人間が合理的であるという誤解

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 筆者は国際政治経済、及び歴史に関して非常に強い興味関心をもっている。その中でもマクロ経済学は非常に論理的で面白い。しかしながら、経済学という括りで見ると、これまでの様々な経済学者がいかに無茶なことを、つまりは現実とはそぐわない空論をいっていたかということをまざまざと見ることができる。

 

 ある有名な古典経済学では、人間とは最適な効果を求めて合理的に行動すると定義する。この前提をもとに論理を進めていくので、出来上がった理論は実態とはなんの関係もない単なるその学者にとっての空想となる。ところが、今でも様々な経済学者が、実態が彼らの理論通りに動かないことをもって、現実が間違っていて彼らの理論が正しいのだと平気で言ってのける。もはやこんなのはアカデミックな世界でもなんでもない。その辺の酔っ払いのたわ言と寸分も違わないが、恐ろしいことに学者の妄言は特に指摘されることもなく、妄言をはく学者たちは大学教授として世間から敬意を持って見られた上、仕事も保証されているのである。マコトに理不尽な話である。

 

 ここからが本題であるが、そもそも人間が合理的なわけがないのは、人間の行動が主観的な感情により支配されていることからも明らかである。喜びや怒りという感情は、完全に主観的なもので、それを感じている本人ですら、なぜ怒ったり喜んだりしているのかの具体的な理由はわからないものである。

 

 「好きなお寿司を食べているから喜んでいる」というのは理由にはならない。なぜなら、なぜその人がお寿司が好きなのかは、本人を含めて誰にも説明ができないからである。Aさんに嫌いな人(Bさん)がいたとして、嫌いなBさんの話し方がいやだからというとして、ではなぜ他の人はその人の話し方が気にならないのにAさんだけがBさんの話し方を嫌うのか、合理的に説明できる人など、本人を含め世界中のどこにもいないのである。

 

 最終的に、好きだから好き、嫌いだから嫌いという、マコトに不合理な理由しか残らない。そしてその不合理な理由によって動く感情こそが、人間の行動を常に決定しているのである。

 

 もちろん、「嫌だけど仕事を続けている、だからそこにはお金を求めて働くという理性が働いている」という人もいる。しかしこれもまたよく見ると、「嫌いなのにお金のために仕事をするという不合理な行動」ということもできるのである。そしてお金のために働くことは別に合理的だからではなく、現実をどう捉えるかの主観的な価値判断に基づく完全に主観的なる不合理な決定なのである。筆者からすれば、嫌いな仕事を辞めずに続けるなど、不合理な行動以外の何ものでもないのである。

 

 あえていうなら、合理的に考えるならば、その人を不愉快にする仕事を辞めて快適に生きることの方が、よほど合理的であると言える。もちろん、愉快不愉快は結局は感情なので、これもまた不合理なのであるが。

 

 これまでのブログで、政治は主観であるという話をなんどもしてきたが、これはまさに政治決定は全て感情的なものに過ぎないということである。ただ、その感情をどこにもっていくかということだけが問題となる。経済政策であれば、国民生活を向上させることにもっていくのか、それとも国民経済を破壊することに目的をおくのか。

 

 高橋洋一氏、上念司氏などは明確に国民経済の向上を目的としているし、財務省の東大エリートなどは、自己の出世とそれにつながる省益を第一の目的として行動し、その為に国民経済が破滅することを厭わない。

 

 どちらがいいかはその人それぞれの立場や主観的嗜好によって変わる。かつての陸海軍のエリート官僚軍人(全員ではない!!)の多くが己の立身出世を第一に考えて行動し、その結果日本は戦争に敗北した。筆者は、主観的に、そうした轍を踏んで、日本が滅んで欲しくないと思うからこそ、消費増税に心から反対しているのである。

 

 人間は不合理なものだからこそ、それをしっかりと認識した上で客観的に事象を捉える必要があるということを話したくて今日のブログを書いた。

 

 読者の方々はどう感じられたか。

 

 今回もお読みいただき、ありがとうございます。

 

 初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。

 

 主観と客観

 客観についての補足

 外国人には思い遣りがガチでないという事実

 優しさ(主観的)と思いやり(客観的)

 二種類の「正しさ」

 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識

 


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