悪い夢など見なかった 妻の作る塩胡椒のスクランブルエッグ
に珈琲とパンにサラダ 娘たちがわいわいとかしましく
食べ始まる頃に家を出る 日常と云う時間が正確な秒針に
よって快調に刻まれている朝 決まり事のように出社する
それにしてもあの日は一体なんだったのだろう 不思議体験だ
電話で日常を話せるのに夢を見るかのように30年という時を
スリップしたのか いや現在のあの街へワープしたのか
澱のように溜まった想像を知らぬが仏と決めて数日が過ぎて行く
「ふぅ」仕事を終え ふと時計を見ると長針が音をたてたように
5時を指した 若い社員が伸びをして「課長今夜花金は早めに
あがって久しぶりに一杯行きませんか」「おぉそうするか」
学生の煩い高田馬場を避けていつもの新宿へ向かっている
新宿駅に降り立ち人並みを描き分け階段を登り南口を目指す
「18時ちょうど発初特別急行あずさ・・・」《ドクン》アナウスに
動悸が重なる「あいつさ女ん所行くからってばっくれやがった
年上だからさからえねぇんじゃねぇの」 同輩をなじる部下の声
「おっおぉ俺ちょっと用事思い出した 悪いがお前らで飲んでこい」
唖然とする彼らに五千円札を押し付けホームを駆け出した
(確かめなきゃここも逃げたら一生涯心の澱が消えやしない)
9番線ホームにかけ上がり転がるように《あずさ》に飛びのった
定刻通り列車は発車し幾つも込合うホームの蛍光灯を通過し
いつしか夜の海のような暗い空をなんとなくぼんやりと眺めていた
(まさかなやはり夢だよな じゃなきゃ俺はどうしようもない・・・)
『あなたのすべてが欲しい』使い古されたドラマのセリフが浮かぶ
長いトンネルを抜けると広がる町明かりに遠く山々の影が浮かび
歪む事なく見事なほど正確な時間にホームに降り立つ事ができた
改札を抜け都内では想像出来ない閑散とした夜の駅前通りを
県庁前へ《ラグタイム》ブルーに灯る看板 2階には自動ドアがある
俺はひとつ深呼吸をして店に入る 曲は《サッチモ・・・》意外だった
一瞬歪んだかと思った店内はテーブル席に七割の客が談笑して
カウンターは誰もいない「いらっしゃいませ」 懐かしいマスターの声
「なんにいたしましょうか」「アーリーロックで」「あのマスター・・・」
「マスターオーダー」奥の客と声が重なり マスターが離れ変わりに
若いバーテンが厨房を出てきて氷を割りアーリータイムスを注ぐ
「君はバイト?」「いえ此処の息子っす まぁ立場はバイトっすけど」
「へぇマスターの息子さん」 尖った口調と野暮ったい顔つきは・・・
グラスに口をつけ「俺さここで・・・」(バイトしてたんだよ)その時
「これ出して」 「失礼します」彼はトレイを持ちカウンターを出た
何も聞けなくても聞かなくても俺のDNAは彼と同期していた
全てを勝手に呑み込み深いため息を押し殺して思案に暮れた
マスターが戻る「これ良かったら少し作りすぎたので」 揚げパン
「女房のお奨めでね」 (マスター俺です武志ですわかりますか)
声にもならずあげパンをほうばる 「東京からの出張ですか」
涙が左目から落ちた「あれ甘いのダメでしたか」 (もう駄目だ)
(マスターすいませんまた逃げ出します)スツールを降りレジへ
「すいませんね変なもん出しちゃって 800円になります」
千円札を出してお釣りを受けとる「またどうぞ」 そう言って
観光案内の乗ったチラシをくれた「いえ・・・あの・・・どうも」
階段を降りながらその裏側に文字がある事に気がつく
瞬時に涙が溢れ 道端から店に向かい頭を下げて涙を拭いた
新宿行きの列車のリクライニングを倒し目を閉じたまま
ポケットの紙切れを握る そして復唱する 電車は動きだした
『武志久しぶりだな 元気そうでなにより
お前の想像の通りだ 俺達は幸せにやってる
朱美も元気だ でも逢うな それだけは頼む
嬉しかったぞ武志 じゃあな 元気で』
どんな事情かなんてどうでもいいことで ちっぽけな俺は
また世の中に打ちのめされた 心の澱が散り散りに砕け散り
ありがたい暖かさに涙は枯れた いつの間にか泣き疲れて
子供の様に寝てしまう これでもう眠れるのだろう
テーマ:もぅ眠れる


