1年で高校を辞め、その10年後に水商売をしながら高卒資格を取り、そのまた7年後には大卒でなければ就職できないような会社に入社し、地方への転勤も経験し、結婚と同時に海外へ移住した今だからこそ思うことなどを大幅に書き足した。

やりたい事が見つからないとか、今やっていることに疑問があるとか、いくつになろうとも人間にはそれぞれ様々な悩みがあるだろう。
そんな時にたまたま通りかかって目にしたこのブログを少しでも参考にしていただけるのであれば、私の苦労も思い悩んだあの日々も、決して無駄にはならないと思う。

だからこうして書き留めておく。




おわり。




この写真展から12年が経つが、未だに途方に暮れ続けている。

しかし、この頃とは確実に変わった部分もある。

情報貧民であることからは抜け出せた。

それをもたらした書籍などについても、このブログで少しずつ紹介していこうと思う。


終わり。





2012年頃、五反田で長年勤めたニュークラブ(キャバクラ)を辞め、銀座のニュークラブで働き始めた。

この時既に31歳。


まさか自分が銀座に移籍するとは思ってもみなかったが、これまでこの世界でやってきたこと、自分の力を銀座で試してみたい、と思うようになった。

さすがに一生この世界に身を置くつもりはないが、やってきたからにはその世界の最上級の街で、できれば老舗の高級クラブで働いてみたい。


しかし、ポケットマネーで遊ぶ人が多かった五反田から、会社の経費で遊ぶ人が多い銀座にお客を引っ張ることは難しいだろう。

いきなり高級クラブに移籍するよりも、まずは銀座のニュークラブ(キャバクラ)でお客を掴んでから。


6年前に五反田の店を紹介してくれたスカウトの方に、久しぶりに連絡をした。


いくつか店を紹介され、最終的にオープンしてまだ2~3年の新しい店に在籍することとなった。





店内は高級感があり、ホステスもやはり他の繁華街とは雰囲気が違う。

お客さんの質は私が働き始めた景気の良い頃の五反田の客質と近い。


この店には2年、在籍した。


そして、そろそろ老舗の高級クラブで働きたいなと思い始めたちょうどその頃、見知らぬスカウトの男性に銀座で声を掛けられた。

話を聞くとまさに私が探していた老舗の高級クラブらしい。

すぐに面接と体験入店をして、その店に移籍した。










この店では本当に多くのことを学んだし、良い出会いもたくさんあった。

しかし、この店が最後の店だと思っていた。


当てなど全くなかったが、将来自分の店を持ちたいとも思わないし、つまりずっとこの世界に身を置くつもりはなかったので、水商売から足を洗う方法も常に模索していた。





そしてある時、一緒に働いていた女性の紹介で、とある企業で事務兼秘書業務をさせてもらえることになった。


3ヶ月間は研修期間ということで、それを経てからもう一度契約について話し合うことになっていた。が、この会社の社長がかなりブラックな人だったので、私は働き始めてすぐに「この会社はないな」と思っていた。


どうグレーだったかというと、住み込みで家政婦をさせるために書類を偽装し、フィリピンから労働者を日本に来させようとするような人間だった。

しかもその話しを平気で私たちの前でした。


「ああ、じゃあその書類を偽装すればいいわけね?」


と私や他の従業員の前で平気で電話で話していた。

この話しはほんの一例である。


この社長ときたら、私が嫌いな人間のタイプを全て併せ持ったような人物だった。



この会社で働き始めてからも、金曜日だけはクラブの方にも出勤していた。


私の事を気に入ってくれていたあるお客様が、ここのところ私が出勤していないことに気付き、わざわざ私のいる金曜日に来てくれた。


この方はとある会社の社長で、ちいママの古いお客様だった。何年か前までは頻繁に来店されていたそうだが、私が入店した頃は半年に一度くらいしか来ていなかった。


そして人見知りというか、決まったホステスとしか話さない人だった。


ある時、私が初めてこのお店で知り合ったお客様と同伴をした日に、たまたまこのお客様も来店していたのだが、私の同伴のお客様とは古くから付き合いのある間柄だったのだ。

2人は店で挨拶をし、しばらく談笑したあとゴルフの約束をして、それぞれまた別々の席で時を過ごした。


後日、このちいママのお客様が改めて来店された時、初めて私は席に着いた。


先日、私が同伴したお客様がお知り合いでした、という話しからすぐに打ち解けた。話してみるととても物腰が柔らかく、紳士で、聡明な方だった。


それ以来、そのお客様はまた週に2~3回と頻繁に来店するようになった。


知り合って間もなくは、私は毎回その方のお席に着くわけではなかったが、次第に呼んでもらえるようになった。

彼が米国人のお客様を連れて来店された時は、私は英語が少しだけできたので、毎回お席に呼ばれた。



私が昼間の仕事を始めたことを伝えると、なんだそういうつもりだったのなら、君に一軒銀座でお店を持たせて任せてみようかという話があったのに、と言われた。

光栄なお話しだが、そんな話しは全くほのめかされたこともなかったので寝耳に水だった。

そもそもこの世界でずっとやっていこうというつもりもない。

そのことを告げ、むしろ堅気のお仕事で何か私にできることはありませんか?と聞いてみた。


「実は今、うちの会社で新しい事業を立ち上げたところなんだが、人が足りていない。海外の企業とも関わる部署なので、英語ができる人を入れたいと思っていた。やってみるか?」


と言われた。


「その代わり、入社したらまずは大分へ転勤してもらうことになるけど」


とのことだった。


「全然問題ありません。大分でもどこでも行きます!」


私は即答した。




続く。




冬があり夏があり

昼と夜があり

晴れた日と雨の日があって

ひとつの花が咲くように

悲しみも苦しみもあって

私が私になってゆく




久々の"今日の富さま"。

星野富弘氏の作品との出会いは過去のブログに書いた通り。大好きな作家の一人だ。



何度でも書くが、この詩も、水彩も、口で筆を取って描いたとは思えないほど完成度が高い。




タイではあまり美術の国際的な展覧会をやらないのだが(私が知らないだけという可能性も)、日本に帰ったら久しぶりに絵画の展覧会も見に行きたい。


群馬県にある富弘美術館へもまだ行けていないので、次の日本帰国の際には是非とも行きたい。


心にしみる花のうた│星野富弘詩画集ネット富弘ネットでは詩画作家・星野富弘さんの作品をもとにしたカレンダーや絵はがき、グリーティングカード、その他関連商品のご紹介・販売しています。リンクtomihiro.net



終わり。





他の方のブログを読んで思ったのだが、自分以外の誰かの言動によって気分が変わる、という人がおられるようだが、例え良い気分に変わったのだとしても、かなり問題がある。

自分に彼氏が出来たら、昨日まで妬んでいた友達に心から「良かったね」と思えるようになった、など。

それ、異常。

全然良いことじゃない。

かなり問題だ。

天気や他人の人生の選択など、自分のコントロールの及ばない事柄でいちいち気分が良くなったり悪くなったりすることほど、無駄なことは無いと私は考える。

他人と自分を比べている限り、恋人が出来ようとも、婚約しようとも、結婚しようとも、幸せにはなれない。

他人と自分を比べることをやめると、他人に羨ましがられることなどなにもなくても、心穏やかにゆとりをもって生きていくことが出来る。

なに、比べる他人というのも、大した人間ではない。

他人というのは、実際よりも5割増くらい良く見えるものだ。

自分だってそうだろう。

他人に褒められても、「そうかな?」と思ったりする。

他人には自分も5割増で良く見えているものだ。

誰もがそのように仕向けているのだから当然だろう。

自分を見つめると、他人の実像も想像に容易い。

みんな同じようなもの。

みんな違って、所詮はみんなダメ人間なのだ。

傍からは良く見えても問題が山積みの人生。

それをひた隠して必死で綺麗な部分だけ出しているだけなのだ。





恋人ができただの、婚約しただの、そんなことで良くなる気分なら、まだ自分の中に問題は残っている。

その恋人も離れていくかもしれないし、離れたいとあなた自身が思うようになるかもしれない。

婚約もいつでも破棄できる。

結婚もそうだ。

そんな「壊れる可能性のあるもの」に自分の気分を左右されてどうする?

もしそれを失ったら、また明日から友達のことを妬んで生きていくのか?

他人よりも自分のことをもっとよく見ろ。



終わり。


美術の専門学校を辞めてから、私は水商売に戻った。


キャバクラで働きながら学校へ通っていた時分は、平日9:00-17:00 ro 18:00まで授業、そのあと20:00-2:00までキャバクラ勤務、2~3時間睡眠で起床、これを1年以上続けた結果、肉体も精神も燃え尽きてしまった。


学校へ通い始めてから、当然ながらそれまでのようには営業活動(指名客や新規で知り合ったお客にメールや電話をし、指名での来店を促す作業。営業時間よりもこちらの時間の方がよほど大事。)ができなくなり、売上も落ちていった。

そうなると学費どころか生活費まで賄えなくなってくる。

2年生に進級したものの、心身ともに限界を感じ、その夏に学校を辞めた。

体調を崩したことで仕事も休んでしまったが、1週間で復帰した。

学校を辞める時、水商売も辞めると決意したのだが、結局他にやりたい仕事もやれる仕事もなく、私はまた水商売の世界に身を置くことになる。

それから2013年の年末まで同じ店で務めた。

この店には結局、6年在籍した。




オーナーの瀧澤さんには入店当初から本当にお世話になった。
彼は努力して売上をあげる子には本当によくしてくれる人だった。


私がこの店に入店したのは、自分の25か6の誕生日の3週間ほど前だったと記憶している。

その前は、新宿歌舞伎町のキャバクラで半年間働いた。

歌舞伎町から五反田へ移籍して間もなくの誕生日だったので、あまり集客できないだろうと思っていたが、それでも営業活動は頑張った。すると前の店からのお客さんが4~5組来てくれた。

誕生日の割にはあまり集客できなかったな、同じ新宿ではなくて街が変わって五反田へ移動したのだから、まあこんなものだろう、と思った。

翌日オーナーに呼ばれ、「入店間もなくなのに誕生日の集客を頑張ったから」と、桐箱に入った私の生まれ年のスペインワインをプレゼントされた。

下記に記すように、私が赤ワイン好きだったからだ。

その日は瀧澤さんの同級生が店に来ており、その席で誕生日ワインを開け、みんなでいただいた。

とても美味しかった。

自分はキャストとして、この店に歓迎されていると感じられた。

自分の生まれ年のワインを飲んだのも、それが初めてだった。

頑張ったとはいえ、キャバクラで入店間もないキャストにここまでしてくれるオーナーはなかなかいないだろう。




それからも私は営業活動を頑張り、暫くしてその店でナンバー1になった。

キャバクラで働いてみたいという友人を瀧澤さんに紹介し、一緒に働いたこともある。
私の友人ということで、オーナーはその子にもかなり便宜をはかってくれた。

その友人とは今でも付き合いがあるが、五反田で働いていた当時の思い出話しも時々する。

彼女も、「瀧澤さんには本当に良くしてもらった。」と今でも言う。


そんな私もこの店に入店する前は五反田についてなんの知識もなく、スカウトマンから「五反田は今、なかなかアツいよ」と言われても全くピンと来なかった。





東京で夜の繁華街と言えば銀座か新宿歌舞伎町だろう。

私の顧客も歌舞伎町で知り合った人ばかりだったので、五反田まで来てくれるか心配でもあった。

しかしスカウトマンが強く勧めてくるので、とりあえず面接と体験入店をしてみることにした。

体験入店をしたのは確か2006年頃だったと記憶しているが、その頃風営法が変わり、24:00を過ぎての風俗店営業が取り締まられ始めていた。

私の在籍していた歌舞伎町のキャバクラも朝の5:00頃まで営業していた店なので、営業時間を短縮せざるをえないことから経営難になっていた。

当時歌舞伎町のどの店もやっていたことだが、警察の見回りが来ると、店内の灯りを落とし、BGMも消し、客にも協力してもらって会話を控え、既に閉店している風を装ってやり過ごしたりしていた。

そんな状況に、私としても限界を感じていた。





確かに歌舞伎町はもうヤバいしな。

スカウトマンによれば五反田はそういう取り締まりがまだ緩いようだし、お店や他のキャスト、客層をまずは見てみよう、と思ったのだ。


体験入店の日は確か木曜日だったが、開店まもなくから閉店の6:00まで、ずっと満席だった。

歌舞伎町は閑散としているのに、五反田は何なんだ!

その日1日で、私は数本の場内指名をもらい、ドリンクも少なくとも20~30杯はもらえた。

客層も客質も歌舞伎町と比べてもとても良く、気前もすこぶる良かった。

調子に乗ってグラスの赤ワインをずっと飲んでいたせいで、閉店する頃には相当酔っ払ってしまった。

後で聞くと、ボトル1本半空いたそうだ。

キャストで赤ワインを飲む子は他にいなかったので、私ひとりでそれだけ飲んだのだ。

ちなみに、オーナーはソフトドリンクを頼む子より、酒を頼む子が好きだった。
その方が会話も弾むし、酒を飲まない子よりも飲める子の方がお客も喜ぶのだ。

とはいえ、私の場合は酔ってもほとんど表に出ないし、人格もテンションも全く変わらないのだが。


とにかくその1日で、私はこの店に入店することを決めた。

その日から6年間、その店で働くこととなる。


水商売に限らず、これ以上長く同じ職場で働いた事は私にはない。

この店で稼がせてもらったからこそ、一人旅に年に何度も出掛けられたし、専門学校の入学金や1年目の授業料を貯めることができた。

旅に出る時は、当時飼っていた愛猫のテトをオーナー宅で預かってもらったりもした。

本当に本当にお世話になった。


しかし恋愛関係には一切ならなかった。

売上があるキャストはよく、オーナーと噂になったものだが(実際に何人かオーナーと付き合ったキャストもいるようだ)、私は全く噂にもならなかった。

その距離感が長く働けた秘訣だとも思う。




ちなみに、この店に入店すると決めた理由は景気の良さだけではなかった。

働いている先輩キャストがとても美しく、協調性もあり、至って普通(いわゆる水商売っぽい子もいたが見た目だけで中身は普通)で、しかもちゃんと指名を取れる子が多かったからだ。

そういう店には良いお客が集まる。

働いてみると、このお客さん何者なんだろう??と思うような、すごい金の使い方をする人も少なくなかった。

私が入店した当時のナンバー1は、月に一度しか出勤せず、その1日で何百万も売上を作っていた。

しかもほぼ1人のお客から。

毎回そのお客と同伴してきて、席に着くと高いシャンパンを入れる。

でも、2人とも一切飲まない。

グラスを10個ほど並べてそこにシャンパンを注ぎ、そのまま放置する。

お客とキャストは会話も少なく、ずっとラップトップでカードゲームをしている。

時々その子は別の指名客が来たり、フリー客に着いたりして席を立つが、ほぼほぼその珍妙なお客の売上だけで、彼女はナンバー1をずっと維持していた。

その子が辞めてから、次にナンバー1になったキャストは指名客からよく現金をもらっていた。

店の会計とは別で、テーブルで普通に渡されていたのだ。


五反田っておもしれえな。




私の顧客はといえば非常にノーマルで、客単価は低いのだがその分顧客数で勝負していた。
リーマンショック以前は平日でも1日3~4組の本指名が入っていた。

歌舞伎町時代からのお客は次第に遠のいたが、五反田で新たに掴んだ顧客に非常に助けられた。

五反田という街は周知の通り、性風俗店も多い街であるが、もうひとつの側面として当時、銀座や六本木で接待をした会社員がお客と別れたあと、仲間や後輩と飲み直すために寄る場所でもあった。


私の顧客になる人達は、普段あまりキャバクラ通いをせず、たまたま仲間と共に訪れたという人が圧倒的に多かった。
それまで指名でキャバクラに来店したこともないという人たちだ。

そういう顧客はとても息が長い。

月に一度の来店で2~3時間で帰るので、単価は高くならないが、その分毎月来てくれる人が多かったし、ご縁も数年続いた。

月に何度も来てくれたり、一度に大枚を払ってくれるいわゆる「太客」は、息の短いのが多い。

太客というのは2~3ヶ月派手に使い、ある日パタリと来なくなるか、その後は来店頻度が半年に1度くらいに下がるかのどちらかの傾向にある。

そういう客は私には滅多につかなかった。

1人だけ、「太客」といえるお客から指名をもらったことがあったが、そのお客は恋愛関係を求めてきた。

彼は独身だったのだが、私はお金のために恋愛するということがどうしても出来ない性分で、相手の気持ちに応えることができず、すぐにご縁が切れた。

「太客」の多くは恋愛関係を求めるタイプなので、色恋営業をしない私には引っ張れない("引っ張る"とは指名で定期的に来てもらうこと)のだ。

ちなみに、色恋を求めるお客ばかりの相手をしていると、キャストは精神的に病んでいく傾向にある。

お客に必要以上の嘘を突き続けることや本来の自分とは違うキャラクターを演じること、疑似恋愛的関係をビジネスのために維持しようとすることとは、精神的にかなりシンドいのだ。
それは水商売に限った話しではないのかもしれない。

それでなくても、日頃から仕事で不特定多数のお客と会話をし、時には心ない言葉を浴びせられたり、セクハラされたりして、ただでさえ心身ともに参ることもある業界だ。


五反田に限らず、更衣室で精神安定剤を飲むキャストを、私は何人も見てきた。


彼女らは仕事から帰っても安らげないのだ。


毎晩眠ることすらままならず、精神安定剤を服用している子は高い確率で睡眠薬も常用していた。

待機中に彼女らから、様々なお薬の名前とその効能について学んだ。

それまで「メンヘラ」や「OD(オーバードーズ)」という言葉すら知らなかったが、一緒に働いていた女の子から教わった。


とにかく、水商売とは人によって非常に病みやすい職業であることも間違いない。

美しいドレスを毎晩着て、綺麗にヘアメイクをし、高い時給を貰っても、犠牲にするものは対価以上に大きい。




それでも病まずに私が10年以上も水商売を続けてこられたのは、クソ客には啖呵を切れる怖いもの知らずな性格と、やはり自身の顧客の質の良さのおかげだったろうと思う。

私も自分なりに彼らに誠意を尽くして接していた。

水商売を辞めてからもそうだ。

五反田で知り合った顧客の何人かには、昨年結婚したことを報告した。


多くの顧客が今では連絡先もわからなくなっているが、彼らにはいまだに感謝の気持ちでいっぱいだ。

顧客だけでなく、店のオーナーや良くしてくれた歴代店長、従業員、仲良くしてくれたキャスト、指名してくれた顧客の皆さんには、本当に本当に感謝してもしきれない。


それでも自分のこともよくわかっていたので、年齢的に、体力的に、この仕事を40、50になっても続けられるとは思っていなかった。

いつかはこの世界から足を洗わねばならないと、30手前頃から考え始めていた。

だからこそ高卒認定試験を受け、専門学校へ通おうと思ったわけだ。


その経緯や顛末は過去に書かせていただいた。




学校を辞めた時は昼間の仕事を探していたのだが、高卒認定を取得したとはいえ、家賃や他の生活費、趣味のLIVE鑑賞のためのチケット代やその旅費を十分に賄える仕事は見つからなかった。

昼間の仕事を探しつつも、私はまた学校へ通う前と同じように、毎晩五反田のお店に出勤した。


しかしそんな五反田の街も、次第に輝きを失っていった。


歌舞伎町を見限って五反田へやってきたあの時のように、私は五反田を見限って、銀座のクラブへ移籍した。





続く。


9月21日、大阪ロフトプラスワンウエストで行われた上杉昇のLIVEをバンコクからオンラインで鑑賞した。

本当は会場に行きたかったが、コロナ禍で日本帰国もままならない中、LIVEの配信があると知りチケットを購入した。

彼のLIVEをリアルタイムで鑑賞したのはこれが初めてだ。

現地で参加できなかったものの、やはりLIVEはイイ!

ここ6~7年はLIVE自体行っていなかった。




上杉昇の楽曲はやはりLIVEで聴きたい。

LIVE向きの曲が多いように感じていたからだ。



今回は喉のコンディションが良くなかったようだが、そのことをいつの間にか観客に忘れさせるような魂のこもった力強い歌声だった。

タイトルは不明だが新曲も披露してくれた。


最後の「FROZEN WORLD」まで歌いきり
アンコールは「防空壕」。



持ち歌だけでなくCOVER曲もたくさん披露してくれた。
中でもさだまさしの「防人の詩」は嬉しい衝撃、いや昇撃(造語)だった!


ブログでも取り上げたことのある、大好きなあのさだまさしの名曲を、上杉昇の歌声で聴ける日がくるとは...!

生きてみるものである。




配信LIVEは初めて体験したが、途中音が途切れることが何度かあったのは残念だった。

しかしいい時代になったものだ。
世界中どこに居ようとも観たいLIVEが鑑賞出来るのだから。


コロナ禍にはほとほとうんざりしているが、テクノロジーがここまで進んでいなければ人類はもっと退屈を強いられていたことだろう。



いつになるかはわからないが、近い将来、上杉昇のLIVEを会場で鑑賞したい。



今の私の夢だ。



今夜は同じ会場でトークライブが行われる。
そちらのチケットも購入済みである。




Show Wesugi 
ACT AGAINST COVID-19

21th Sep 2020
Osaka Loft PlusOne West 

SETLIST
1. 消滅
2. 青き前夜
3. 赤い花咲く頃には
4. Survivor's Guilt
5. たとえばぼくが死んだら/森田童子
6. 吹雪/中島みゆき
7. ばいばいどくおぶざべい/中島みゆき
8. 東京の空/小田和正
9. ジャングルジム/五輪真弓
10. 防人の詩/さだまさし
11. 友よ/岡林信康
12. 昭和/長渕剛
13. (タイトル不明) 濫觴 (新曲)
14. FROZEN WORLD

ENCORE
15. 防空壕


終わり。

(加筆 29th Sep 2020)


キャバクラで働きながらオンラインで勉強し、27歳で高卒認定試験を受け、4年制の美術の専門学校に入学し、燃え尽きてその学校を辞めてから、もう丸10年が経った。


その後Twitterを始め、アメブロからすっかり足が遠のいていた。


最近ふと思い立ち、過去の自分のブログを読み返してみた。


稚拙で赤面する部分も多いとはいえ、あの頃から人間は変わってねえんだなあ、としみじみ感じる。


後で自分の文章を読み返すと「はっ」とすることがあるが、様々なことを感じ出てきた言葉を後になって読むと、不思議と新鮮な驚きすら感じる。

時間を経て、あの思いは自分の中で消化され、エモーショナルな部分だけが残っているが、それを改めて文章で読むと、当時の事が鮮明に思い出される。


自分のブログをあとで読むのもなかなか面白いものだ。


今書いているこの文章も、10年後に読んだらどんなだろうか。




前置きが長くなったが、アメブロから離れていた10年間のことを日記的に書いてみようと思う。


あれからも色々な事があった。

いい事も悪いことも色々な事が。


鮮明なうちに書き残しておきたい。


結末から先に書くと、今は伴侶とテトによく似た茶トラのもんじろうと共に、タイのバンコクでとても穏やかに、幸せに暮らしている。


だからこそ、またブログを書こうという気持ちにもなれたのかもしれない。


このブログを書き始めた頃は20代中頃だったが、私も来年の3月で40歳になる。


人生もそろそろ半分くらいに差し掛かったころだろうか。


もうさすがに大きな波乱はないだろう、なんとなくそんな風に思っても、最後の最後まで人生とはわからないものである。


どうしてこんなにドラマがあるのか。

もう十分なのに。

いくらそう思おうと天は容赦ないのである。


と書くと、物凄く大変な、不幸な10年だったのかと思われそうだが、基本的にはなかなか面白い10年間であったと思う。


誰に読まれてもいい。

誰にも読まれなくてもいい。


ただ淡々と書いていこうと思う。





終わり。






私のハードロック・ヘヴィメタル好きはもう、生まれ持ったものだろうと思う。



家族や友人など、私の周囲で誰も聴いていなかった。



中学一年生の時、B'zの "Don't Leave Me" を聴いて、めちゃくちゃカッコイイ曲だと思ったのが始まり。



それまでB'zPopな曲が多かったが、この曲はなんか雰囲気が違ってカッコイイな!と思った。



Popな頃からのB'zファンの中には、この曲やアルバム「The 7th Blues」の時代をB'zの暗黒時代』と呼ぶ者もいるが、今でも「The 7th Blues」はよく聴くアルバムだ。


紛うことなき名盤だと思う。





私が "Don't Leave Me" でB'zに興味を持ち始めた頃、同じ部活の友人が突然「B'zファンを辞める」と言い出した。



理由は稲葉浩志が結婚したからだった。



しょうもない理由だが、中学生の好き嫌いなどそんなものである。



私にとっては結果的にラッキーだった。



彼女はそれまでに買い集めた全てのB'zのシングル・アルバムCDやVHS、雑誌の切り抜きなどを全て私にタダでくれた。


デビュー曲から「The 7th Blues」まで、私はなんの苦労もなく一度に手に入れることが出来たのだ。



彼女はB'zの音楽ではなく、稲葉浩志が好きだったのだろう。


まだリリースほやほやのアルバムまでためらいなくくれるとは。


2枚組なので中学生にとっては結構お高いアルバムなのに。





もしかしたら私から多少お金を払ったのかもしれないが、だとしても記憶に残らないほどの少額だったろう。



B'zだけでなく、当時はいわゆるヴィジュアル系バンドのブームだったこともあって、他のバンドもよく聴いていた。



今でも聴いている。



またあの『暗黒時代』が日本の音楽シーンに来ないものか。







終わり。



最近、上杉昇のファンクラブに入会した。


ここ10年くらいは特別誰かのファンになるということもなく過ごしていた。

それなのに、突然また上杉昇熱が再燃したのである。

自分でもなぜだかわからない。

思い当たるきっかけは特にない。

偶然昔の曲を耳にして好きだったことを思い出したとか、そういうことでもなかった。


なぜ急に再燃したのか全くの謎である。
(何か降りてきたのか)


しかしずっと好きだったのだ。


中学・高校時代に聴いていた曲は今でもよく聴く。

その頃の上杉昇はWANDSとして活動していた。

いつの間にか脱退してしまって、突然いなくなってしまった、当時はそういう印象だった。


とにかく今、上杉昇に注目している。


とはいえまだまだコロナ禍であるし、私は日本に住んでいないので今年のLIVEに行くことはできない。

日本に住んでいたら絶対に行くのにな。


思えばLIVE通い自体しなくなって久しい。

10年ほど前までは、とにかく様々なアーティストのLIVEに赴いた。

年間少なくとも5~6回は行っていたのではないか。小さなライブハウスも合わせれば、多いときは月に2~3回行くこともあった。

今でもYouTubeなどでLIVE映像を観るのは好きだが、自分で会場に行こうという元気は数年前からなくなり、LIVE仲間ともすっかり疎遠になってしまった。

あんなに好きだった音楽も、ここ数年は昔ほどは聴かなくなっていた。

それが上杉昇熱再燃で、また毎日音楽をたくさん聴くようになったのだ。


最初に上杉昇のファンになったのは中学生か高校生の時だった。

小学生の頃からWANDSは売れていたので、もちろん楽曲は知っていたし普通に好きだった。

両親も車の中で聴いていた。

様々なアーティストの曲を集めたカセットテープの中に、WANDSの曲もいくつか入っていたのをはっきりと覚えている。


自分の中で「結構好きなアーティスト」から、「特別好きなアーティスト」にWANDSが昇格したのは、"Secret Night~It's My Treat~" という曲を聴いた時だった。


衝撃的だった。


え?

これWANDS?

これまでと全然違う。

なにこの曲!

超カッチョイイ!!

上杉さんシャウトしてるし!

今までと違う!

メチャかっちょいいじゃん!!


と、この曲が収録されているアルバム「PIECE OF MY SOUL」を買った。


実はこのアルバム、私が自分のお小遣いで初めて買ったCDなのだ。


いつもCDはレンタルか、親が買ったものを借りて聴いていた。


アルバムの1曲目から期待通り。

完全にノックアウトされてしまった。


"FLOWER"


この曲ホントにカッコイイ。

えーどうしたWANDS!(褒めている)

これまでと全然違うじゃん!

めちゃハードロック!

こういうの聴きたかったし!


夢中で聴いた。

今聴いてもやっぱりイイ。


「PIECE OF MY SOUL」は本当に名盤だと思う。


普通、音楽を聴く時は、どんなに好きなアーティストのアルバムでもお気に入りの数曲だけ聴いて、後は別のアルバムや別のアーティストの曲に行ってしまうのだが、この「PIECE OF MY SOUL」は最初から最後まで聴いてしまう。


上杉昇のソロのLIVEでも "FLOWER" などこのアルバムの曲を今でもいくつか演るそうだ。


上杉さん、やっぱわかってんなー!

というか、彼自身が好きな曲だから演っているのだろう。


自分を含め、WANDSを脱退した後も上杉昇ファンでいる人間も絶対"FLOWER"は好きですよ。

あの路線でずっと行って欲しかったし、次のアルバムも期待していたのだが、それは幻となってしまった。

その後、上杉昇はWANDSを脱退し、al.ni.coや猫騙を経て現在はソロ活動を行っている。

脱退後の路線こそが、上杉さんがデビュー当時から本当にやりたいことだったのだ。
WANDS時代最後にして名盤のPIECE OF MY SOULも、かなりやりたいようにやれていた、と後に語られている。

あの頃は自分も高校生だったし、本当に情報に乏しくて事情を全く知る由もなかった
最近になって自伝本を読んだりして、やっと追いついてきた格好だ。

もっと早く再燃したかった。
もっと前からリアルタイムで応援したかった。

今になって思う。

遅れて来てしまい、申し訳ございません。

コロナ禍が終息し、また気軽に日本へ戻れるようになった暁には、ぜひ上杉昇のLIVEに赴きたい。


それまでは異国の地から細々とではあるが、応援していこう。






終わり。