TOEIC650~800プログラミング言語3種以上,C++,RUBY.Java他、オフィスソフト理解実践、簿記検2級、秘書検、資格取得等を音大・芸大でも取得すべき!保育士も良い。

音楽大学という所は、IT技術パソコンがほぼ無い所ですので、ビジネスソフト常用し、ビジネス産業の研究そのものをする普通大に比べ、情報処理能力に差がついてしまう。音大生は、会社事務・経理、プログラミング経験を目的に、アルバイトをしておく☆のが一番。がっつり実践勉強が可能。音大時代に時給が良い為に演奏をするより、会社業務で、オフィスソフト、プログラミング、MIDI、IT設備インフラが完備され整った就業先で、実践経験を積むことが重要

音大にはビジネス系の授業がなくガーン資本主義社会の基礎・経営理論・ソフトを学ぶ機会がありません。これは非常に大きな問題点だと思い、述べさせていただきます。

積極的に本を買い、読むべし。ラブラブ音大から直ぐ就業希望の場合、医学・法学・経済系・総合職・は、まずむりですので、プログラマー・システムエンジニア・HP製作プロ・一般事務・接客系・販売系になります。

東京芸術大学にも人生の長い目でみたら、絶対にビジネスクラスが必要!!と思います。決定的にビジネス・資本主義の視点が業界に足りていないと思います。

大学であるならば、雇用について真面目に取り組んでほしい。ですしあと☆また業界も資本主義の世の中に付いて行ってほしいです。社会でビジネスにかかわっていく力がつかなければ意味がないと思います。また、他の問題としては音大の家庭は常に大きな格差問題に直面している面があります。就職の必要がない学生などなどが多い風土のために、就職という概念自体がタブー化している面があります。

超富裕家庭からみれば、ビジネスを学べば、より投資できる次世代ビジネスにつながります。

その両面から、音大にもビジネス学科が必要だと考えます。がんばれ~^^

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2009-09-07 22:38:16

東京芸大・音大卒業生と就職について

テーマ:音大卒→就職話題

いつも、お読みくださっている皆さんありがとうございます。


このサイトを訪問してくださった、学生さん、第二新卒さん、いろいろな情報を

参考にして、

がんばってください!!!!応援しています!!!


このサイトでは、芸術と言われる業界の保守的なしくみを批判してみたり、いろいろ考えてみました。


私は、音楽業界にも、コンテクストを重視した社会的な資格が必要で、学芸員にならぶ資格・ホール運営の資格が必要だと思います。

大学学部での、商科・国内経済・金融・世界経済・企業・IT・toeic対策は必修にするべきだと思います。


司法試験・国一(文化庁・文化庁はぜんぜん人気の省庁ではないから入れるはずです)・企業・学生間で起業・このレベルで卒業生が出るジャンルになってほしいです。例えばある意味では、社会的・法律的に・クリエイティブな立場をとらないと、

文化はお金かかるんだから何もできません。民間でするにしたって、資格もなにもない人に何も頼めません。

社会的クリエイティブなレベルの学生に成長しなければ、業界が公正にお金を回す量を増やせないし、卒業レベルにはなんのうるおいもありません。


5-6年前とちがってきたこともあります。パソナの音楽関係者の専門派遣や、これも派遣ですからどうかとおもいますが、

日本の今の現状ではこれくらいなんでしょう。

公の場で、話題になるネタが増えてきましたし、問題も提起しやすくなったと思います。ネタが増えるだけでも困るが前はそれすらなかったので。こんどは、福利厚生・年間・生涯収入まで考えられるようにしてくださいね!!!


みなさん、このようなニッチな業界の話を よんでくださってありがとうございました!!!


この業界の問題に関心があるかたがたが確実に日本中にいて、学生は情報を求めてるんだということがわかりました。この情報版の更新はこれにて、一時おわりにさせていただきます。業界がニッチだからほっておこうというのは、禁止です。しくみはどんどん変えていかなければなりません☆☆☆



卒業生さん、学生さん、第二新卒さん、


がんばってください!!!!!!これからも応援しています!!!

チャオ!!!!!   2009.9.7






2009-08-31 01:52:39

芸術業界と天下り

テーマ:音大卒→就職話題

選挙がありまして、民主党が与党となりました。


さて、長年、芸術のしごとをしている、特に東京芸術大学出身の、人々、方々の人生を目の当たりにしてきましたが、芸術も、国立・県立・文化庁は、血税で運営されております。

ですから、もっと、国民と、国立(行政法人)東京芸術大学卒業者の社会的自立に直結するべきです。


政策や、地方ホールや人材の流動、芸術財団との関わりについては、大学でもほとんど

その実際を学ぶことはできません。問題だと思います。就職先の経済情報がないのと同じです。

公演の経済実態は、必修にするべきです。


卒業後、色々な事務所に勤務する事と、実際に、

東京芸術大学の仲間20名以上集めてシリーズ公演を製作して、現場を学びました。


そこで、学習してきた事を、ぜひ、みなさんにも役立ててほしいと思います☆


日本の各地には、さまざまな財源の芸術団体があり、その横に実質事務業務を請けおえる実質、数名規模の会社があります。大会社の小さなセクションになっていたりします。

はこ(ホール)運営を、民間という形か、委託という形で任されています。

運用(どの音楽事務所から、何回100万~1000万の公演を買うか)だけは、上方で決まっていたりします。

(要するに、経営運営と、実際のした働きはほとんど時給800円レベルのアルバイトと、保障外注の安い契約社員で、費用を抑えている=費用は年間240万×数名、バイト代は公演主に請求される、受付事務バイト2万/日くらい。)☆ここに、美術で言う学芸員みたいな資格を作り、保持者を雇用する義務が必要。報酬も福利厚生も保障も必須にする。


で、全国ホールの実際は、100万くらいの予算で、小・中公演をいくつか組んで、大公演は

クラシック・軽い洋楽オーケストラは、一公演が2~8百万で、海外から来た日本30箇所ツアーなどで稼ぐ団体、日本の芸能団体、いくつかの音楽事務所から買って、チケット3000円~5000円×1000人席=300万~500万のチケット代で回収しています。次に広告費が大きく、ホールというものははぜったいにもうかりません。(ほぼ無理)(ホールの賃貸業なら可能→これは政策主にはねかえる)

((輪をかけて、それより、ホール維持で、とんでもないお金がかかっています。地方財政には非常な重圧です。

横須賀芸術劇場など、高機能の舞台装置維持で、財政ひっ迫の原因となる現実があります。))


もうかるのは、仲介の音楽事務所だけで、次にそれらの海外のでかせぎ芸術家だけです。



わたしは、東京藝術大学の、8割は、芸術家として、食べていけないのですから、

日本に、東京藝術大学の出身の、演奏登録制度をつくり、出身地のホールは、

ほとんど制約なしに、演奏の義務のある登録制度を作るべきだと思います

よく(目的の明確にされていない)わからない、芸術支援団体は、権利の高いかたがたで

構成されている事が多いのですが、学生の身分で何か、始めようと思っても、そのような財団は


日本のクラシック業界の1線の見方しか、出来ず、そのスタイルにしか、お金は出しません。

本質的に、芸術業界の振興というよりは、1流と認められた公演だけ購入します。

東京芸術大学を出ても、一流には、1パーセントくらいしかなれないので、結局大半は、職にあぶれるのです

これでは、国の文化のためにもなりませんし、活性化した文化マーケットもできません。


財団の求めるような一流芸術家の育成には、たいへんお金がかかります左矢印これ超要注目

事実、一流音楽家は、十分な資金のもとに育った例がほとんどですよね。

そのようなことは、東京芸術大学に入学すれば、だれでもわかることです。

しかし、その中でもほとんどは、自活が困難なわけです。


財団(資金源)の求める人材・公演商品と、東京藝術大学の高倍率で養成される芸術家(コンテンツ・商品)との間には、おおきなみぞがあることが、第一の問題です。  資金はあるのです。その程度は。出し渋りもあるし。


このみぞは、商品(公演という商品)側にも責任があります。商品が、古いままであるのは、芸術教育の中身が形骸化しているからです。製作学部、経営・商学部、広告学部が、必要です。


学科試験・2・3年からの転入試験も可能しに、どんどん政策も学び、学力も求め、

文部科学省や、文化庁に、東京芸術大学の卒業生が、社会に、経済人材資源として、活動できる

素地を作るべきです。東京芸術大学にいる時、文化庁の文化哲学なぞ、一度も聞いた事がありませんでした。


何をやっているのか、芸術の現場との疎通は、現場(学生)レベルではほとんどないです。残念なことです。海外留学資金を出してるからそれで、おわりってなとこでしょうしかし、現実を見た学生は、文化庁が思うほどには全然、あまり海外留学に、意味を見つけてはいません。特に、都会育ちですこし状況がわかっている学生ほど、文化庁の海外留学をしてまで、

お金のもとのとれない業界に、危機感を感じます。文化庁が悪いとかではなく、芸術学生が、経営と、業界革新の

人材に、育つ事が重要ではないでしょうかね!業界がふるいのだ。


文部科学省、財団、音楽界は、東京芸術大学を出ても、1パーセントくらいしかなれないという、

一流芸術家のみを話題にし、他は、税金の無駄使いになっています。

それは、うーむ、残念ながら芸大創立から変わっていないのです。

もっと、情報公開して、数字に強くなるべきです。

コンテンツも現代化させなければ、国立なのに、良い人材は来なくなると思います。

現に、日本の本当のお金持ちは、慶応や上位私立大学は、音楽を」やらせようとして、

東京芸術大学に、入れようとしなくなっています。

このような状況だと、なにか文化コンテンツを製作できる人間に将来なりたいと考えた中高生には、

国立(行政法人)では、どこも対応できません。


国立は、フルすぎるのです。化石のようなコンテンツを作っていても、社会では化石は、売れません


化石を作るのに、税金を使って、9割の東京芸術大学出身者のほとんどにつながりのもてない芸術団体が、

なぜだかたくさんあっても、意味を成しません。


また、ここで、音楽には大きな問題がありますが、このサイトでいうように、音楽経営学か、音楽コンテクスト学が

ないために、美術における、学芸員という立場・資格が音楽業界に、ないため、実質的な経営とコンテンツと演奏人材という、3つの大きな支柱を、決められる制度がないのです。このために、権力がちりじりに曖昧に分散しているため、

おもてだった、ホールの経営も、難しいのです


このサイトをごらん下さる、学生は、就職にかんして、お読みくださっているのですが、

音楽分野が持っている、状況を、つぶさに観察、理解を深めれば、さまざまな、経済問題がわかります。

学生の時分で、何か出来るならがんばってください!!i一般社会でキャリアといわれるような人物と関ってください。たいへんですが勉強になりますよ。


私は、東京芸術大学と、地方財団を結ぶ、一つでいいので、全員が入れる、人材バンクを

作りたいと思います。(私が文化庁の職員だったら。)


地方公演に、その土地に帰った卒業生や、関係なしに場所で近郊の登録者に義務を課します。

音楽は年に200名で、実質可能稼動年数は40年として、8000人がいるわけで、

大体5000人の登録を目標にします。で、地方公演にその人たちが出る位は、

それこそ、外注先を決めるホール経営側が、出資財団に、公演給料を請求します。


公演のみの給料発生ですから、福利厚生の義務も無く、これくらいなら、すぐにできるでしょう。


世間は、一流芸術家を、安易に求めすぎています。一流芸術家は、仙人ではありませんし、誰かが技術を教えなければならないのです。古典であればあるほど、非合理的な時代の産物で、人件費がかかるのですよ。


また、一般企業例えば○○証券会社なども、自社イメージのために、すぐに、イタリアオペラや音楽オーケストラ

を購入されますが、日本の文化にとっては、なんら自給自足、文化土壌の育成になっていないのです。


文化には、理念のある政策が必要です。(それに反して社会や政治とは、必ず一線をおかなければなりません。プロパガンダの危険→なぜこのような事も、東京芸術大学ででさえ、必修ではないのでしょう。)(プロパガンダの反省は、日本美術にも、ドイツ音楽にもあるでしょう。第二次世界大戦の関わる方々が減った今、このようなプロパガンダと芸術文化の、危機も必ず、学ぶべきです。これを通らなければ、経営を学んではいけないと思います。結局大きな資金・政策に関わることですから。芸大学生・生徒だって戦争絵画も色々あったのだ。)


東京芸術大学も、岡倉天心や、フェノロサが、献身的に、文化を構築したのです。


文化政策は、省庁の発言だけでなく、現場側からもっと提案するべきだし、現場の考えを反映した教育と、

マーケット作り(ここに政策)が必要です。もっと、芸術側が経営も率先して、考えるべきです。












2009-07-19 02:19:43

日本なりの芸術の自立を!~コンテクスト学(学問系)と商学部を!!!

テーマ:音大卒→就職話題

美術・音楽、創造と二次的演奏の時限もふくめ、日本語で目的が語られ、細部も全部も論じられる時、西洋哲学や記号論ほどの理論性や、重複的考え方、応用的理論的考え方は、日本語で語られる文化的コンテクストとのかかわりの、思考とくらべると、西洋の取り組みに比べ、たいへん

浅いものになってしまう。 (にほんに哲学がないという話・文系は学問になってるの?という話とおなじ)→芸術にも波及している。自立して、あるべきところに、芸術学問が”ない。”日本には、美術も音楽も、文学も、文化も語られるだけのコンテンツは、あまりある。これを文字で学問しなくてどうするの?というレベルで、偏在しています。

もっと、文化学問に自信をもってほしい。村上隆がアメリカ市場に情報製品を売れたのも、内容物がこれだけあるからなのだ。非常に豊か。しかし、分析がされていない。


1:日本の文化コンテクストが、宗教・哲学・科学全てふくめ、曖昧にされてきた事が、土壌をかるいものにしている。

2:海外から、フェノロサ、昨今のマンガに対する海外からの評価、映画観 海外から言われて確立・ブランド/価値化する、日本の体質の現実(2:世界的に見て学問的土壌が軽い割には、芸術の本質点において海外から評価される事がある・評価が多いという事実・そして、海外から言われるまで自分で自立して学問立てた事がないという危険性(もったいない部類の危険性のこと=価値に気づかず発展できないor消滅))


芸術にかんして、一般にオリジナル・アイデンティティ・地理的に日本で出来た事からにほん製という芸術文化を

かんがえたとき、以上2つの点が、にほん芸術の特徴である。

美術に関しては、戦後日本画画段壇が、具象からセザンヌ的な抽象画の可能性に、開発されていった過程で、

奥村土牛・創画会・油画・野見山暁治などに 西洋的な印象での抽象嗜好性がはじまり、後今日に至るまで

視覚絵画において、抽象画のジャンルが開けたが、いったい、コンテクスト・文字的には、いつもの日本調子であいまいであり、討論されたということは、非常に非常に少ない。もしあっても、評論家との私的談話・の域でしかない。 はっきり言ってそれでいいんですかね?ほんとうに?!わたしはものすごくもったいない気がする。

(かつてロランバルトが絵画表現に意識を少しむけたこともあるけど、視覚絵画は、高度な思考判断を使う部分があり、さまざまな選択肢において、失敗の判断や研究過程の判断がれっきとしてある場合があって、それは他人にとって有効だ) のちに、

現代美術においてその(抽象の)流れは紆余曲折を経て、視覚が朦朧とした際の、ピントのずれや、具象の意識と認識の境といったような、

自然と、生理現象・認識・意識までの現象の、現実感覚の描写といった流行にながれたように見える。様々発展の形はあるが


まとめていえるのは、コンテクストで固めた表現(表現哲学が文字として明確なもの)は、アメリカマーケットを意識した作家にしか見られない点、(アメリカではその情報さえも価値となる。学問性ともとれないことはないといういつものアメリカ性ではあるという現実)

または、公に、作家のコンテクストは、語られないOR,グループで流派があったとしても、文字化公開されない点がある。(これは手の内なので非公開でしょうがないが、文字化して批評されることが、戦後絵画に対してはいまだすくなすぎる。それぞれが各々の論法なので論じにくい。それなので、次世代は、何が失敗していたのか分かりづらい。がしかし、失敗はある。実際抽象が、抽象すぎて教育現場で優劣がみわけられなくなったりして試験現場では無くなった経緯がある。)そういうこともあまり、公に論じられない。その分野の為に残す史実である。


音楽は邦楽・コード法による作曲・和声による作曲・前衛・商業・これらの何が学問で、何は創作技術だけのための学科に適しているか、実際的に使用され、分析され、再構築(アレンジ法)、新しい創作物、新しい商品群開発に、実際に進むべきだと思う。で、1、2は、文字分野/雑誌・音楽学がやる。マーケティングは両方やる。

聴覚は、人間にとって、情報量としては小さいので、いくら西洋音楽理論が信堅であっても、視覚美術ほどの

観客への情報影響は、見込めない。そのため、商業化するにあたっては、そろそろ、音楽そのものだけに

教育を頼るのは、限界だと、認めるべきだと思う。視覚・ダンス・多様な商品への応用・サービス商品・開発科

が欲しい。現時代からは作曲家だけに創作を任せていたのでは、採算や商品化を目標にできないのではと思う。なぜなら、理論のウェイトが、大きいからだ。でも教育現場は作曲家だけに創作を任せている。ので、音楽をふくめた新しい商品は、大学など、音楽学生が研究する時期に、商品について学んだり実地を踏み、変化させることができない。音楽りろんというものは、表現・商品化方法のたった一手段で、表現情報はキャパシティが小さいので学生はもっと融合しそうないろいろな他ジャンルを本質から学ぶべきだ。美術分野というもののなかで、”色彩学の分野だけが研究”されていることと同じで、音楽総体をつかむことがむずかしくなっていると思う。色彩学は、重要であるが、美術クリエーター全体にとっては要素のひとつでしかなく、音楽の和声のようなものであり、クリエーターの表現の態度・方向性には関与しないという利点がある。。

おんがくも、西洋和声ヒエラルキーを要素に縮小し、実際的な商品開発を大枠にして、運営したらいいと思う。


西洋教育の追従をしていたら、他ジャンルを学ぶという姿勢はうまれないと思う。(学生が商売を始められる事が良い)日本は、メディア技術が一番発達しており、西洋音楽以外の音楽もあり、あいまいなままの多くの、学問ジャンルがあり、それらが、融合の機会を

待っている。マンガ・アニメ、しかり。日本は、日本の芸術の、創作、捜索でもいい!奏作方法が、必ずあり、

その市場を、芸大や、広告や、コンテンツ産業・イベント業で展開することが、

芸術人の、現代における、正当なしごとのしかたといってよいのではないだろうか。


西洋本場でさえ自立が難しい西洋音楽を、狭い聴覚表現だけに凝り固まって、広義の音楽の才能がある人たちを国中で、教育させたとしても、今は、既存の音大か、ストリートミュージシャンという結果しかない。音楽理論は、

もっと広い商品に、開発され、解体され、美術創作のようであって、そのような大学が商社が出来る位にしないといけない。才能と、商学部教育をすれば、できるはず。


これが、新しい、才能と商業が交わった、世界で一番新しい一流芸術大の形だ。

そこには、使えない伝統や、ヒエラルキー、国家的責任、道徳的芸術の責任や、世界のどこかへの追従はなく、

実践芸術の、批評と出版・生産、商品、広告、市場、商学部その他がある。


芸術業界は、大幅に変化するべきです。売れない技術はいりません(狭い意味で言っているのではなく)。   要するに、商業に完全にするが、アカデミズムを残す(っていうか、もともと日本にアカデミズム・学問(西洋哲学)的な考え方で育った、芸術ジャンルはないんだから!)残すっていうよりも、

”コンテクスト学”をきちっと、作って、時代と創作物の検証をしないといけない。これが、検証的な見地で芸術を俯瞰する場ではないですか。いつまで、西洋の西洋における西洋音楽と、西洋哲学だけの論証を、西洋が日本になく、西洋的市場がないのに、西洋学問っぽいものを、にほんという地理的な場所の人に対して行おうとずっと、してしまうのでしょう。これは、多くの日本という地理に住むひとびとの、需要ではない。需要だったら、市場を作れている。西洋理論を日本に持ってきて、学問して、作曲家に還元されているかといえば、そうでもなく、そこの失敗とか成功が、音楽奏者が学ぶ機会もない。そうすると、音楽コンテクストは、奏者にとってまったくなく、音楽学は、奏者にかんげんされていないことになります。これは美術的立場からすると、立地が不安定に思えて背景の一致がどこにもない、不安定さで、ありえない状況です。そうすると、次に音楽理論が何かできたら、今の音楽理論は、何も次世代に残せなくなります。コンテクストっていうのは、音楽状況の内外の分析をともなった史実なのです。社会からみた分析をおそれては、いけないです。分析を恐れて、ふるいヒエラルキー文化を追従することは、人間の創作活動にとって、よろしくないです。


環境が変われば、文化もかわります。作品もかわるべきなのです。文化も無常で、業界システムも変化するべきです。芸術家が生計も立てられないのにその伝統に変にこりかたまるシステムはよくないです。常なのは、人間がたくさんいたら、一定の数は、音楽や美術表現を使って、商品をつくろうとする、ということでそのジャンルをバランスよく育成・現存させることです。日本のとくに音楽の芸術教育のながれと(ほとんど無い・お金がまわらない)中身の商業的な・社会的な分析を拒否して、昔の理念を盲目的に追従するのは、よろしくないと思いませんか?まぼろしを追っているだけで、人間としても退化すると思います。


なかなかむずかしい、ジャンルだとおもいます。アジアで人材の中心になりたいとか、そういうグローバルな視点が東京芸大に必要だと思う。そこをモチベーションにすれば、業界が新しくなる可能性はある。

2009-07-18 07:20:11

コンテクストが無理なら実際的に!芸術のブランド化など

テーマ:音大卒→就職話題

日本は他の国に、音楽科目のある大学のカリキュラムを追従する必要は一切ないと思います。日本は(というより、東京)要するに、最近思うに、国とかの縛りつけは古いと思います。地方の音大の需要と、東京の音大の需要は違うという事もかなりあると思います。また、日本がと考える事が、東京芸術大学関係者=卒業生にある種の変な責任ヒエラルキーをもたせる、諸悪からも抜け出た方がよい。はっきりいって、芸術は商品であるべきだと思うから、この際、芸術自体を、ブランド化させてみたらいいと思う。例えば芸大のデザイン科にはある種のうすいブランドがある。この絶妙な加減をもっと濃くして、分析力を持った人材だけを音楽学系も持てたら社会で強い


イタリアでも2番手以降のオペラ研究歌手が観光客向けにクラシックショーなどを毎晩地区の教会で安い値段でやっています。バイトだよね。これこそ、実はうっすら毎晩の需要があります。イタリアにしか需要はないですが。世界中最高でもこのレベルになっちゃうんですよ。最高に努力してでくぐりぬけてトップ層でバイトレベル。悲しくないですか。


音楽専攻をあつかう大学も、ほんとうに、古いかんがえを洗うようにマーケティングを導入したらいい。

マーケットを敵に思わない事。無理なら、音楽業界自体を”一定量”入れちゃえばいいと思う。

社会で必要な音楽+その他の多くの学科をどっさり導入すべき。音楽は、”表現”の・一つの西洋音楽理論を現行扱った・という表現の道具の一つの学科にすぎない。

経済を生徒全員に学ばせ、自分の才能を商品化できる、教育にするべき。

音楽は人を魅了しいつの時代も、研究する人が出てくる。また、既存の音楽理論だけでは、自立できる作品・パフォーマーは出来ないため、実技偏向の入試は意味がない。音楽表現を含めた学科の成長をロスさせるのは、次世代と、旧世代で失敗したことと、今困っている事、人のエネルギーを社会に生かしていないことになる。

私は音楽におけるコンテクストは大変重要で整理されなくては

いけないと思うが、実際には大変だとおもうから

現実的には、芸術の商品化・経済資源化ができる力をつけられるのが芸術大学・学問であてほしいぞと。

今日は考える。のだ!!


私は、公立・私立の子供を教えています、その中で音楽をやる子が

出てくるけど、自立できない業界に、送り出したくありません。

でも音楽系の研究意欲は人間にとって、正当だと思うので、学科も時代に合わせて成長してほしい。



それから、先日イタリアに行って思った事は、私は中1から高校1年まで、音楽ではなく芸大デッサン&早朝模写の日課があって、学校に行く前の夜明け日課など、

相当量美術を画家である親から、スパルタされて育ちましたが、あの、世界の観光資源であり、科学者であるダビンチも、ミケランジェロも、例えば、

細かいところを全て描いているわけじゃありません。人間の仕事量なのです。ダビンチなんかは、今回よくわかったのですが、

関係ない所、視覚的にあまり重要でない所などは、ほんとうに塗りも濃い仕上がりにみえるだけで、

よくよく描いているわけでなく、大変重要な効果だけは、非常に綿密に描いています、例えば、金筆や構成、ミケランジェロの壁画に至っては、大きさが大きさですから、看板画家の要領である種進めなくてはいけません。

日本の芸術は、細かいものでびっしりうめつくされていないと、他人がとやかくいうのではないかという危惧感覚に

左右されていすぎる気がします。もっと、おおはばな計画のもとに、商品化するという視点にたって

教育・実践ジャンルが動けば、もっと多くの人が自立するはずだと思います。

劇団四季などは、ある種それに成功していると思います。質を落として(一般には問題にならないレベル)商品化を先行させる。


もっと、重要部分だけでいいと思います。それでないと、表現とか、あらたな商品の可能性があっても、

危惧ばかりがふえて、ジャンルが豊かになりません。才能・実力の宝庫であり、相当な倍率をくぐりぬけても

市場になんの商品が出せなくて、自立できなくて、なんの意味があるでしょう? 昔の技術にとらわれて、時代遅れの技術を駆使して、

だれが、どこに、需要があるのでしょう?


ここのぶぶんを、とりくむのが、われわれの時代だな!!!


と、言っても、実際は商品が流入するマーケットは、他業界と結びついてる訳で、芸術業界だけではだめなのです。よ。ブランド化して、アピールでもしないと。かっこいいですよ、美術のなかでもデザインはね。って位いえるあの学科並みに最低ラインとして対外アピール実力がないと。ね! ほんと、だめなんだぜ!!!

もっと経済を勉強して、自分で出版・情報流すなりの体制も整えそこで他業界との結びつき(他業界にとっての利点)が必要。



2009-06-10 20:46:22

音楽のコンテクスト

テーマ:音大卒→就職話題

音楽における、コンテクストの欠如は、東京芸大においてだけでなく、音楽を総括する視野に欠ける(美術や、あらゆる学問形態に相対して)という意味合いがあります。


さて、美術においてコンテクストの、ありのままを解いた、すばらしい本があります。


<日本美術>誕生、

近代日本の「ことば」と戦略  佐藤道信  です。


美術も音楽も、明治を素通りすることはできないのです。なぜなら、国策があって、文化と教育とある意味でのマーケットまで、戦略的に構築されたからです。

例えば村上隆は、その教育構築が、現代の日本では、機能していないのではと解いて、自分でアーティスト教育をして、マーケットまで自分で作った訳です。要するに、明治創立のそのマーケットでは、美術家は生活できないだろう=80年代バブル以降古く機能しない日本のマーケット だと、判断したわけです。


音楽においては、初めから指摘するように、

マーケットまで念頭においた戦略が、ないため、明治時代から機能していません。


じゃ、音楽のコンテクストを自分でかいてみようとおもうと、


けっこうな量と、事だけど、

実際には、大衆・消費された音楽商品と、音楽(画壇)(音楽の場合、画壇じゃなくて、なんていうんだろう?

そもそも、造語しなきゃいけないくらい、そのしくみがないのです☆音壇?)の見解や、実際の統計・海外・国内作家・クリエーターに与えた影響などが

考察されるのでしょう。


コンテクストをつくる上では、重要なのは、言葉と、日本性です。

昭和初期に西洋へ美術留学した成果のなかで、日本の美術が、西洋でみとめられているという事実に対し、

彼らは、‘何をいまさら驚いてるのか、あたりまえだ‘という気持ちもあったといいます。

西洋哲学が西洋言語で考慮されるように、日本美術も、密接に日本語で、考慮され考察して発展したわけです。

日本の音楽も、日本語で考慮され考察され思考されてできているのです。


なので、いつ時代に、中国から、西洋から、アメリカから、音楽理論を借用したとはいえ、

思考の過程は、日本語そのもの以外ではなく、密接に日本語で推敲されてきたのが、日本の音楽であるといえます。

現代のJポップのシンガーソングライターは、詩も自分で書く場合が多いですが、若いありのままの感情景を文字化しています。文化的に高度なのか、そこにコンテクストの視点からは、どのような歴史的前後関係があるのかないのか、どれ位残る価値があるのかという芸術的側面は別にして。このようなJポップでさえも、

コンテクストが確立していれば、人のどのような時期に、何の技術のどのレベルで作品化したのかを、鑑賞することができます。

これができると、さまざまなアレンジャーの冒険的作品も、音楽一般的にコンテクストを共有できるので、

音楽にかかわる全体で、情報の把握、人材の流動化ができるのです。


美術は、奇想の系譜、 惟雄 ・ (村上隆もそうですが)における考察のように


べたな・(美術ではコアなと言う) 純美術(まさに戦略・国策としてできあがった美術の流れ)に、たまたまのっからなかった、美術の相当な腕前の持ち主を紹介し、その創造力をも、日本の美術コンテクストの中で、評価しようとしています。いいかえれば、上流美術としての地位ゆるぎない美術に、入らなかった達人たちは、まさに、日本のふつうの土壌で、養成された、これまた、ただしい、力ある表現だとしているのです。


こういう人の作品にこそ、できあがってしまったシステムが、滞った時にかすみがちな、

時代の先端が、現れている(多くの場合、ほとんど商業的に成功している)のではないですか、という面があります。


その時代で、商業的に成功しなければ、美術も音楽も作品として、力強く、生き生きと残ることはありません。

理論だけでは、作品はうまれないのです。この意味で、多くの人に受け入れられるか、売れ商品であるかということは、芸術にとって大変重要です。こちらがわがあってこそ、裏でうれなかったけど、すばらしい作家がいるということは、よいのです。


音楽において、なぜ奇想の系譜について、もちだしたかといえば、


音楽で、奇想のひとがいた場合、彼らが乗れる(話題)、コンテクストが、音楽業界にないため、何にもひっかからないだろうし、今までひっかけて論じた痕跡もないことは、日本の音楽において、損失だという気がします。


音楽が大学であるからには、アカデミズムという、論説・論考・論証がゆるされているのであり、

また、日本語で、日本音楽を俯瞰し、時には、国立なら、国の市民レベルの利潤のためにも、戦略があって、しかるべきだと思います。



考察・・おわり


美術と音楽の比較文化論かな・・・・・・たぶん・・・そうなのかな・・・・・


日本の音楽と美術の比較文化論できる人はほとんどいないと思います。


東京芸大にもありませんので。何が有効なのかというと、



国策・ジャンルとして経済的に成り立つためのジャンル策、そういったものが、より歴史的に洗い出され、明確化します。

両方で情報の共有が出来るわけです。


音楽も美術もジャンルの経営学を学んで来ませんでした。

しかし、美術は、現実的に経営学を広告やメディア・その他業界と共有できる経営体質を持っています。

それは歴代のアーティストが、そもそもは自分が生き抜くために、業界を発展させるために開発した成果です。

じぶんのところから創造する立場をとらないと、経営まで視界にいれるのは、難しいと思います。


なぜなら、”伝統”といった様式をゆうせんさせるあまり、利益を求めない体質になってしまうからです。





 









2009-06-09 15:13:52

コンテクスト=背景の重要性

テーマ:音大卒→就職話題

さて、音楽(たとえば日本では、東京芸大を中心とする)が、俯瞰論を、作り出せない理由は、


そもそも、音楽が西洋音楽理論と・完成品(パフォーマンスの次元のこと)だけにいまだとらわれすぎているからであり、


日常において、現代人にとっての音楽は、さまざまな商品として、身近に流通している。


クラ音は、もう時代遅れ(過ぎ去った時代のこと)なのであるから、やっと、このへんで、日本の音楽状況を俯瞰して、日本の音楽なりの、コンテクストができあがるはずだ。私は、個々の音楽が、商品価値を付随できない理由のひとつは、音楽には、コンテクスト=背景の理論がないからだと思う。


わたしは、を、声を大にして日本の音楽における、コンテクストの重要性を、主張したいと思います

この、日本の音楽のコンテクストは、芸大楽理も、慶応も、早稲田にもない。要するに、ジャンルとしてないのだ。


日本において、さまざまな形態の美術が、自由に論議・批判・でき、一つの分野としてとらえやすく、

海外でも評価されることの原因は、かれらが、自分たちのコンテクスト(歴史と、今現時点でのクリエーターの状況)を、常にかなりのレベルで、把握している点だと思う。


把握しているから、その中での転職も可能だし、(デザイン・CM・映画・広告・工業デザイン・アニメ・純美術・現代)、俯瞰するコンテクストは、雑誌・文芸・芸術学・日本アメリカマーケット・美術教育の現場で、共有している

ことが、日本の美術地盤を強いものにしている。

ことに、広告業界とのつながりは、大きい。これは、有元利夫(電通系)以降、デザイン(商業系学科)の発展につながった。日比野(80年代)、以降大きく、メディア業界に出る人が増えた。


音楽に舞い戻りみてみると、コンテクストの欠如により、転職は不可能、教育現場、ポップス業界、イベント業界、音楽産業雑誌、音楽学、文芸、いずれも、まったくバラバラの視点しか、存在しないため、俯瞰を共有することが

日本中で、できていない。


これは、芸大の美術部が、岡倉天心やフェノロサ、他、最近では平山郁夫、まで、商業と自分の日本のコンテクスト、自分たちの技術を、常に開拓していた結果と、音楽は牽引者がいなくて(いたとしてもなぜか古典を古典として学ぶのが音楽だという明治時代の官僚の思いがただ延々とうけつがれてきた、かん違いして、しくみがそのまま存続されている結果)の、ちがいだ。


音楽(芸大を中心とする=それが一番影響力があるから)は、コンテクストを、作るべきだと思う。



コンテクストがなければ、大金・対価は、支払われないことを、びじゅつから学ぶべきだと思います。


コンテクストがあれば、逆に、周囲・社会・世界に、説明・売り込みができ、時代性も明確になるのです。



音楽評論でした・終




コンテクスト自体の意味がわからないのなら、美術におけるコンテクストの概念を、知って読んで下さい!!



2009-06-08 03:23:09

映画部に

テーマ:音大卒→就職話題

東京芸大の美術部は、いつもビジネス・マーケットに、視野・行動がむいている。


大手広告代理店から、30歳過ぎて映画科へ入学した人がいるらしい。、映画の配給までする、その過程と実際の達成が

研究課題らしい。すばらしい。


音楽部は、みならうべきだ。


美術はもともと、岡倉天心と、フェノロサが、日本の創作力を評価しマーケット=画壇の確立からプロッジェクトした背景があり、自活する実力をともなったシステムが構築されている。

美術教育自体のシステムは、問題も多くあるが、批判能力も、しっかりと芸術学科を中心にある。


音楽は創立からにして、創造力を、だれも評価していない。ただ邦楽と洋楽が、政府によって、

美術学校につけたされただけだ。批判能力もない。

ここが、日本の音楽が、マーケットと分裂している、原因である。

日本は創造力・経済力が根底にあるので、音楽も、創造的立場を中心にしたらいい。


音楽は、美術傘下にして、音楽構造コンポーズ理論は、創造の一学科にするべきだ。


これができていないと、世界中で、クラシックの扱いは、いまのように悶々としたまま、なんら変化・進化・発展がないだろう。とすると、何が問題化というと、雇用が生まれず、上層家庭以外の学生は、非常に困難な訓練をものにしてきても、なんら、自立することが困難になってしまう。美術でも音楽でも、幼少期からの訓練は、システムがおよそどのようになったとしても、必要なので、訓練に要されたおおきな時間というのはしかたがないのだが。


ルネサンスでは、人間の解放が主題だったが、


村上隆に代表される、美術・メディアでの、現代のモチーフは、性命力の開放である。これは、今後世界中の、アメリカ映画におけるセックスと暴力のレッテルを古きものに解釈できる、あたらしく、いやみのないものへ、かわりつつ、性の解放と、何らかの、”かわいい”日本の、また、美術では村上隆の、そのあたりのものとまざって、

ゆっくり、ひとつのじだいとして、作品のかずかずがでてくる種類のものにみえる。


性は生命ではない。日本のアニメがなぜ、これまた岡倉天心&フェノロサのコンビにあるように外部から指摘されたように


特で、正当な表現の指摘をうけたかといえば、性のエネルギーが西洋では、日常性は、シンボル化されていて、

その、現実的な複雑さは、よくないもの、としてなかったことにされてきた。または、かくされてといっても過言ではないだろう。アメリカにおける、経済の失敗にもわかるように、西洋・アメリカは、日本と種類の違う、たてまえ、シンボリックなかんがえ方があり、とことんまで、暗い材料を、ないものとあつかう部分がある。

視覚的文化であるびじゅつでは、性における表現は、抑制と希望を悶々とする構造の現実は、ないものとされてきた。しかし、日本のアニメは、性における感情概念が、現実のものとして、現れた時、その表現の内容において

現実のもので、生命力のエネルギーとみとめられる美学的要素が、日本出来のものとして、認識された。


ルネサンスのミケランジェロのダビデ像は、センセーショナルだったに違いない。あるそれまでの時代に束縛されていたものが開放されており、批判はすくないものの、かなり、セクシーである事があげられる。

村上隆のマイ・ロンサム・カウボーイは、今後、ダビデ像のように、何世紀後にも鑑賞されるはずである。


性エネルギーは、村上隆の、おおやけにされない、ひとつのテーマであって、

それは、日本の日々のいつもの風景に見出されていて、そこに、一般のひとも、生活している

スピリットなんですね。かなり自由な古来からあるスピリットなんです。で、音楽だったら、ポップスに蔓延しているんだけど、アカデミニズムと、分断されていて、おりあわないから、どっちも世界に売り出せない。

理論がつくりきれない。→音楽系だって、はっきりいって、クラシックを上回るものなんて、全然出来る時代なんだけど。


日本国内では、認識されなかった。という日本にいると、当たり前のことが商品になる可能性を音楽はしらない。


村上隆は、日本へ逆輸入させることで、日本人にその価値を知らしめたが、その善意が「なければ、彼は、日本へは戻ってこなかったかもしれない。それはやはり結局、日本には、創造するさい、便利的な、文化的、平和的要素があって、そこが、日本を捨てがたくさせる、原因なのだ。

日本は、平和である。創造するうえで、誰の侵害も受けない、土壌がある。


これを、認識して、音楽っていう道具を扱う分野も、美術化してほしいんだよ!(商品的な自立に向け。)

結局、日本の音楽(または音楽の才能が幼少期に認められた日本人)っていうのは、クラシック音楽っていう道具理論にもて遊ばれてしまいやすいだけなんだよ!ここを理論上、抜け出さないと、商品はつくれない。芸大が変われば、日本がかわるのに。^^理論は、自然科学じゃないので作ってよいのだし。


なかなかわからないだろうな。これって、美術の根本をしらないと、音楽に応用できないんだよね。

日本の音楽分野で、マーケットまで押さえてるのは、歌舞伎と、劇団四季くらいなんだけど、

それ以外のひとが、学生レベルで自立できる、ジャンルにするには、音楽教育システムをかえなきゃだめなんだと思うわけだ。無理なんだけど、方向性としては、マーケットに、商品で参入できる、音卒のほんとのクリエーターをふやすことなきがする。となると、音楽の理論は、デザインの要素のひとつでしかなくなる。


ここを受け入れて、音楽理論は、もう縮小されて、商品=デザインできる音楽”系”アーティストの養成が、

音卒の就職・自立につながってほしい。


それでなければ、競争にかったとしても、生活はできないのだ。そーなんだけどなーーー


ってしたら、まぁどのような創造物ができるのか。に、興味があります。(ただの想像だよね)

2009-06-01 05:34:49

村上春樹

テーマ:音大卒→就職話題

村上春樹は、現代の戦う成功者だ。


文学や芸術において、大衆性をおびつつ、本当のことをきりこみ、


市民を啓蒙するのは、偉人である。


彼の大衆性は、現代の文学の完成された形だ。


信仰とオカルト、芸術と、芸術を支持する宗教、古今東西に現れる現象だが、

はたしてそこまで、評論をかさねるのは、たやすいことではなくて、弱い人間が

ずるがしこいかもしれない強い人間に(何か大事なものを)ゆだねる、こわさ・危険さを、感性の文学で示している。何か大事なものは、ほんとうだったら人にゆだねてはいけない。

じゃあ、人間どうやって小さいうちに、個々の何か大事なものを、自分所有にし続ける普遍をみにつけられるのか、私は古典宗教がそこで抽象思考ができない幼少期だけは入り口にあってもいいとは思うが、科学を理解するレベルからはその質の信仰はなくなるべきだと思う。なぜなら、自然科学やその他学問が発展する前は宗教という言葉上の区別で、そこに抽象思考の達人が集まり、模索していたから幼少期は未開な抽象せかいへの賛美だけでいいとおもうからだ。(ルネサンスの自然科学の分離までの宗教文化)→自然科学→哲学→抽象思考といった、学問の発展と同じ順で、若いうちに、抽象思考をみにつけることではないかと思っている。その際、何がしかの信仰は、感じるべきだと思う。信仰というより、生命力により保護された抽象思考への、つきない魅力と探究心が感性とあいまって、

大切なだいじなものをおもいおこさせてくれる。そういう経験がないと、大人になったとき、弱い人間にはいってしまう人が増えてしまうのだと思う。


芸術もずいぶん長い間、キリスト教や、ほかの大きな宗教に交わってきていたが、

自然科学が発達するのと同時に、多くの学問を産み出し、それ自体の信仰の重力は、

昇華・分解されていったと思う。

現代にのこってしまった、言葉として同じく宗教の、意味合いとは、またそのリアリティとは、

もう時代おくれなのではないだろうか。

子供時代に、何かを信仰する静謐さとは、お寺や教会の保育で学ぶが、それより自然観察力をつける事でも得られる。ダビンチの例や古代数学者などはまさにそうである。


古典的信仰心とは、つまり、

それは、自然科学の未発達な、未分解なカオスで、そこに、人類の解決していくさまざまなジャンルを、

生命力の根源として抽象的に、感性で対応しているだけのように思う

さてや、数学や科学が理解できる年頃になれば、

それらは、未開だった子供の自分が、抽象思考にはじめてふれた、もののおおきななにかにふれた

感覚として、大人になるまでのこるだろう。


信仰とは、自然科学ができるまで、抽象思考が、学問的に、数学・科学・社会・心理学と、

発展する前の、抽象論への、人間の賛美と、私は考えている。


生命力は、抽象思考は賛美するが、そこで感受性がはたらいていなければ、

自然科学や、芸術、まことの意味での、ルネサンスに匹敵するレベルの芸術産業は絶対に、社会から産まれない。ボッティチェッリの前期と後期が驚愕するほどのちがいがある、そのちがいを見たことがあるだろうか。表現者として、こんなことがありえるのかと、びっくりしてしまう。それほど、たいせつな問題がここにはあるのだ。


自然科学がれっきと発達した今、言葉としてだけのこった宗教というものの中でも

自然科学が自立した以降の、抽象論から出てきた信仰心は、自立のちからが非常に弱いと思う。

自然科学は、人間が自立するためにうまれ、そのほかさまざまな学問をひらいていった。


発展したせかいで、またもどってさかのぼって、抽象論をかさねることは、何千年来の学問的に逆行している。

何でも、多少の前後はあるものだが。

学問の発達をさまたげることであり、そのような流れが強くなった中で、人間が学問をするのは、

生命力として、ただしいままではいられない。

どんなものに、スポンサーになってもらうかも、文化人、メディア、作家の、腕前になってくることも

もちろんでてきてしまうだろう。今すでにそうですけれども。まぁ、そこまで神経質にならないとしても、残念ながらそういうこともある。


でもけっきょく、そういう生命力になってしまったら、どうなんでしょう。無責任ですよね。その抽象論は。

そういう生命力の人間の世界は、生命力による淘汰がなく、活性化せず、文化的にもともだおれなんですよ!このところをどう思っているのでしょうか。と、芸術出身の私は思うわけ。なり。これは、淘汰するほうの力にかかっているんです。拮抗するというかね・・・やだねってかんじだけれども。


文化人・ものを作り他人に影響するような立場の人は、人の文化の発展のために、

村上春樹からよく学び、生活文化に役立てていけることが、


日本人や、せかいの人々にとって、彼に対して、賛辞を述べる原因になる。


彼の大衆性は、ファンへの、最大のサービスなのだ!


大衆性と、芸術性の両方をかねそなえたものが、わたしの理想の方向です。

私は村上春樹の生き方がほんとうにすばらしいと思う。





2009-05-29 00:56:49

TOEIC800

テーマ:音大卒→就職話題

毎月行われるTOEIC テスト!


芸大・音大から就職をかんがえるみなさん、

ハートブレイク

これを、みかたにつけちゃいましょう!


磯山かつの さんという著書のTOEIC シリーズは、リスニング・リーディング共におすすめです


そのとおりやれば、100スコアくらい、アップします。yaeka英語の問いの形式と、答え方のきまりに慣れていきます。ほんとにやってみてね!!


実践形式の問題集と、リスニングなら、入門を繰り返し聞いて、耳慣らしを徹底的にしましょう。

音楽系は耳がいいので、大丈夫です、すぐ、できるようになります!


がんばって!ください!!



あとは、多読速読。

2009-05-25 16:24:42

例えば・・商品開発部(7割)/と国際交流部(保守系3割)に分ける

テーマ:音大卒→就職話題

音大・東京芸大を、おもいきって(思いきらなくても・・・☆)ふたつにわける。商品開発部と国際交流部を作る。新しいものを仕事にしたいなら商品開発部(時代にあったものを!みたいな部→早稲田とか慶応とか引退した芸能教育者とかと、商品研究開発できるレベル・話が通じるレベル)

国際交流部(既存のもので留学や演奏家などを!→保守系)


・商品開発・沢山開発され、淘汰もあり、著作権登録もやる、また売れている楽曲を、逆に著作権料をはらって、収入をとるベースを学ぶ)(マーケティングは全員)


・PR部門 (卒業後の、就職体験的な要素が大きい、販促・販売会社のような中身)(マーケティングは全員)

・経理部門  (別途試験制で)(マーケティングは全員)



こんなかんじだったら、

実社会とかわりない。


上司=先生=こわもてのディレクターが必要かも。

実社会、上司の言うことにさからえないし、というか、成果がもとめられるから。




こういう風に書いてるのは、

自分の方向をまとめるためで、、おんなじ様なところでつまづいているひとの

ヒントになればと思って、かいています。


何処の大学でも就職に関してはスタートは同じだという意見もりますけれども

東京芸大の場合は、芸系の競争の頂点なので、芸大まで、やっと勝ち残った(学費の安い国立に)

ところで、あとは、芸術に夢をもっていたんでしょうから勝手にやって。後のことは、ジャンル外なので知りません。。みたいになっちゃうのが、あまりよくないと思うんです。ね。


国立が安いからって入った学生は、学生時代に自分に投資できる金額はほとんどないし、芸系のマイナススパイラルが目の前にまちかまえているだけです。(大体、練習や、製作場所も卒業したら借りれないでしょう。)(などなど、芸系のスキルを維持するだけでも大変なことになります=それくらい、大学でやるような特殊な音楽(業界)は現代の社会環境にマッチしていないと、理解するべきです。批判ではなく、理解を深め、自分の人生に役に立てて下さい。また、この手の音楽に関しては、状況が世界中、同じなのです。)

それをクリアできるのは、かなりの富裕層か、どうにかしつづけようとする芸術1代目(夢だけ持っている人)だけです。しかし2代目3代目は、スパイラルを知っているので問題意識はありますが、やはり、抜け出すのは困難な所です。(または、先代が成功している場合は先代の続きでどうにかやっていくかもしれない。)


なので、一般家庭(平均世帯収入が自分でも低い方と思う場合)(一般家庭でなくても、経済的後ろ盾がなくなることはありうる)の東京芸大生などはそういう場合、TOEIC・語学・一般企業インターン・バイト・IT技術にたよるしかありません。


一般社会で、認められる価値を、自分につけてください。!!

がんばれ!



でも、芸大に合格したような人は、だいたい結構強いので、ぜひ、がんばってきりぬけてください☆


たしか、何年か前の最近の卒業誌に、9割くらいの実技系統のせんせいでないせんせいが、


芸術・音楽の卒業生が、かかえる問題は、たてのつながりや、卒業したひとたちと

話し合ったり意見交換すれば、どうにか切り抜けられるものが多いきがする。という趣旨のことがあったように思います。

私も、もっと、現実的な意見交換・つながりがあると良いと思います。困っている人は少数で、芸術上評価される人はもともと少ないうえに、そういう人が上にたつので、困っている人の意見が、すわれていないと思うんです。ね。私は、ここで、ちょくちょくかいています。

いろいろ、参考にして、皆の創造的なエネルギーが、仕事・社会に、還元され、ある程度の満足も得られると、るとうれしいと心からおもいます!

がんばれー!


では!


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