどうか」で見分けることができる。「タンポポ」の花の下をのぞき込んで、花の付け根の部分が反り返っていれば『セイヨウタンポポ』で外来種の可能性が高いが、『在来種』はが外片が反り返っていない。『カントウタンポポ』は、この部分が全く反り返らない。

『カントウタンポポ』と『カンサイタンポポ』の見分け方は、『カンサイタンポポ』は「比較的に小型で舌状花(ぜつじょうか)の数が少ない」のが特徴だ。

『カントウタンポポ』と『エゾタンポポ』の見分け方は、『エゾタンポポ』には「総苞の外片に角状の突起(とっき)がない、あるいは小さい」のが特徴だ。

おととい金曜日ははNHK連続テレビ小説『ブギウギ』の最終回だった。趣里が演じるヒロイン福来スズ子(モデルは笠置シヅ子=戦後の大スターで「ブギの女王」として人気を博した歌手)が多くの困難を乗り越えて歌手の道を突き進み、人々に勇気と希望を与えていく姿を描いた『ブギウギ』。スズ子にとっての憧れの存在で、生涯の良きライバルとして、時に競い合い、時に支え合いながら芸能の世界を生きていくことになる菊地凛子演じる先輩歌手、茨田りつ子(モデルは淡谷のり子=戦前・戦後の大スターで「ブルースの女王」として人気を博した歌手)の二人の歌と人生の物語。この朝ドラ『ブギウギ』の中で戦争と歌をテーマに描かれた第14週66話(2024年1月5日放送)「戦争とうた」の中で背景となった太平洋戦争で日本の戦況がますます悪くなっていた1945年、茨田りつ子は、鹿児島の※「海軍基地」(出撃基地)を訪問し、慰問公演を開いた。黒のドレスで会場を下見すると、現地の少佐が「明日もその格好で歌うのか?」と尋ねる。「まさか」と茨田。「これは普段着、本番はもっと華やかにいく」と。「海ゆかば」は歌えるか、「同期のさくら」はどうだ、と軍歌を歌うよう頼む少佐。「歌えない。軍歌は性に合わない」が答えで、「私でお役に立てないなら」と帰ろうとする。ここまでは、戦争に迎合することを猛然と拒否してきた“憤り”の茨田だった。そこから、ぐっと変わった。会場の外から自分を見つめる若い兵隊たちに気づき、「あの子たちは?」と尋ねる。そして、彼らが特攻隊員だと説明される。茨田を見つめる彼らのキラキラした目に、少佐も折れる。「彼らの望む歌を歌ってくれ」と。担当者から※特攻隊として出撃する若い隊員たちのために歌ってほしいと懇願(こんがん)されたりつ子は、彼らが望む歌を歌うという折衷案(せっちゅうあん)を受け入れ、特攻隊員たちの見つめる中ステージに登った。肩の露出した青いドレスを着てステージに立ったりつ子は、基地にいる若い特攻隊員に「本日は皆さんのお望みの歌を歌いたいと思っていますので、遠慮なくおっしゃってください」と話しかけた。すると、隊員の1人が『※別れのブルース』を歌ってほしいと切り出し、これに多くの隊員が賛同。その様子を見た少佐は席を外し、りつ子は渾身の『別れのブルース』を披露した。しかし、淡谷のり子さんがうたっている間に出撃命令が下され、自分の子供ほどの年若き特攻兵として隊員たちが一人立ち、敬礼をして去っていく、また一人立ち、笑顔で敬礼をして退席していく。その姿を見たとき、淡谷さんの目からはとめどなくあふれるものがあった。隊員たちは退場したあと、海軍基地から飛び立ち、帰らぬ人となったのだ。淡谷さんが歌い終わると、会場は総立ちになり、隊員たちが口々に礼を言う。「晴れ晴れといけます!」「もう思い残すことはありません!」「元気でゆけます。ありがとうございました!」「迷いはありません!いい死に土産になります!」などとりつ子に感謝。廊下で聴いていた少佐は号泣し、りつ子も自分の歌を聞いた特攻隊員たちの覚悟の言葉と表情に、思わず涙が耐えられなくなって、舞台を下りると、舞台袖で泣き崩れた。この時は、後に鉄の女と思われていた淡谷さんも泣き崩れてしまったのだ。そして、この後に終戦を迎えた。なお特攻兵らが笑顔で出立した話は多い。心配させないため、人に会ったら必ず笑顔を浮かべろと教えられていたのだ。人影が絶えると打ってかわって沈痛な表情になってという報告もあった。(年端もいかない子たちに「晴れ晴れといけます」などと言われた、その声が耳から離れない、私の歌に背中を押されて死んでいったかもしれないと続け、茨田りつ子(淡谷のり子)こう言った。「悔しかったわ。だって歌は人を生かすために歌うものでしょ。戦争なんて、くそくらえよ」。福来スズ子はこう返した。「ほんなら、これからはワテらの歌で生かせな。今がどん底やったら、あとはよーなるだけですもんね。歌えば歌うだけ、みんな元気になるはずや」。鏡を見ていた茨田が振り返り、スズ子を見つめた。スズ子は茨田とは違う強さがある。)淡谷のり子さんは、「あんな悲しい想いをしたことはありません」と歌う前にはいつも言っていました。茨田りつ子のモデルである淡谷のり子さんが、「一度だけ観客の前で号泣して歌えなくなったのが、特攻隊の少年兵たちの前で歌った時だった」と後に語っている。また、第66話で描かれたシーンは、淡谷さんの実体験だった。りつ子(淡谷さん)は「歌はお客様に現実を忘れさせてくれるもの、生きる力を与えるもの」と信じていたが、この特攻隊の若き隊員たちは、みな「死地への旅立ちの歌」になったと言って退場した。若き特攻隊員が退場した時が隊員達の最期で、淡谷さんにとって辛い別れの時だったのだ。淡谷さんを演じた菊地凛子にとってもこのシーンが忘れられないものになったと強調している。

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※「海軍基地」は主として、軍艦など海軍の保有する海上兵器を非戦闘時や修理の際に留め置くための施設である。艦船を停泊させる港や桟橋の他にも、乾ドックなどの修理を行う施設や格納庫、艦隊司令部などが備わっている。さらには兵士の病院や新たな船舶を建造する造船所などが隣接する基地もある。「鹿児島県の海軍基地」は、他の日本の海軍基地よりも南の沖縄に1番近いので、連日,特攻機が南の空へと飛び立っていった。特攻隊員の多くは学徒出身の少・中尉や予科練出身の少年兵であった。鹿屋市(かのやし)には、太平洋戦争時に3つの飛行場が存在し、日本で最も多くの特攻隊が出撃した歴史がある。鹿屋海軍航空基地からは908名、串良(くしら)海軍航空基地からは363名の特攻隊員が出撃し、その尊い命を失った。現在、鹿屋に「特攻隊戦没者慰霊塔」、出水には「雲の墓標」,知覧(ちらん)には「特攻平和観音堂」,串良・国分(こくぶ)基地跡には「基地記念碑」が,平和への願いを込めて建てられている。ちなみに、大型爆弾と操縦席だけの特攻兵器『桜花(おうか)』に乗り込む予定だった元隊員の回想によると「『桜花』は陸上攻撃機につるされ、敵艦近くで分離されて滑空して体当たりするという。ほとんどが途中で散っていった。出撃拠点の鹿児島県の鹿屋基地に笑顔で向かう仲間を毎日見送った。」ということだ。

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※「特攻隊(特別攻撃隊)」は戦争末期に日本軍が組織的に行った。「特攻作戦」に大きく影響を与えたとみられる『玉砕(ぎょくすい)』は、昭和18年5月、アリューシャン列島のアッシ島で起きた。「全員『玉砕』せるものと認む」と、発表文にその言葉が登場する。「傷病兵は自決、残る兵全員が全力で攻撃」とある。『全員戦死』という言葉を使ったのでは「作戦参謀の責任」が問われかねないので、体裁(ていさい)のいい『玉砕』をひねり出したのだ。(転進、玉砕もだが、特攻も何だか格好良く扱われているようなのが気になる。)昭和19年(1944年)6月、日本軍はマリアナ沖海戦で400機 に及ぶ航空機とその搭乗員を失う。これ以前から、兵力の減少と搭乗員の技量低下の中で大きな戦果をあげるには、体当たり攻撃をするほかはないという声が、軍部の中で上がり始めていた。そして、昭和19年10月 、陸海軍ともにフィリピンの戦いで、爆弾を抱えた航空機で空母などを標的に突入する『特攻』を始めた。『特攻』は爆弾を積んだ飛行機やボートで敵の船に体当たりする攻撃で生還は望めず、パイロットは必ず死ぬことになった。パイロットの平均年齢は21.6才、一番若い人は17才(?)だった。第二次世界大戦中に行われたこの作戦によって、陸軍・海軍合わせて約4,000人が命を落とした。『知覧特攻平和会館』パンフレットより(鹿児島県南九州市)「戦争が始まった時、知覧にできた陸軍飛行学校の訓練飛行場は、1945年3月に『特攻基地』に変わりました。知覧の特攻基地からは439人が出撃して亡くなりました。そのようなことから、『知覧特攻平和会館』では、戦争を二度と繰り返してはならないことを伝えるため、特攻隊員の写真や手紙などを集めて、大切に展示・保管しています。(館内には、特攻隊員が書いたお母さんあての手紙がたくさん展示してあります。)」『戦歿(せんぼつ)学生の遺書にみる15年戦争』(わだつみ会編)(光文社カッパ・ブックス)『きけわただつみのこえ』(わたつみ(わだつみ)は海神を意味する日本の古語)1947年(昭和22年)に「東京大学協同組合出版部」により編集されて出版された東京大学戦没学徒兵の手記集『はるかなる山河に』に続いて、1949年(昭和24年)10月20日に出版された。 新聞やラジオ放送を通じて募集したもので、全国の大学、高等専門学校出身の戦没学生75人の遺稿が収められた。BC級戦犯として死刑に処された学徒兵の遺書も掲載されている。編集顧問の主任は医師、そして戦没学徒の遺族である中村克郎をはじめ、あとの編集委員として渡辺一夫・真下信一・小田切秀雄・桜井恒次が関わった。1963年(昭和38年)に続編として『戦没学生の遺書にみる15年戦争』が「光文社」から出版され、1966年(昭和41年)に『第2集 きけ わだつみのこえ』に改題された。『きけ わだつみのこえ』の刊行をきっかけとして1950年(昭和25年)4月22日に「日本戦没学生記念会(わだつみ会)」が結成された。類似した題名の映画が何本か製作されている。また、この刊行収入を基金にして、「戦没学生記念像わだつみ像」が製作され、京都市北区の「立命館大学国際平和ミュージアム」で展示されている。

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※『別れのブルース』

日中戦争のきっかけとなった盧溝橋事件が勃発するひと月ほど前の昭和12年6月、淡谷の代表曲となる『別れのブルース』が発売される。『別れのブルース』の歌詞は、服部良一が短調で抒情的な曲を創作したのちに、詩人・藤浦洸に当時の五円札を渡し、「本牧の夜をブルースの歌にしてほしい」と依頼したもので、夜を共にした(かもしれない)女性が、「窓を開ければ港が見えるのよ」と口にした言葉を曲の冒頭に取り入れたものだった。当初は、『本牧ブルース』という題名だったが、歌詞に登場する「メリケン波止場」が神戸にも存在することから『別れのブルース』に変更される。短調で切々と歌われるこの曲は、特に満州や上海などの大陸に駐屯している軍人・兵隊たちに人気があった。戦意高揚のための勇ましい歌よりも、「今日の出船はどこへ行く」といった「別れ」を表わす歌詞などに望郷への念を募らせていたのだろう。淡谷さんの静かな歌声が、前線にいる兵士たちの心にずしりと響いたことは間違いない。そして、いつしか『別れのブルース』は「死地への旅立ちの歌」になっていったのだろう。しかし、それから数年後、戦局の悪化により『別れのブルース』は発売禁止となる。

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テレビ朝日ー2005年8月15日「戦後60年、終戦記念日特集番組」(「徹子の部屋」より)

ブルースの女王といわれた歌手・淡谷のり子さんが、「別れのブルース」と特攻隊の若者たちについてテレビで黒柳徹子さんとしみじみ話していました。

ーー「別れのブルース」がすごくヒットし始めて、日本の国内よりも・・・

淡谷 あのね、国内ではあんまり売れなかったのよ。それがその年(昭和13年)の暮れころからどんどん売れてきたんですよ。それも満州の兵隊さんからなの。それが、大阪から東京へと(広まって)いって、トップをきっていったけれども、次の年の昭和14年に発売禁止になった。絶対に歌ってはいけないと・・・

ーーそう、その後の「雨のブルース」もそうなったでしょう。どうして、また禁止に・・・    

淡谷 センチメンタルだからだって、国民を鼓舞するような歌でなくてはダメだって。

ーー歌っちゃいけない歌を兵隊さんは歌ったんですってね。 

淡谷 あのころよく兵隊さんの慰問に外地に行って歌ったの。たしか、あれは上海だったかしら、東京の部隊だったのね、都会的な歌をたくさんリクエストされたあと、「もう一つどうしても歌ってくれ」と言われたの。 ーーそれは?  

淡谷 それが「別れのブルース」だったのよ。(問題の歌だったので、少しためらったけれど)明日(あした)がわからない兵隊さんでしょ、だからわたし歌ったのよ。そのとき歌い始めて、ひょっとみたら、憲兵さんと将校さんがホールから出ていったのよ。出ていってくれたの。そして、ひとつへだてた中庭の向こう側からこちらをのぞき見るように聞きながら、泣いているじゃないの、そういうことがあったの。だから私ね、最前線では軍歌など歌っても喜ばれないから、思い出のある歌をうたってさしあげたの。 

ーー私も聞いたことあるわ、そのころは、上官がそんな歌を許したら、上からこっぴどく叱られ、始末書をとられたんですってね。 

淡谷 それに私、モンペなんかはかなかった。(ドレスで決めていた)それとね、おかしかったのは楽器の名前のつけかた。横文字はいけないといって、ピアノは「洋琴」、バイオリンは「提琴」ですよ。ドラムは「太鼓」でいいけれど、サキソホンのことをなんっていったと思う?  

ーーあら、なんと? 

淡谷 「金属製先曲がり音響音出し器」って。そんなふうに「言えるものかっ」と思ったから言ってやったの、「おい、そこの尺八っ」て。(笑い)その笑顔が今でも忘れられないの 

淡谷 特攻隊の慰問にいったときのこと。いっぱい兵隊さんがいるんですよ。ちょっと横を向いたら2~30人もいたでしょうか、白鉢巻をした、なにか子どもみたいな兵隊さんがいるんですよ。まだ15~16歳ぐらいの。だから私、係りの人に聞いたんです。 

ーー15歳ぐらいの少年兵ね。 

淡谷 そしたら「はぁ、特攻隊員で平均年齢16歳です。命令がくれば飛びますよ」って。私、それを聞いただけで胸がモヤモヤしてきたんです。敵艦に突っ込むから帰ってこられないんです。「もし歌っている最中に命令が下されたら行かなければなりませんからごめんなさいね。悪く思わないでください」、命令がこなけりゃいいなあと思っていたら、やっぱりきたの。命令が・・・。さっと立ち上がって、私の方を向いてみんなニコニコ笑いながら、こうやって(敬礼の格好)行くんです。 もう、泣けてなけて、次の歌はもう(声が)でなくなりましたよ、悲しくて。16歳よ、平均年齢が、そして、飛んでいきましたよね。コーヒーで乾杯して。私、その笑顔が(今でも)忘れられないんですよ。一人ひとりの笑顔が。あんな悲しい想いをしたことはありません。 

ーーほんとにつらい話ですね。特攻隊の人たちは飛び立つこと(離陸の仕方)は知っていても(飛行時間は数十時間)着陸する方法は習っていなかったといいます。戦後60年、戦争をご存知の方は知っていると思いますが、できることなら若い方にも(この番組)見ていただいて、ほんとうに戦争というものは悲しくてつらいものだということを知っていただきたいと思います。