遅くなりました。佐藤さんに応答します。
青森大会の速報に佐藤さんは次のように書かれています。「1999年の土居実践が実践のメインとして取り上げられていますが、その後10年間『実践がないのか』『実践を見つけられないのか』もしくは『実践ができないのか』という現実についての認識が必要と思いました。」このことについて応答します。
「なぜ土居実践なのか?」という疑問は他の方からも聞いています。
私が土居実践を例に挙げようと思ったのは、昨年度の熊本大会で、絹村さんの担当した問題別分科会「高校教師は『いじめ』問題とどう向き合うか」(機関誌174号)に参加し、そこで土居実践に再び出会ったことがきっかけだと思います。基調の注の(2)にも書いてあるように、この実践は、1999年の絹村基調に取り上げられたもので、そのときにも私自身感銘を受けて読んだものです。ただし絹村基調ではこの実践を「世代の自治」の観点から取り上げ「認識(意識化)の指導」という観点で取り上げていません。また、土居実践の報告が掲載された142号では田中容子さんが分析しています。
実は、私がこの実践を基調の具体例として取り上げる際に、そんなに古いものだとの認識はありませんでした。(9年前が古いかどうかは別にして)この9年間に実践がないことを主張するためにこの実践を取り上げたのではないのです。
つまり佐藤さんが言うように、その後の9年間で「実践がない」わけでもないし、「実践が見つけられない」わけでもないし、「実践ができていない」ということでもないのです。
そのことは基調でも次のように書いています。「そのような実践(「行動に直接関わる限りにおいての認識の指導」をおこなっている実践)は、これまでのすぐれた生活指導においては、十分に意識されてこなかったにせよ、おこなわれていたものである。」(機関誌177号108ページ第四章の始めの部分)と。
ただ土居実践の場合もそうですが、すぐれた実践であっても、本人や分析者が、「現実についての認識(意識化)の指導」をおこなっているのだということにこれまで「無自覚」であった(「意識化」していなかった)と思うのです。あえて「学び」ということばを使うなら「生活指導の中の学び」(青森大会での竹内講演のテーマ)について無自覚であったということです。この点について佐藤さんはどう思われますか?
もちろん、実践はしているが無自覚であったという実践と、もう一つ、現実についての認識の指導そのものがないというか、弱いというか、生徒の自然な認識に任せてしまっているという実践もあるように思います。行動中心的な実践傾向です。生徒の行動を指導しさえすれば生徒は育ってくれるという実践傾向です。行動を指導するとは、たとえばできるだけたくさんの者が関わらないとできない行事を用意するとか、様々なノウハウを教師が提供することで演劇を成功させるとか、教師がリーダーになるのではなくリーダーを決めて、リーダーに仕切らせるとか、クラスで決議をあげて、クラスの出し物を決めるとかなど、行動の仕方を指導していくと言うことです。このような行動の指導(ワザの指導)は大切なことですが、それだけでは足らないと思うのです。このような傾向はこれまでもあったし、今もあると思います。大会前のブログでも述べましたが、174号の「ホームルームが好き」の特集にあった永田実践以外の3つの実践にはそのような傾向を感じるのです。
つまり生活指導、集団づくりにおける、「現実についての認識の指導の問題」「学びの問題」をもっと自覚(意識化)し、さらには実践しようということなのです。そうすることで、生活指導実践の「行き詰まり」(行き詰まっているのか行き詰まっていないのかということ自体がまた議論になりそうですが・・・・)を打開できると考えているのです。だからこそ基調の題名を「いま高校教育実践に必要なことは何か?」としたのです。
教師と生徒の間の共感的共闘的関係を基盤としつつ、生徒たちとともに、「教師の認識の提起」もおこないながら、現実を「認識、意識化」させるように指導する。そして、そのような「認識、意識化」は、新しい現実を作り出す「行動」を生み出す。新しい現実を作り出す「行動」によって「関係性」が変革されていき、その変革された「関係性」がさらに現実についての「認識、意識化」を深めていく。そのような循環の中で思想と行動能力(スキル)の統一体としての人格(市民性)が成長していく。子どもが育っていく。基調で述べたこのような筋道は、今回の全国大会で私が参加した分科会の中順子さんや鈴木ひろ子さんの実践にもはっきりと見ることができると私は考えています。
佐藤さん、いかがでしょうか?また、その他の読者の方からもご意見をいただければ幸いです。








