08青森大会応援ブログ

08高生研全国大会は2度目の青森。

今回は青森市での都市型大会です。

高生研09大阪大会の応援ブログ『今日の弁天閣』

2008年12月24日(水)イブの夜、始まりました。

ゆるりと可愛がってやって下さい。

華々しくオープンしました。

サンタをクリックしてね。
08青森大会応援ブログ






高生研全国大会08青森大会は無事終了しました。

参加者は158名でした。


皆様、青森の海の幸、夜の交流会はいかがでしたか。


初日の開会行事

竹内先生の講演・基調提案


2日目の一般分科会と交流会


3日目の問題別分科会&ワークショップ、そして総会&別れのつどい


いかがでしたか?


来年は大阪です。

みなさん、またお会いしましょう。


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北の森讃歌


涼やかな 北の大地 青き森の街で
この夏の一時を 共に過ごした日々
温かな微笑みに 心励まされて
それぞれの生きる場所へ もう一度帰る

濃厚な一日が今日も過ぎてゆく
真剣な話し合いと弾ける交流会
三味線の力強さ 手踊りの魅力
遠くから打ち寄せる ねぶたのリズム

名残りは尽きぬままに明日は海を渡る
さようなら青森よ また会おう大阪で

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テーマ:

遅くなりました。佐藤さんに応答します。

青森大会の速報に佐藤さんは次のように書かれています。「1999年の土居実践が実践のメインとして取り上げられていますが、その後10年間『実践がないのか』『実践を見つけられないのか』もしくは『実践ができないのか』という現実についての認識が必要と思いました。」このことについて応答します。

「なぜ土居実践なのか?」という疑問は他の方からも聞いています。

私が土居実践を例に挙げようと思ったのは、昨年度の熊本大会で、絹村さんの担当した問題別分科会「高校教師は『いじめ』問題とどう向き合うか」(機関誌174号)に参加し、そこで土居実践に再び出会ったことがきっかけだと思います。基調の注の(2)にも書いてあるように、この実践は、1999年の絹村基調に取り上げられたもので、そのときにも私自身感銘を受けて読んだものです。ただし絹村基調ではこの実践を「世代の自治」の観点から取り上げ「認識(意識化)の指導」という観点で取り上げていません。また、土居実践の報告が掲載された142号では田中容子さんが分析しています。

実は、私がこの実践を基調の具体例として取り上げる際に、そんなに古いものだとの認識はありませんでした。(9年前が古いかどうかは別にして)この9年間に実践がないことを主張するためにこの実践を取り上げたのではないのです。  

つまり佐藤さんが言うように、その後の9年間で「実践がない」わけでもないし、「実践が見つけられない」わけでもないし、「実践ができていない」ということでもないのです。

そのことは基調でも次のように書いています。「そのような実践(「行動に直接関わる限りにおいての認識の指導」をおこなっている実践)は、これまでのすぐれた生活指導においては、十分に意識されてこなかったにせよ、おこなわれていたものである。」(機関誌177号108ページ第四章の始めの部分)と。

ただ土居実践の場合もそうですが、すぐれた実践であっても、本人や分析者が、「現実についての認識(意識化)の指導」をおこなっているのだということにこれまで「無自覚」であった(「意識化」していなかった)と思うのです。あえて「学び」ということばを使うなら「生活指導の中の学び」(青森大会での竹内講演のテーマ)について無自覚であったということです。この点について佐藤さんはどう思われますか?

もちろん、実践はしているが無自覚であったという実践と、もう一つ、現実についての認識の指導そのものがないというか、弱いというか、生徒の自然な認識に任せてしまっているという実践もあるように思います。行動中心的な実践傾向です。生徒の行動を指導しさえすれば生徒は育ってくれるという実践傾向です。行動を指導するとは、たとえばできるだけたくさんの者が関わらないとできない行事を用意するとか、様々なノウハウを教師が提供することで演劇を成功させるとか、教師がリーダーになるのではなくリーダーを決めて、リーダーに仕切らせるとか、クラスで決議をあげて、クラスの出し物を決めるとかなど、行動の仕方を指導していくと言うことです。このような行動の指導(ワザの指導)は大切なことですが、それだけでは足らないと思うのです。このような傾向はこれまでもあったし、今もあると思います。大会前のブログでも述べましたが、174号の「ホームルームが好き」の特集にあった永田実践以外の3つの実践にはそのような傾向を感じるのです。

つまり生活指導、集団づくりにおける、「現実についての認識の指導の問題」「学びの問題」をもっと自覚(意識化)し、さらには実践しようということなのです。そうすることで、生活指導実践の「行き詰まり」(行き詰まっているのか行き詰まっていないのかということ自体がまた議論になりそうですが・・・・)を打開できると考えているのです。だからこそ基調の題名を「いま高校教育実践に必要なことは何か?」としたのです。

教師と生徒の間の共感的共闘的関係を基盤としつつ、生徒たちとともに、「教師の認識の提起」もおこないながら、現実を「認識、意識化」させるように指導する。そして、そのような「認識、意識化」は、新しい現実を作り出す「行動」を生み出す。新しい現実を作り出す「行動」によって「関係性」が変革されていき、その変革された「関係性」がさらに現実についての「認識、意識化」を深めていく。そのような循環の中で思想と行動能力(スキル)の統一体としての人格(市民性)が成長していく。子どもが育っていく。基調で述べたこのような筋道は、今回の全国大会で私が参加した分科会の中順子さんや鈴木ひろ子さんの実践にもはっきりと見ることができると私は考えています。

佐藤さん、いかがでしょうか?また、その他の読者の方からもご意見をいただければ幸いです。


テーマ:

 岡村さん。「コメント」欄への応答ありがとうございます。応答があることは知っていましたが、お盆休みぼけでエンジンがかからず遅くなり申し訳ありません。
大阪の佐藤さんへの応答も先日、竹内塾のあとの飲み会で言明したのに遅れています。佐藤さん少し待ってください。
 今回は岡村さんへの応答です。

 三重の学習会でも話題になったことですが、基調ではふれなかったことがあります。それは「管理」の問題です。土居さんも、いじめをめぐる討議の最初の部分で「反省できないなら仕方がない。学校からは退学してもらう。そのうち一平君の父さんはいじめた子を見つけ出すだろう。」と半分脅しのようなことばをクラスに投げかけています。
 土居さんがここでしていることは、(井沼基調でも「管理的公共空間」ということばが使われていましたが、)私のことばで言うならば(いや以前から使われてきたことばでもあると思いますが)、「必要な管理」ということだと思います。「管理」とは生徒が「納得」しようがしまいが、有無を言わさず「権力」的にしたがわせることでしょう。「政治」とは「集団の統治作用のこと、利害の対立などを調整・統合すること」であるとするならば、管理もある種の政治の側面だといってよいでしょう。(管理がどういう場合に必要になるかについては、実践的にも理論的にも今後、もっと明瞭にされるべきだと思いますが。)
 生徒たちは、先の土居さんのことばと姿勢を感じて、「これから始まる討論はただごとではないぞ」「逃げられないぞ」と身構えたのではないでしょうか?しかし、そのことばと姿勢で、生徒たちが、ただちにいじめの問題性について「納得」したわけではありません。管理は「時おさえ(一時的な歯止め)」であって管理で人は育たないからです。「指導」とは人を「納得」させてしたがわせることとするならば、この時点ではまだ「指導」は成立していないのです。その意味では、「教師の側の毅然とした態度が『ちから(権力)』(ちからと権力は分けた方がいいと思いますが。)としてあって、その上で生徒と対話討議していくというものではなかったでしょうか」という岡村さんの指摘はその通りだと思います。
 それでは、どこで指導が成立したのか、どこで生徒が納得したのでしょうか?それは基調で述べたように共感的共闘的関係を基盤(前提条件)とした、土居さんの「認識の指導と行動の指導」、すなわち「現実を明らかにする対話(討議)の指導」、あえて言うなら「学びの指導」においてなのだと考えます。

私の理解では、土居さんの最初の毅然とした態度とことば(「反省できないなら退学だ」)は「必要な管理」「権力の行使」を行ったものでそれはある種の政治的な行為です。
しかしその後の討論の中で示され、基調でも丁寧に追ってきた語りや意味づけは、「集団の統治作用、利害の対立などを調整・統合する」という政治的な行為ではなく、あえて言うならば道徳を問う行為(良心を問う行為。もちろん抽象的観念的な良心を問うのではなく自分たちのおかれた現実とその現実にかかわる自己を問う形で良心を問う行為)だと考えます。(ここでは「政治」と対比させるためにあえて「道徳」という危なっかしいことばを使いますが、ここで言う道徳とは、「良心にもとづく内面的なるもの」としておきます。)岡村さんが「共闘」を良心的な言葉と捉えておられるのはその意味で正しい。
 このように「必要な管理」「権力の行使」と「共闘」はまったく違うと考えます。

確かに価値の複数性に開かれることの重要性を考えると、教師と生徒たちとの関係性、さらに生徒同士の関係性を政治的関係性であると捉えること、教育実践を「統治」(政治)としての側面から見ることは大切な視点であると思います。「交渉」とか「ライバルとして遇する」「切磋琢磨」とかいった観点は重要だと思います。岡村さんの基調はそのことを指摘しているわけですね。
 共感とか共闘ということばは押し付けがましく暑苦しいことばになりかねないものだと思います。だからこそこれは以前に言ったと思いますが、相互に主体性を担保する「呼びかけと応答の関係」が必要なのだと思います。これはひょっとしたら絹村基調の言う「間」の問題かもしれません。

それはさておき、教育を、政治の側面から見るだけで、生徒は育つのでしょうか?生徒の内面に迫る必要があるのではないでしょうか?岡村さんの論でいくと、教師の側の毅然とした態度のみが、生徒を変えたということにはならないでしょうか?最初の部分でも述べたように、教師の毅然とした態度は、必要な管理をおこなうためになされたものだと考えます。
 政治教育と道徳教育の結合が必要なのではないでしょうか?教育実践の場を政治空間として捉えることの重要性はよくわかりますが、それだけでは足らないように思えるのです。つまり生徒の内面に迫る必要があると思うのです。そのことを基調では実践をもとに論証したつもりです。
いずれにしても、岡村さんの応答に応答する中で自分でも見えてきた部分があります。岡村さん、ほんとうにありがとうございます。岡村基調をまだ十分理解していない面があるかもしれませんがその点はお許しください。
また、この応援ブログが今後も「討議空間」になることを期待します。
最後に、このブログを読まれている他の方にも応答も呼びかけて、とりあえずの応答とします。


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大阪の牧口です。おととい、やっと大阪に帰って来ました。初めて参加させていただいた高生研の全国大会でしたが、青森の皆さんに大変お世話になり、感謝の言葉もありません。お礼というわけでもありませんが、最終日に聞いていただいた即興の歌の歌詞を載せさせていただきます。皆さん、本当にありがとうございました。

  北の森讃歌


涼やかな 北の大地 青き森の街で
この夏の一時を 共に過ごした日々
温かな微笑みに 心励まされて
それぞれの生きる場所へ もう一度帰る

濃厚な一日が今日も過ぎてゆく
真剣な話し合いと弾ける交流会
三味線の力強さ 手踊りの魅力
遠くから打ち寄せる ねぶたのリズム

名残りは尽きぬままに明日は海を渡る
さようなら青森よ また会おう大阪で

(2008年08月24日 11時59分54秒)



☆青森高生研のブログに大阪の牧口先生が上記のコメントを書いてくれました。

こちらの応援ブログに転記しました。

そしてお願いしていた、あの歌を載せてくれました。

また涙が出ちゃいました。音譜


来年は熱い大阪でみんなと再会するぞ~。


青森のよっし~(*^-^*)

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