ふと、体に揺れを感じ、機体が着陸態勢に入ったことを知る。それでも久しぶりの休息にすっかり安らいでしまった脳は、未だ過去を追いかけたがる。
 
 
(もう少し…)
 
機体が滑走路に降りるまで、いや、完全に停止してシートベルト解除のアナウンスが流れるまで…。
 
翔は覚醒しかけていた意識を再び手放した。
 
 
 

 

 

伊豆の海から8ヶ月後、翔の予測通り多忙な日々が始まっていた。大学とビジネススクール、週末には櫻井文具の店舗でのアルバイトと、息をつく間もないほど。

一人暮らしのマンションには、ただ睡眠の為に帰るだけ。だが、翔はそんなハードなスケジュールをこなしている自分が誇らしく、毎日が充実していた。

 

そんなある日、智から一月ぶりにメールが届いた。横断歩道の真ん中で着信に気付き、急いで渡り切りメールを開く。

 

 

『今度、時間作って。紹介したい人がいるから』

 

最初の一文で、一瞬、女性なのかと思いドキリとしたが、続きで例の龍ちゃんだとわかりほっと胸を撫で下ろした。

 

 

智とは、多忙な中でも月に1、2度ほどのペースで会っていた。だが、この1ヶ月、智は伊豆のコテージに入り浸りで、全く顔を合わしていなかったのだ。創作の邪魔になってはと思い連絡も取らずにいたのだが、会えるとなると頭の中が一気に智でいっぱいになる。勉強と経営と数字以外のことが翔の頭を占拠したのは、久しぶりの事だった。

 

 

 

 

 

約束の日、翔は浅草にいた。大勢の観光客で賑わう仲見世通りから、一本脇に逸れた細い路地、一軒の居酒屋の前に立ち携帯の地図アプリと店の名前を再度照らし合わせる。

 

(間違いない。ここだ) 

 

古い飲み屋だと智が言っていたが、ここまでとは思わなかった。

いい具合に飴色に染まった庇と開き戸。掛けられた暖簾は古色蒼然としており、真ん中に『〇』の中に『葉』と染め抜かれている。元は文字通り鮮やかな緑色であったのであろうその意匠は、薄めた抹茶のようなくすんだ色をしていた。

 

 

「いらっしゃーい」

 

 

暖簾をくぐると、予想外の若くて明るい声が出迎えてくれた。

 

「お好きなとこ、どーぞー」

「あの、待ち合わせで...」

 

智の姿を探す。

 

「翔、ここ、ここ!」

 

クラシカルな丸いスツールが並ぶカウンター席の、一番奥から智が手を振っている。

 

 

智の2つ手前のスツールに、一昔前の興行師のような派手目な蝶ネクタイを付けた初老の男が、背筋をピン伸ばして座っていた。ビールのグラスを手にバーテンダーとにこやかに話している。そのせいで、猫背でちんまりと座っていた智の姿が、翔からは全く見えていなかったのだ。

 
「居たんだ」
「うん、もう先、飲んでる」

 

すでにほんのり朱い顔でふんわり笑う智に、翔も笑顔で足を踏み出す。

 
「テーブルに移るね」
 
智はバーテンダーに声を掛けて、グラスを手に椅子から降りた。

 

「オッケー、あ、初めまして。オレ、相葉っていいます」
 
弾けるような笑顔でカウンター越し、パッと手を差し出されて、翔は慌てて腿で拭った手で受け止めた。
 
「あ、ど、どうも。櫻井です」
 
モデルかタレントかと見紛うような、華のある男だ。
 
「そっかー、あなたが翔さんかー。大ちゃんの自慢の友達の」
「え?は、はい」
「思った通りの人だぁ。爽やかでイケメンで頭良さそー。よろしくお願いしまぁす!」
 
クシャクシャの笑顔で、握手の手をブンブンと大きく上下に振られ、その余波で肩が千切れそうになる。
 
「でしょ? 翔、あっち行こ」
「お、おお」
「ごゆっくりー」
 
痛めた肩を擦りながら、テーブルを挟んで智の正面に座る。

そう広くもない店内には、まだ夕方の4時だというのに近くのテーブルで3人の職人風の若い男たちが焼酎を飲んでいた。中ほどの窓際の席では、買い物帰りの主婦が4人、井戸端会議の真っ最中らしい。

店の一番奥、天井から下げられた喫煙席のプレートの下には、洒落た着流し風の和服を着た黒縁メガネの中年の男が1人、その雰囲気に全くそぐわない最新式のノートパソコンを前に難しい顔で腕を組んで座っている。

 

種々雑多の人間がそれぞれの過ごし方をしている。そんないかにも浅草らしい店だった。

 

「すごいな、ここ、昭和の匂いが充満してる」

「龍ちゃんに教えてもらってさ、おれも気に入って、たまに来るんだ。何飲む?」

 

智の大きめのグラスには、ビールより淡い色の液体が半分ほど入っている。

 

「それ、何?」

「ホッピー。飲んだこと無いでしょ」

「…聞いた事はあるけど。この店、何でもあるんだな」

 

井戸端会議はまだ続いている。テーブルの上のコーヒーもケーキもとっくに空になっているようだが。

 

「ここのホッピー、昔ながらの正統派の材料を使ってるんだって。焼酎の銘柄も決まってて、入れ方も戦後そのままなんだって龍ちゃんが言ってた。飲んでみてよ」

 
智がカウンターの相葉にオーダーを通す。
 
「まいどー」
 
元気な声が返ってくる。
 
 
古びたカウンターに、モデル並みの容姿のバーテンダー。それが妙に調和していて、すっかり馴染んでしまっているのが面白い。やはり、なんでもアリだ。
 

「龍ちゃんとやらは、まだ、来てないの?」

 

智が口にしたその名を忘れたことはない。謎の人物に8ヶ月越し、やっと会えるのだ。

ソワソワと落ち着かないのはしょうがない。

 

「はい、お待たせー」

 
相葉が酒の入ったグラスを持ってきた。
 
「つまみ、適当に持ってきて。あ、モツ煮は絶対ね」
「龍ちゃん、好きだもんね

 

どうやら相葉も彼の友人らしい。

 

「少し遅くなるって連絡があったんだ。打ち合わせが延びたって。久しぶり、はい、乾杯」

 

グラスを合わせ、智がおいしそうにグラスを傾ける。翔も恐る恐るグラスに口をつけた。

 

「うまい?」

「う…ん、よくわからない。不味くはないけど」

「じゃ、うまいんじゃん、翔の舌は肥えてるから、その評価で十分だ」

 

へへっと笑って柿の種をポリポリとかじる。翔は意外とのど越しの良い淡い金色の液体を流し込みながら、改めて店内を見回した。

 

 

 

椅子やテーブル、照明や壁紙、全てに時代を感じる。だが掃除は行き届き、傷のあるテーブルやレトロなグラスも綺麗に磨かれていて、廃れた印象などは全くない。そう言えば、外の暖簾も色褪せてはいたが、目立つシミや手垢などは見当たらず、大きなシワも無かった。

 

「相葉ちゃんのじいちゃんが始めた店なんだ。もう結構な齢なんだけど、今でも毎日顔を出して掃除とかしてるんだ」

 

翔の視線を追って、智もぐるりと店内を見渡す。

 

 

「いいよね、こういうとこ。落ち着くな。ヘンに気取って無くて何でも受け入れてくれそうでさ。龍ちゃんは若いころ、ここでバイトして、食いつないでたんだって」

「だから、その龍ちゃんて…」

「あ、来た」

 

やっと来たかと翔は後ろを振り向いた、と、同時に立ち上がる。

 

「えっ? え? 龍ちゃん?」

 

暖簾をくぐって表れた顔は、写真や映像で見覚えのある顔だった。

 

「龍ちゃん、こっち、こっち」

 

智がひらひらと手招きをしているその相手は、日本を代表する芸術家『澤木龍公(さわきりゅうこう)』だった。

澤木は智に気づくと、相好を崩して近づいてきた。

 

「おう、大ちゃん、ごめんよ。芸術祭の打ち合わせが長引いてさ」

 

ニコニコと智の隣に座る。

 

「今度、何とか勲章ってのを僕にくれるんだって。その授与式のリハーサルが追加されちゃってさ、でも、約束があるからって、何とか抜けてきたよ」

「龍ちゃん、久しぶり。じいちゃんがそろそろ将棋やりたいって言ってたよ。時間あるとき電話してよ」

 

ホッピーのグラスとモツ煮をテーブルに置いて、相葉が澤木の肩をポンポンと叩く。

 

「そうか、じゃあ近いうちに一局お手合わせ願おうかな」

「うん、じいちゃんに言っとくね。そんじゃ、ごゆっくりー」

 

「………」

 

翔は、目の前の人物の存在をまだ受け入れる事が出来なかった。

 

「ふふっ、どうしたの? 翔、龍ちゃんに会いたがってたじゃん」

 

智が笑いながら突っ立ったままの翔を見上げる。明らかに面白がっている。

 

「いつも名前は聞いてるよ。若いのに中々のやり手らしいな。今度、僕にも君んとこの画材を使わせてくれないかな。仲間うちで評判だよ。いい仕事してるって」

 

隣で澤木はグラスを手に、柔和な笑顔を見せている。

 

「乾杯しよう、櫻井翔くん。やっと会えたね」

 

確かに『澤木龍公』だ。間違いない。

 

「っせ、せんせい。さ、澤木先生ですよね? あの、画家の!」

 

ようやく声を絞り出す。

 

「だめだよ、翔、先生って呼んじゃ。龍ちゃんって呼んで」

 

智にシャツの裾を引っ張られて、ようやく椅子に座る。

 

「ちゃんなんて、智、何言ってんだよ。この方は、日本の現代画で五本の指に入る…」

「だ・か・ら、それはそれ、龍ちゃんは龍ちゃんなの。ねぇ」

「はは、そうだ、そうだ。それはそれ。僕のことはどう呼んでもいいけど、先生だけはやめてくれ」

「はい、もっかい乾杯」

 

改めて三人でグラスを合わす。

 

「うまいだろ。ここのホッピーは、戦後の名残を残しつつ…」

 

グラスを傾けつつ、澤木龍公は蘊蓄を語り始めたが、翔はホッピーどころではなかった。仕事柄、芸術家と呼ばれる人物は殆ど頭に入っている。高校時代にも、相当な知識を詰め込んだ。

 

目の前の男が日本芸術院会副会長で、近い将来、人間国宝に選ばれる事は間違いないと言われている人物であるということを、智も画家を志す者として知らない筈はない。確か、芸大でも客員教授として教壇に立ったことがあるとプロフィールに記載されていた。

 

「…智、お前さ、せっ、先生とインドに行ったのか?」

 

ハッと思い出し、恐る恐る尋ねてみる。

 

「うん、そう。あん時は楽しかったよね」

「ん? ああ、傑作だったな。象に乗った日の夜、尻がやたら痛くて宿で見せっこしたら、二人とも皮が剥けてて...」

「あはは、そうそう、風呂に入ったら沁みて痛くて、パンツまで汚れちゃってんの。何か落ち込んだ」

 

いやでもそのシーンを想像してしまう。

 

「んで、タージマハールで記念写真撮るとき、肩組んでたら、なぜか男同志のカップルに間違われちゃって、龍ちゃん、アホみたいな顔してさ」

「はは、だって普通親子だろ、何でそうなるんだよ。その上、現地の怪しいガイドが寄ってきて…」

 

翔は自分が青ざめているのが分かった。

 

(いったいこの二人は、何をしゃべっているんだ?)

 

呆気にとられている翔の目に、奥の着物姿の男がパソコンを手に立ち上がるのが見えた。

 

「龍さん、楽しそうだな」

 

澤木に声を掛ける。

 

「え、ああ、淳さん、いたのか」

「ああ、もう帰るわ。いくら待ってもネタは降りて来ん」

 

男は、またな。と出口に向かって行った。

 

「淳さん、バイバイ。仕事一段落したら、また飲もうね」

 

智の声に、男が後ろ手に右手を上げた。

 

「お知り合いですか?」

 

澤木に尋ねる。

 

「ああ、作家の『木下淳三郎さん』だよ」

 

「………」

 

翔は再び言葉を失って固まってしまった。

 

「でさ、カレーばっか出てきて、さすがに飽きてな…」

「ははは…、そうそう!」

 

「まいどー。淳さんもじいちゃんに会いにきてよね

「はは、分かった、分かった」

 

長年一緒にいても、智という男はやはり、翔には掴みきれない。人間国宝候補の肩を叩いてバカな話で盛り上がり、芥川賞受賞作家にバイバイと手を振る。自分のように理屈で動くタイプの人間には決してマネが出来ない。

 

一しきり笑ったあと、

 

「ごめん、翔。ちゃんと紹介するね」

 

笑いすぎて滲んだ涙をゴシゴシ拭いながら智が言ったが、

 

「いや、多分、智より知ってると思う…」

 

翔はボソリと呟いてグラスの酒を呷った。

 

 

 

結局、その夜は初めてのホッピーに酔うことも出来ず、ただ、楽しげな二人を見ているだけだった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
続く。
 
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