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2012年頃、五反田で長年勤めたニュークラブ(キャバクラ)を辞め、銀座のニュークラブで働き始めた。
この時既に31歳。
まさか自分が銀座に移籍するとは思ってもみなかったが、これまでこの世界でやってきたこと、自分の力を銀座で試してみたい、と思うようになった。
さすがに一生この世界に身を置くつもりはないが、やってきたからにはその世界の最上級の街で、できれば老舗の高級クラブで働いてみたい。
しかし、ポケットマネーで遊ぶ人が多かった五反田から、会社の経費で遊ぶ人が多い銀座にお客を引っ張ることは難しいだろう。
いきなり高級クラブに移籍するよりも、まずは銀座のニュークラブ(キャバクラ)でお客を掴んでから。
6年前に五反田の店を紹介してくれたスカウトの方に、久しぶりに連絡をした。
いくつか店を紹介され、最終的にオープンしてまだ2~3年の新しい店に在籍することとなった。
店内は高級感があり、ホステスもやはり他の繁華街とは雰囲気が違う。
お客さんの質は私が働き始めた景気の良い頃の五反田の客質と近い。
この店には2年、在籍した。
そして、そろそろ老舗の高級クラブで働きたいなと思い始めたちょうどその頃、見知らぬスカウトの男性に銀座で声を掛けられた。
話を聞くとまさに私が探していた老舗の高級クラブらしい。
すぐに面接と体験入店をして、その店に移籍した。
この店では本当に多くのことを学んだし、良い出会いもたくさんあった。
しかし、この店が最後の店だと思っていた。
当てなど全くなかったが、将来自分の店を持ちたいとも思わないし、つまりずっとこの世界に身を置くつもりはなかったので、水商売から足を洗う方法も常に模索していた。
そしてある時、一緒に働いていた女性の紹介で、とある企業で事務兼秘書業務をさせてもらえることになった。
3ヶ月間は研修期間ということで、それを経てからもう一度契約について話し合うことになっていた。が、この会社の社長がかなりブラックな人だったので、私は働き始めてすぐに「この会社はないな」と思っていた。
どうグレーだったかというと、住み込みで家政婦をさせるために書類を偽装し、フィリピンから労働者を日本に来させようとするような人間だった。
しかもその話しを平気で私たちの前でした。
「ああ、じゃあその書類を偽装すればいいわけね?」
と私や他の従業員の前で平気で電話で話していた。
この話しはほんの一例である。
この社長ときたら、私が嫌いな人間のタイプを全て併せ持ったような人物だった。
この会社で働き始めてからも、金曜日だけはクラブの方にも出勤していた。
私の事を気に入ってくれていたあるお客様が、ここのところ私が出勤していないことに気付き、わざわざ私のいる金曜日に来てくれた。
この方はとある会社の社長で、ちいママの古いお客様だった。何年か前までは頻繁に来店されていたそうだが、私が入店した頃は半年に一度くらいしか来ていなかった。
そして人見知りというか、決まったホステスとしか話さない人だった。
ある時、私が初めてこのお店で知り合ったお客様と同伴をした日に、たまたまこのお客様も来店していたのだが、私の同伴のお客様とは古くから付き合いのある間柄だったのだ。
2人は店で挨拶をし、しばらく談笑したあとゴルフの約束をして、それぞれまた別々の席で時を過ごした。
後日、このちいママのお客様が改めて来店された時、初めて私は席に着いた。
先日、私が同伴したお客様がお知り合いでした、という話しからすぐに打ち解けた。話してみるととても物腰が柔らかく、紳士で、聡明な方だった。
それ以来、そのお客様はまた週に2~3回と頻繁に来店するようになった。
知り合って間もなくは、私は毎回その方のお席に着くわけではなかったが、次第に呼んでもらえるようになった。
彼が米国人のお客様を連れて来店された時は、私は英語が少しだけできたので、毎回お席に呼ばれた。
私が昼間の仕事を始めたことを伝えると、なんだそういうつもりだったのなら、君に一軒銀座でお店を持たせて任せてみようかという話があったのに、と言われた。
光栄なお話しだが、そんな話しは全くほのめかされたこともなかったので寝耳に水だった。
そもそもこの世界でずっとやっていこうというつもりもない。
そのことを告げ、むしろ堅気のお仕事で何か私にできることはありませんか?と聞いてみた。
「実は今、うちの会社で新しい事業を立ち上げたところなんだが、人が足りていない。海外の企業とも関わる部署なので、英語ができる人を入れたいと思っていた。やってみるか?」
と言われた。
「その代わり、入社したらまずは大分へ転勤してもらうことになるけど」
とのことだった。
「全然問題ありません。大分でもどこでも行きます!」
私は即答した。
続く。
何度でも書くが、この詩も、水彩も、口で筆を取って描いたとは思えないほど完成度が高い。
タイではあまり美術の国際的な展覧会をやらないのだが(私が知らないだけという可能性も)、日本に帰ったら久しぶりに絵画の展覧会も見に行きたい。
群馬県にある富弘美術館へもまだ行けていないので、次の日本帰国の際には是非とも行きたい。
終わり。
美術の専門学校を辞めてから、私は水商売に戻った。
キャバクラで働きながら学校へ通っていた時分は、平日9:00-17:00 ro 18:00まで授業、そのあと20:00-2:00までキャバクラ勤務、2~3時間睡眠で起床、これを1年以上続けた結果、肉体も精神も燃え尽きてしまった。
私のハードロック・ヘヴィメタル好きはもう、生まれ持ったものだろうと思う。
家族や友人など、私の周囲で誰も聴いていなかった。
中学一年生の時、B'zの "Don't Leave Me" を聴いて、めちゃくちゃカッコイイ曲だと思ったのが始まり。
それまでB'zはPopな曲が多かったが、この曲はなんか雰囲気が違ってカッコイイな!と思った。
Popな頃からのB'zファンの中には、この曲やアルバム「The 7th Blues」の時代を『B'zの暗黒時代』と呼ぶ者もいるが、今でも「The 7th Blues」はよく聴くアルバムだ。
紛うことなき名盤だと思う。
私が "Don't Leave Me" でB'zに興味を持ち始めた頃、同じ部活の友人が突然「B'zファンを辞める」と言い出した。
理由は稲葉浩志が結婚したからだった。
しょうもない理由だが、中学生の好き嫌いなどそんなものである。
私にとっては結果的にラッキーだった。
彼女はそれまでに買い集めた全てのB'zのシングル・アルバムCDやVHS、雑誌の切り抜きなどを全て私にタダでくれた。
デビュー曲から「The 7th Blues」まで、私はなんの苦労もなく一度に手に入れることが出来たのだ。
彼女はB'zの音楽ではなく、稲葉浩志が好きだったのだろう。
まだリリースほやほやのアルバムまでためらいなくくれるとは。
2枚組なので中学生にとっては結構お高いアルバムなのに。
もしかしたら私から多少お金を払ったのかもしれないが、だとしても記憶に残らないほどの少額だったろう。
B'zだけでなく、当時はいわゆるヴィジュアル系バンドのブームだったこともあって、他のバンドもよく聴いていた。
今でも聴いている。
またあの『暗黒時代』が日本の音楽シーンに来ないものか。
終わり。