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長尾政景公墓所(長尾政景)

2012-05-02 16:00:00 テーマ:武将の墓巡り (新潟県)

だいぶ間があいちゃいましたね∑(゚Д゚)月日が経つのは早いもので…

書いてない間もいろいろな史跡巡りしてネタはあるんですけどね~(-。-;)



今回は上杉景勝の父、長尾政景の墓所がある「道宗塚(長尾政景公墓所)」、旧龍言寺を紹介します寺



場所は新潟県南魚沼市でJR上越線 塩沢駅より車で10分以内。車だと関越自動車道、六日町インターから車で10分くらいでしょうか。

近くには坂戸城址や、少し行ったら「雲洞庵の土踏んだか」で有名な雲洞庵があります。

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(雲洞庵)


ここに行ったのは4年前?「天地人」が放映された時に行ったのですが、まぁ~風情のあること!!

加藤清史朗君演じる与六(兼続)が「こんなところに来とうはなかった」の「こんなところ」です。まぁ当時は立派じゃなかったかもしれないけど、今は見ごたえありです。



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拝観料は大人300円で御堂内や併設されている資料館を見学することが出来ます。

資料館の中には直江兼続や上杉景勝の文書があり、確か宇佐美定満の遺体を運んだ木の棺などがあった気がします。


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上の部屋で与六(兼続)と喜平次(景勝)が修行したらしいです。


と、話が脱線したので戻すと、長尾政景の墓所がある「長尾政景公墓所」、は坂土城の麓にあり、もともと龍言寺と言う上田長尾家の菩提寺があったそうです。しかし上杉家が転封されると寺も米沢に移転し無くなったみたいです。


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(直江兼続の供養塔)


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(上田長尾家六代の供養塔)


「天地人」効果でしょうか?真新しい兼続の供養塔や上田長尾氏の供養塔もあります。
奥から順に、四代長尾越前守房長、二代長尾肥前守房景、初代長尾兵庫助景実、三代長尾肥前守顕吉、六代上杉中納言景勝です。この手前に兼続の供養塔があります。


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(上杉景勝の供養塔)


これら上田長尾家&直江兼続の供養墓の左の方に行くと長尾政景の墓がありますお墓



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越後長尾家は三家あり、初代長尾景恒が越後守護代として入府し、その子供達がそれぞれ家を興し三家に別れたことから始まります。



上田荘(南魚沼)周辺を治めた『上田長尾家』、古志郡(長岡市)周辺を治めた『古志長尾家』、蒲原郡三条(三条市)周辺を治めた『三条長尾家』、また三条長尾家は代々越後守護代職を世襲して越後府中に拠点を置いたため『府中(府内)長尾家』と呼ばれています。



これら三家は度々争い、謙信の父、為景の婚姻施策でいったんは収まります。

その後府中長尾家は謙信が上杉憲政から上杉性をもらうと後継をたてなかったため断絶。

上田長尾家は景勝が謙信の養子になり上杉性を継承、後継をたてなかったため断絶。(府中長尾家と上田長尾家の統合)

古志長尾家は景信が「御館の乱」で景勝と敵対したため滅亡。




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(長尾政景の墓)


上田長尾家の政景も謙信の家督相続に不満を持ち敵対したりしましたが、謙信により抑えられ以後は重臣となったそうです。

しかし永禄7(1564)年7月5日、坂戸城の麓にある野尻池(現、銭渕公園)で宇佐美定満と舟遊び中に船が転覆し溺死したそうです。

その死因にも諸説あり、舟遊び中に酒に酔いすぎて池に落ち溺死説。また上の二人に同船していた国分彦五郎の母の後日談で政景の遺骸の肩下に刀傷があったと言われています。このことから、謙信の命を受けた定満が暗殺した説、もしくは単独説、死んだ場所も長野県の野尻湖ではないかとも言われています。(付近に宇佐美の鎧塚、政景の墓所あり)


大河ドラマの「天地人」では謙信密命説っぽかったですね。幼少期の喜平次が謙信を恨んでましたし。



上の写真の墓はおそらく後世に建てられた墓石ですが、この後ろに景勝が御館の乱勝利後に建てた墓があることからやはり政景の本墓はここなのでしょうか?



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(野尻池=銭渕公園)


坂戸城下に野尻池があるのですが、当時の池は土砂崩れによって埋もれてしまったそうです。

今の池は人工池として整備され銭渕公園となっています。


体力があったら是非坂戸城にも登ってみてください山

雲洞庵はお勧めです寺



次は何書こう...



そろそろ限定記事書いてみようひらめき電球

それではここらへんで。。。ドロン忍者

鉢形城

2012-02-11 06:00:00 テーマ:日本100名城
前回、北条氏邦のお墓を紹介したので、今回は日本100名城に選定されている「鉢形城」を紹介します城


住所は埼玉県大里郡寄居町鉢形2496-2です。アクセスはJR八高線・秩父鉄道線・東武東上線 寄居駅下車。徒歩では約25分。東秩父村営バス「和紙の里行き」では約5分「鉢形城歴史館前」下車、徒歩約5分で、車では関越自動車道花園ICから国道140号バイパスで秩父・長瀞方面へ約6km/15分だそうです。車
駐車場も「鉢形城歴史館」に置けるので安心です。


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上の写真が三の曲輪に復元された四脚門。これは「洛中洛外図屏風」に描かれている細川管領邸を参考に造ったらしいです凱旋門
最近、「ザ・今夜はヒストリー」と言う歴史番組でこの門の前での収録が多い気がしますTV


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(復元された石垣土塁)

鉢形城は文明5(1473)年に関東における下克上のさきがけ、長尾景春によって築城されたとしています。
立地的に見ると、荒川と深沢川の合流地点にある崖の上にあり、攻め難く、まさに天然の要塞です。

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(対岸から見た鉢形城、こちら側からは攻め難い)


グーグルアースの航空写真でこの地を見てみても分かりますが、遠く関東平野の先、西には武田、北には上杉と両氏の侵攻を妨げるためには良い立地です。(現に北条氏が鉢形城を領有しているときに武田、上杉両氏に攻められている)
この事からもこの付近では扇谷上杉氏、山内上杉氏の熾烈な戦いが繰り広げられ、北条氏が領有すると上野国、下野国への侵攻拠点となります。


天正18(1590)年の秀吉による小田原攻めが始まると豊臣連合軍約35000人の包囲に対し、北条軍は約3000人で鉢形城を守ることになります。
しかし北条軍は多勢に無勢、一ヶ月籠城に持ちこたえたものの開城してしまいます。


以後、徳川氏が関東に入ると鉢形城は廃城、代官による統治が始まります。

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(遠くから馬出、三の曲輪を眺める)

この写真を撮ったところは農地になっていますが、所々に遺構が残っていて面白いです。
線路とか通って跡形も無い所もありますが、整備されていない細かなところを見ると土塁、石垣もあります。思いがけない所にちらほらと。

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鉢形城についてまったく知らなくても鉢形城歴史館でじっくり学んでから見学すれば知識も深まりますし、遺構の位置も分かるので是非見学をお勧めします。
歴史観は200円で100名城スタンプもここの受付にあります。館内には出土物を展示してはいなく、パネルや縮小模型、パソコンで鉢形城を紹介しています。


館内は小さいので、歴史にまったく興味ない人は5分で出てこれます。興味があり時間のある人は是非、パソコンをいじってみてください。北条氏関係の古文書や出土物の詳しい情報が調べられます。


ここまで軽く鉢形城を説明しましたが、本当はもっと城の遺構の写真を載せたかったんですけど、紹介したい事があるのでここらへんにします。
まずは下の動画を見てください。





これは「寄居北条まつり」と言って例年4月の第2日曜日に行われる祭りです。
上の動画はおそらく運営している方の撮影だと思われますが、とにかく迫力があります!!そして実況が面白い!!

出演者は地元の方がメインっぽいですが外国人の方もいました。動画では後半グダグダになっていますが、白熱しているところだと本物さながら、ガチで槍を叩いています槍決戦全部で500人以上が出演しているみたいです。


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それで面白かったのが上の写真カメラ
よーく見てみてください...


タバコ吸ってますたばこ他にもファンタ飲んでる人もいました。


当日は武者行列をやったりイベントも様々。ホントお勧めです!!
もし行く場合は車で行かないほうがいいです。歴史館の駐車場は絶対に入れないです。入れるとしても大分待つと思います。


それでは興味を持たれたら是非行ってみてくださいひらめき電球これはホントお勧めナンバーワンですグー

それでは...ドロン忍者

正龍寺(北条氏邦夫妻・藤田康邦)

2012-02-04 06:00:00 テーマ:武将の墓巡り (埼玉県)

今回は北条氏康の三男、北条氏邦夫妻、そしてその養父である藤田康邦夫妻の墓がある埼玉県の「正龍寺(しょうりゅうじ)」を紹介します寺



住所は埼玉県大里郡寄居町藤田101-1、アクセスはJR八高線寄居駅から徒歩30分くらいでしょうか?

自分は車で行ったのですが中々苦戦しました(°д°;)道が細く看板が見当たらなかったのであせる



現地案内板をまとめると...

正龍寺の創立は、花園城主藤田五郎政行で、文治4(1187)年城下に青龍が出現し、龍泉の湖をつくり住んだといわれており、ここから貞和4(1348)年臨済宗の僧實翁和尚が、山号を青龍寺と号したそうです。

天文元(1532)年15代城主藤田康邦のとき、乾翁瑞元和尚が教化し、龍泉の湖の青龍を化龍して、「八代龍王」をこの寺に祀りました。青龍寺は、後に昌龍寺と改名され、天正19(1591)年に現在の寺号正龍寺に変わりました。



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北条氏邦は知ってるけど、藤田康邦って誰?マイナー過ぎ!!と言う人の為に簡単に説明すると...



よく関ヶ原合戦が描かれた時代小説を読んでると、上杉征伐前に徳川家に上杉家から「上杉に謀反の兆しあり!!」と一族郎党を連れ出奔してまでも知らせに来た人がいますよね。この人は藤田信吉、この人の父が藤田康邦です。



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(境内の奥に行き、墓地に御霊屋のようなものが...この中に北条氏邦夫妻、藤田康邦夫妻の墓が。)



ここから詳しく書くと、藤田氏は平安時代からこの地一帯を治め、室町期には関東管領上杉氏の重臣でした。

しかし戦国期に北条氏康が関東北部に進出し、日本三大奇襲の一つ、川越夜戦で関東管領軍を打ち破ると当時、藤田氏の当主だった重利(のち康邦)は一族を守るため北条氏に屈服します。



この時服属の証として北条氏康の三男、乙千代(のち氏邦)を娘(大福御前)婿に迎え、家臣と天神山城を明け渡します。

一説に名前も氏康の「氏」、氏邦の「邦」を拝領して康邦と変えることでさらに服属の意を表したそうです。

氏邦(乙千代)が藤田康邦の養子と決まったのはまだ10歳未満のときと考えられ、天神山城で家臣とともに領国経営をしていました。康邦自身は子供の重連・信吉を連れ用土城で隠居、名前も後に用土新左衛門尉と変えました。



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(藤田康邦夫妻の墓)


天文24(1555)年に康邦が亡くなり、氏邦が成長すると、御役御免と言わんばかり、今まで用土氏(藤田氏)家臣団の取次ぎをしていた用土氏(藤田氏)への冷遇がさらに進み,天正6(1578)年に危険視された重連が氏邦によって毒殺されました。



憤慨した康邦次男の信吉(異説あり、次男ではなく孫?甥?)は城代に任命されていた沼田城を武田方に明け渡し寝返る事になります。その後、武田が滅び、織田、上杉と主を代え秀吉の小田原征伐の際に氏邦が籠る鉢形城攻めで上杉軍の先鋒を任されました戦い



北条方は多勢に無勢、篭城の甲斐なく開城します。このとき信吉は姉である大福御前と、その夫であり仇敵である義兄の氏邦を助命嘆願したとしています。

この時、信吉の心境はどんなものだったのでしょうか?攻めている鉢形城の敵の中にはかつての藤田家臣が見え、兄を殺した氏邦の助命嘆願もしなければならなかった...(姉に氏邦の助命嘆願を頼まれたから?)



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(北条氏邦夫妻の墓)



と、信吉の話はここまでにして、その後の氏邦です。

氏邦は信吉の助命嘆願の甲斐があり、前田家に身柄お預け、晩年まで七尾城付近で過ごし慶長2(1597)年に亡くなり金沢で荼毘に付されここ正龍寺に葬ったそうですお墓氏邦の跡は末子、庄三郎が継ぎ前田慶次の娘と結婚しその子(主殿助)に子供がいなかったので途絶えたそうです。



氏邦は義弟を殺すなど残忍な面もありますが正龍寺で開かれた法要では一山を越える人が集まり氏邦の人気の高さが伺えたそうです。

もしかしたら義弟の重連を毒殺したのも藤田家臣を統制するために仕方が無くやったことかもしれません。



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(鉢形城対岸側から)


日本100名城の鉢形城まで来たら是非、正龍寺も足を運んでみてください歩く

割かし近いですひらめき電球



それではここらへんで...ドロン

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