F1の原点は、興行かそれとも競技か
テーマ:ブログなぜ、F1チームの予算規模がこれほどまでに膨れ上がってしまったのか。
それは、バーニーとモズレーが、F1を興行的に盛り上げるために、巨大自動車メーカーを次々にF1に招いたからだ。
自動車メーカーはF1チャンピオンのステータスを手にすることによって、(のれんの価値としての)自社ブランドを強化したかった。F1の興行主と自動車メーカーの利害はこの点で一致していたのである。
自動車メーカーはなんとしてもF1チャンピオンの栄冠を手にするため、互いに譲らず、過当競争を繰り広げた。それはつまるところ、予算規模の際限なき拡大として現れた。
F1は年々スケールアップしていき、ショービジネスとして大成功を収めている。
だが、その一方で、F1の競技としての性質は失われていったのではないか。
具体的には、以下の二点を指摘したい。
1.プライベートチームとワークスチームの実力差の拡大
本来、競争はなるべく等しい条件の下で行われなければ、これが公正(フェア)であるといえない。
今のF1は、プライベートチームとワークスチーム(自動車メーカー系のチーム)の予算規模が違いすぎて、はっきりいってプライベーターが競争についていけてない。
純粋なレーシングスピリッツのために走っているようなF1チームが、マーケティングのためにやっているようなチームに駆逐されるのは、あまりに不条理だ。たとえば、スーパーアグリは世界中のファンから愛されたが、資金難の末に消えてしまった。
2.ドライバー選考における歪み
単純な話、速いドライバーがF1に乗るべきである。F1が純粋な競技であるとすれば、競技者としての能力のみを基準として、ドライバーが選考されるはずである。
今のF1は、おおむね、そうなっている。
しかし、下位のプライベートチームの、特にセカンドシートは、スポンサーマネーに換金されるのは、もはや当たり前のことになっている。
予算に上限を定める規約には、もちろん賛成である。必ず、実効性のある形で導入・適用してほしい。
ただ、一つの規約がどうのこうのではなく、もう一歩踏み込んで、もう一つ掘り下げて考えたい。
すなわち、F1は競技としての原点を思い出すべきである。
正しい方向に一番努力したドライバーおよびチームが勝者となる世界、F1にはそうであってほしい。






