不意に目が覚めた。

今、どの辺りを飛行しているのだろう。薄く開いた目に、シェード越しの光は結構強く、まだ機体がかなりの上空にいることを物語っている。翔は敢えて時計を見ずに再び目を閉じた。この異空間で、もう少しだけ思い出に浸っていたかったのだ。

 

 
 

瞼の裏に青が広がる。澄み渡り突き抜けるような強い夏空の青。

 

 

(これは…、あの日の空だ…)

 

 

自分が、何の束縛も憂いもなく自由に過ごせた最後の夏。

11年前、まるで、あの日の空に浮かんでいたカモメのように自由だった21歳の翔と智。

 

 

 
 

大学3年の夏、二人は伊豆の海の砂浜に並んで寝そべっていた。この上ないほどの穏やかな時間が二人の上を通り過ぎる。夏と海を謳歌している周りの人々の嬌声さえも、BGMとなり波音と重なって耳に心地よく響く。

 

隣でのんびりと智が呟いた。

 

「空が青いな」

「ほんとだな。鮮やか過ぎて日本じゃないみたいだ」

「うん、…インドの空と同じ色だ」

 

「…え?」

 

顔を横に向けると、智が眩しそうに目を細めて両手を空に伸ばし、親指と人差し指で青空を四角く切り取っていた。

 

「すげぇ! 今、カモメがこの中を横切った。いい構図だな…」

 

カモメを追っていた指のフレームが横に降りてきて、翔の顔を捉えた。

 

「ふふ、何、その行ってきたみたいな言葉」

 

翔が笑えば、智もにんまり笑ってフレームを解く

 

「へへっ、実は、行ったんだ」

「は? え? ウソ?」

 

思わず、体を起こす。

 

「ホント。さっき、お土産あげたじゃん」

「え?さっきのあれ?」

 

数時間前、崖の上のコテージに到着した時に、独特な象のイラストがプリントされた赤いTシャツを智から渡された。くれるというから普通に受け取ったが。

 

「もしかして、あの象、智が描いたの?」

「そう、土産物屋でオリジナルのTシャツを作れる店があってさ、その場で描いて絵を転写してくれるの。おれとペア」

 

そう言って頭の下に敷いていた、ブルーのTシャツを胸の上に広げて見せた。翔のものと同じ象がいて、その下に小さく《satoshi》のサインがある。

背中には有名なインドの建造物のイラストがあって、ネックの大き目のタグには、『made in India』の文字。どうやら、本当のようだ。

 

 

 

「いつ? そんな事、一言も言わなかったよね?」

 

智も体を起こした。この半日で黒くなった肩甲骨の砂を、背中に回した手でパラパラと払う。

 

「だって、翔、夏期合宿で軽井沢、行ってたじゃん、あ、イテっ!」

 

焼けた皮膚が痛むのか、顔をしかめている。

 

そんな、片手間に話す程度のことなのか?

 

え? それって先週のこと?」

「うん、20日から25日まで」

「誰と? 家族…じゃないよな。もしかして、一人?」

 

下町に住む賑やかなあの家族が、旅行先にインドを選ぶとは思えない。

かといって、智と二人で海外旅行をするような友人も思い当たらない。

 

「ううん、龍ちゃんと」

「リュウちゃん? 誰、それ」

 

聞いたことのない名前だ。

 

「最近出来た友達」

「...........!」

 

いたずらっぽい顔でふふっと笑う。焼けた顔に白い歯が眩しい。

こんな状況なのに、つい見つめてしまう。

 

「少し前に、誘われててさ、まさか、本当に行くとは思わなかったんだけど、おれも前から、行きたいって思ってたし、旅費も出してくれるっていうから...、あ!また来た」

 

再び現れたカモメを目で追う。

 

「あいつら、自由だなぁ…」

 

空を見上げている横顔を見ながら、翔は開いた口が塞がらなかった。知り合ったばかりの人間と、お世辞にも治安が安定しているとは言い切れない国に二人きりで行ったというのか。それも、相手の金で。

 

(…智、君はあのカモメ以上に自由だよ…)

 

「さぁて、もうひと泳ぎしようかな」

 

智はパッと立ち上がった。

 

「道理で先週電話しても、出なかったんだな」

「うん、充電切れちゃって、そのまま放っといた」

「あっ、待って、誰なんだよ、その人。すごい金持ちみたいだけど?」
 
走り出そうとする背中に、一番の疑問をぶつける。

 

「そのうち紹介するよ。きっと翔も知ってる人だよ」

 

そんなことを言われても、誰の顔も浮かばない。

 

「ちょっと、詳しく聞かせてよ。全然わかんないよ」

「あとあと。 せっかく海に来たんだから」

 

翔は答えをもらえなないまま、軽やかに走り出した智のあとを慌てて追った。

 

頭上では、2羽のカモメが気流にその羽を委ね、青い空のキャンバスに大きくゆるりと2本の弧を描いていた。

 

 

 

 

 

 

夕暮れ、崖上のコテージのテラスで暮れゆく海を見ながら、缶ビールで乾杯をした。インドで買ったという香炉から漂う伽羅の香りが、まるで異国の夕暮れの中にトリップしたような錯覚を起こさせる。

 

ふわりと浮かぶ薄紫の煙のように、ゆったりと時が流れる。

 

「こんなにのんびりと夏を過ごせるのは、今年が最後かもな」

 

柿の種をポリポリ齧りながら翔が言う。

 

「え? 何で?」

「だってさ、大学の方も忙しくなるし、夜通ってるビジネスクールだって、資格取得のための模擬試験がガンガン始まるし」

「ふーん、そっか」

 

智は枝豆を抓みながらのんびりとチェアに凭れている。

 

 

「自分だってそうだろ? 芸大だってかなりのカリキュラムが詰まってるって聞いてるけど」

 
何を人ゴトみたいにと、笑ってビールを呷れば、

 

「…辞めた」

 

智がぼそりと呟いて、豆を宙に放った。

 

「ぶっ!」

 

翔は驚いて、口に含んでいたビールを勢いよく吹いてしまった。

 

「うわ、きったないな!」

 

被害を避けるために素早く立ちあがった智の足元に、コロリと豆が転がる。

 

「はっ、はぁ??」

「あーあ、もったいない」

「ごほ…、何? 辞めたって言った? 今」

「うん。…さすがに食えないな、これは」

 

智は屈み込んで拾った豆を空いた皿に落として、新しいものを手に取った。

 

「マジでぇ?? いつぅ??」

 

手の甲で口を拭いながら発した声は、あまりの衝撃に裏返っていた。優雅な伽羅の香りなど、すっかりどこかに消し飛んでしまった。

 

...今日は驚くことばかりだ。

 

「インドから帰ってすぐ」

「どうして? 画家は芸大行ってるかそうでないかで、大分、評価が変わってくるんだぞ?」

「評価? 何の?」

 

あっけらかんとした智の態度に、翔は大きくため息をついた。確かに智は高3の頃、卒業後はあてのない放浪の旅に出たいと言っていた。それを引きとめ、芸大受験を勧めたのは翔だ。もちろん智の為を思っての事であったが、将来、自分がプロデュースしようとする相手を、少しでも有利な状況にしておきたいという思惑があったことは否めない。

 

「何故? せっかく入ったのに…。かなりの倍率だったじゃない、あの年」

 

智は黙って頬杖をついて海を見つめている。波の音だけが遠くに聞こえる。

 

「うーん、もう、いいかなって思った」

 

かなりの間を置いて、ようやく返ってきた言葉はそれだけだった。

 

「何がいいの?」

「いいじゃん。もう済んだ事だし」

 

じれったい思いで問い詰めれば、瞳がスッと動き、強い視線を翔に投げてくる。もう、何も言うなということらしい。

 

「…なら、聞かないけどさ」

 

気圧されて思わず目を逸らす。俯いた耳に、ふふっと笑う声が聞こえた。

 

「大丈夫。おれは、やるから」

 

視線を上げると、いつもの柔らかい笑顔が戻っていた。

 

「おれね、何か、色々吹っ切れた。大学に行っててちょっと迷ってたとこあったんだ。でも、自分はこれでいいって。何かね、今、すっごく描きたい気分」

 

再び智の表情が変わった。瞳の奥に今度は貪欲な光が灯る。その深い濃紺は翔に沸き立つような鼓動と何とも言えない焦りのような不思議な感覚を同時に与える。

 

智の何が、こんなにも自分の心を掴むのだろう。

 

長い付き合いではあるが、翔は智のことが未だによく分からない。

 

どちらかというと小柄で線も細く、日焼けした肌も夏が過ぎればあっという間に白くなる。つぶらな瞳と淡い色の唇。そんな中性的な外見に加えて、声も表情も柔らかくて感情の起伏などまるでないようにも見える。それなのに、時折さっきのようにぞくりとするほど強い目をして他者を寄せ付けない一瞬がある。

 

嵌ってしまえば、何日も眠らずに絵を描き続け、食事もろくに摂ろうとしない。その凄まじいまでの集中力に持ちこたえるだけの体力が、あの華奢な体のどこにあるのだろうか。

 

また、今回のインド行きのように、決めたら後先考える事無く、即、行動する。

何事も熟考し理詰めでなければ踏み出せない翔からすると、とても考えられないことだ。

 

穏やかな外見からは想像も出来ない何かがその内に潜んでいる。そのギャップに翔はいつも驚かされるのだ。

 
「ビール、持ってこよ。翔も飲むだろ?」
 
いつもの調子で、身軽い動作でリビングに入っていく。

その背中を見送って翔はふうっと息を吐いた。そして一つの結論に達した。

 

何が、などと考えなくてもいい。

せめて一つくらいは自分にもそんな理屈じゃない部分があっても良いのではないかと。

 

それならばと、素早く頭を回転させる。

一つの考えが閃く。

 

「じゃぁさ、ここに残って描けばいいよ。今年はもう誰も使わないし静かだし、必要なもの全部運びこんだって、十分なスペースがあるだろ?」

 

戻った智に提案する。

 

そう、これはチャンスだ。今の智の溢れ出す意欲を削いではならない。きっと、素晴らしい結果を生み出すはずだ。自分の目に狂いはない。それは確実に先のビジネスに繋がる。

 

あ.......

 
さっき決めたはずなのに、相変わらず翔の頭は、先を先をと考えている。
そんな自分に気付き、翔は小さく苦い笑いを漏らした。
 
 
 

「マジで? いいの?」

 

 

ビールを手に立ったまま、智の目が見開いた。

 

「勿論さ。大学辞めたんなら、いくらでも時間はあるだろ? 思いきり描けばいいよ」

 

智は輝く目で部屋を振り返った。

 

「嬉しいよ。ここ、いいなっていつも思ってたんだ。いつかは、こんなアトリエを持てたらって」

 

そして、ドンとビールをテーブルに置くと、翔の後ろに回って肩を抱きしめた。

 

「翔、ありがとう。おれ、描くよ。今、頭ん中、色んなモンでパンクしそうなんだ」

 

智の、意志の込もった柔らかくも力強い声が、熱い息と共に翔の全身を包む。

震えるほどの幸福感が翔の背中を走った。

 

(この一瞬だけで俺は満たされる。このひと時があればそれでいい)

 

夕日はすっかり沈み、外灯が2人の姿を窓のガラスに映し出している。この時が止まれと、翔は心から願った。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
続く。
 
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